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婚約破棄は誰が為に~婚約破棄をされた令嬢の、そのずっと後の話~

作者: 疾風 颯
掲載日:2026/01/21

 一点の曇りもないほどに磨かれた床に、豪奢なシャンデリアがいくつも反射している。その上に集まる人々もまた瀟洒な衣装を身にまとい、花々は絢爛に咲き誇っている。ここは今、世界で一番煌びやかな場所と言っても過言ではないだろう。王立学園の大広間、卒業記念舞踏会の最中である。

 突如、そんな空間を引き裂くように、剣呑な声が響いた。

「それ以上イレーネに近づくな!」

 大広間の中央に、一組の男女と一人の女性がいる。

「あら、そのように大きな声を出されなくとも聞こえておりますわ、殿下」

 そこにいるのはこの国の次なる太陽、マリウス第一王子その人である。その煌めく黄金の髪は、王家の威光に照らされ輝く。

「近づくなと言ったのが聞こえなかったのか、クラウディア」

「ですから、離れておりますわ。まさか、この距離で危害を加えることが可能だとでもおっしゃるのですか。それに、これ以上離れてはお話もできません。あいにく、殿下ほど声が大きくありませんもの」

 相対するのは王子の月となるべき女性、クラウディア・キルステン公爵令嬢だった。女性の身でありながら、その智謀は老獪な宮廷貴族をもって手放しで称賛すると言う。

「わたくしはただ、その令嬢の服が乱れていることをお伝えしようとしただけですわ。せっかく殿下にエスコートされているのですもの。並び立つにふさわしい身なりをしませんと」

「嘘を吐け! 見ろ、イレーネの怯えようを。これが危害を加えられそうになった以外に何がある!」

「クラウディアさま、こわいです……」

 声を荒げる王子の腕には、亜麻色の髪をした令嬢が絡みついている。そしてそのドレスは、この場にいる女性の誰よりも豪華であった。

「はて、お腹でも痛いのではありませんか。慣れていないとコルセットは苦しいですもの」

「そうやってまた生まれでイレーネを差別する。お前にはもうほとほと愛想が尽きたぞ、クラウディア……」

 王子は息を大きく吸い込んで、今までよりもさらに大きな声で宣言した。

「今このときをもって、お前との婚約を破棄する!」

 この発言に、今まで傍観に徹していた他の卒業生たちがにわかに騒がしくなる。まるで市井で話題の歌劇のようだ、と。

「それは了承致しかねますわ。この婚約は王家と公爵家による正式なもの、殿下の裁量で破棄することはできません」

 クラウディアは顔色一つ変えず、冷静に、淡々と事実を告げる。雑踏の中から『氷雪の令嬢』という呟きが漏れた。

「そもそも、一体どんな正当性があってそうおっしゃるのですか」

 その言葉に、王子は分かりやすく眉を吊り上げた。

「どんな、だと? まさか自覚がないとは、……お前のような者を、真の邪悪と呼ぶのだろうな」

 一呼吸置き、王子は仰々しく言葉を発した。

「今ここで、お前の悪事を告発する!」


§


「――どうだ、これがお前の悪行だ。これでもまだ、己に非がないと宣うか!」

 蝋燭も明らかに目減りしてきたころ、ようやく王子の話が終わった。その長い時間を要して伝えられたのは、いかにクラウディアがイレーネ男爵令嬢を差別し、虐めていたのかということである。やれ階段から突き落としただの、やれ所有物を損壊しただのと、群衆の中から証人が幾人も躍り出て、舞台の上で弁を振るった。

 そして糾弾されたその当人は、会場の全員に聞こえるほどに大きくため息を吐いた。

「何をおっしゃるのかと聞いてみれば、とんだ――」

「――とんだ茶番劇ですね、兄上」

 突如、新たな役者が舞台に上がる。

「テオドール、なぜここに!」

 第一王子と対を成すもう一つの星、テオドール第二王子である。その髪は夜空のように黒く、歳に似合わぬ落ち着きを見せる。

「在校生を代表し、先輩方に祝辞を述べるためにやってきたのですが、……はて? 私は会場を間違えたのでしょうか。ここは安い芝居を見るための小劇場のようです」

「俺たちを愚弄するなら、いくらお前とてただじゃ置かんぞ!」

 テオドールの挑発に、第一王子は分かりやすく激昂する。

「全くもって事実無根ですね。――ああ、これは私が兄上を愚弄したということについてではございません。先ほどの、見るに堪えないキルステン公爵令嬢に対する糾弾について、です」

「何だと――」

「第一に、誰一人として直接的にキルステン公爵令嬢の姿を見ていない」

 第一王子に反論させる間もなく、またクラウディアが口を挟む隙間もなく、テオドールは次々にクラウディアの無実を語った。一つ一つ、クラウディアに向けられた刃が折られていく。それとともに、第一王子と男爵令嬢の旗色は悪くなっていった。

「――さて、このような事実誤認の果てに、公爵令嬢を罪人扱いするとは、いったい何事でしょうか。これは立派な冤罪事件ですよ」

 差し向けられた切っ先に、第一王子は怯む。

「嘘よ!」

 男爵令嬢がここで初めて大きな声を上げた。

「私は、クラウディアさまにいじめられたの、本当よ! 私だけは、見ているの。私が証人よ!」

 第一王子はその言葉を聞き、はっとした表情になってまた口を開く。

「そうだ、イレーネは被害者だぞ! どうして信じてやらないんだ!」

 声を荒げる二人に、テオドールはやれやれといった様子でため息を吐いた。

「話が通じませんね。どうしましょう――陛下」

 その言葉に、空気が一変する。テオドールが向いた方向には、一つの扉。それは()()()()()()()()()()()()。そして、扉が開く。

「マリウス、それで良いのだな」

 幾人もの騎士の中から現れた初老の男性。第十三代国王その人であった。

 その姿を確認するや否や、その場にいる全員が膝をついた。第一王子と男爵令嬢を除いて。

「父上、俺たちは間違っていません! 聞いてくださ――」

「もうよい」

 第一王子の言葉を、王はすぐに遮った。

「マリウス、王宮に戻れ」

「ですが!」

「戻れと言っている!」

 語気を荒げ、有無を言わせぬ様子で第一王子を一喝すると、王は未だ跪く者らに向き直った。

「騒がせた。この場は解散とする。補償は後日行うため、安心するとよい」

 そうして波乱の卒業記念舞踏会は幕を閉じた。

 その後、クラウディア・キルステン公爵令嬢の冤罪は晴れ、テオドール第二王子と婚約を結んだ。第一王子は王城の一角に幽閉、男爵令嬢は辺境の修道院に送られたと言う。

 後世において、この出来事が大して語られることはない。テオドールは稀代の名君として称えられ、クラウディアもまた良き王妃として伝えられているのみである。


 落ちていく。それは流水のように、しかし一つ一つが形を成して、着実に、時を刻む。やがて全てが落ちたとき、世界は逆さまにひっくり返り、もう一度流れ始める。

 再び全て落ちきったとき、終ぞ動き出すことはなかった。

 汚れ一つない白磁のポットから、深い赤色の液体が注がれ、湯気は天に上る。華やかな香りが広がり、その空間はくつろぎの場へと塗り替えられる。

「キルステン領産の初摘みでございます」

「ご苦労様」

 ここは王宮の上階、王妃クラウディアのサロンである。ここは王妃が客を招き、茶を楽しむために作られている。最高級の茶葉に最高級の茶器がそろえられている。

「キルステン領は良い茶葉を育てているのだな」

「光栄です、陛下」

 二人は向かい合って座り、茶を楽しむ。しかし、それはいつも通りのことではない。互いに執務で忙しく、二人きりの時間など久しく取っていなかった。

 机に置かれてカップが鳴る。

「して、何の用だ」

「まあ、用がなければ共に茶を楽しむこともできませんの?」

 クラウディアは目を細めて笑う。

「皮肉屋なのは相変わらずだな。だが、何か用があって呼んだのだろう? そうでなければ、皮肉を言うこともないはずだ」

「陛下は私のことをよくわかっていらっしゃる様子。では、隠し事が嫌いなこともお分かりのはず」

 そう言ってクラウディアは一つの便せんを取り出し、テオドールの前に置いた。

「これは?」

「北方、ヘンライン子爵領にある村の、個人的な調査依頼の報告書です」

 テオドールは口を開かない。

 その中身は、何てことのない記録だった。その村には何があるのか、どんな人が住んで、何をして暮らしているのか。それだけが記されている、平凡な報告書だ――最後の一文を除いて。

「イリーナ・シュッツ元男爵令嬢に該当する人物は確認できなかった」

 クラウディアがその一文を暗唱する。

 そう、その村こそ、かつてクラウディアの婚約者であった第一王子にすり寄り、失敗した男爵令嬢が送られた修道院のある場所、そのはずだった。

「なるほど。これは再度調査をする必要がありそうだな」

「そう。そうおっしゃいますのね」

 細められた眦から、暗い眼が覗いている。

「昔のあの方は、あのように直情的ではありませんでした」

「兄上は変わられてしまった。若き日とはそのようなものであろう」

 口の中がやけに乾く。

「そこの使用人は、丁度あの子と同じくらいの身長ですね」

「並の身長だろう。大して珍しくもない」

 身動ぎひとつさえ耳に障る。

「陛下の登場は、とても都合が良くございました」

「私はただ、私にできることをしたまでだ」

 紅茶の香りはどこかへ行ってしまった。

「先王陛下の言葉も、今思えば含みがあった」

「あの言葉に、言葉以上の意味はないだろう」

 クラウディアはもう一度カップに触れた。上る湯気は鳴りを潜め、既に紅茶は冷めている。

「どうしても、話してはいただけないのですね」

「言ってどうにかなることでもあるまい。であれば、私は過去の選択を貫くしかできない」

 すでに答えは出ている。テオドールにできることは何もない。

「王兄殿下に面会を申し込みます」

「……手配しておこう」

 すっかり冷めた紅茶を呷った。


 王宮の敷地の片隅にある、石造りの小さな塔。螺旋階段のその先で、クラウディアは扉の前に立っていた。

 ノックを一つ。

「はい?」

 戸惑いを含んだ声がして、しばらくすると足音が近くまでやってくる。それを確認すると、クラウディアは外開きの戸を開けた。

「お久しぶりですね、マリウス殿下」

 鉄格子の向こうで、ぽかんと間抜けな面をさらす男こそ、かつての第一王子、マリウスだった。

「クラウディア? どうしてここに……」

「改めて申し上げたいことがございまして」

 その顔を見るだけで幾分か溜飲が下がる思いであったが、クラウディアがマリウスに会いに来た理由はその先にある。

「しゅ、守衛はどうしたんだい?」

「許可は得ています」

「……そうか。あ、いや、そうでございますか、王妃殿下」

 マリウスは鳴れない敬語で返そうとするが、クラウディアはそれを制した。

「それよりも、もう少しこちらへ近寄っていただけますか」

 言われるがままに、マリウスは鉄格子のすぐ前までやってきた。

 クラウディアはその手に腕を伸ばして――

「いでででっ!」

 思い切りつねりあげた。

「楽しいですか? 義務を放りだして悠々自適に暮らすのは」

「分かった、分かったから離してくれ!」

 嘆願するマリウスを見て、クラウディアはようやくつねりあげていた指を離した。

「その鉄格子に感謝してくださいね。許されるなら一発差し上げたいくらいですので」

「まるでつねるのは許されているみたいな言い草だね……。その様子だと、僕らの芝居に気付いちゃったのかな」

 まるでイタズラがバレた子供のように、マリウスは無邪気な表情を浮かべた。それを見てクラウディアは、幼き日のマリウスを思い出す。今と全く同じ顔をする、聡明で、しかし子供っぽい小さな姿。背丈はずいぶん伸びてしまったが、過去の姿と今の姿が、幾年もの時を経てようやく重なる。

「やはり殿下は、お変わりになど、なっていなかったのですね……」

 かつてマリウスは、次代の王としてその期待を一身に背負っていた。幼いころから優秀で、王太子として申し分ない評価を得ていた。それが重荷となった。しかしその舞台から降りるのは簡単なことではない。故に、弟のテオドールと共謀し、結果その荷を下ろすことに成功した。

 その代償が、初めてマリウスの前に顔を見せる。泣き出してしまったクラウディアを前に、マリウスはどうすることもできなかった。

「すまない、すまない……」

 謝ったところで、過ぎた日のことはどうにもならない。聡明にして稀代の道化であるマリウス唯一の誤算は、婚約者が自分のことをどう思っていたのかということにまで考えが及ばなかったことである。

「どうして、何も言ってくれなかったのですか」

「君は、きっと反対しただろう」

「当たり前です! 私の人生は、殿下と共に歩むため、ただそれだけのためにあったのです……」

 生まれる前から決められていた婚約だった。しかし、それだけではなかった。マリウスの人柄に触れ、この方に生涯尽くせるのだと、誇りに思っていた。時折見せる無邪気な表情に、心を奪われていた。愛していたのだ。

「殿下、お慕いしておりました。……さようなら」

 クラウディアは去っていった。ドレスの裾が引きずられていくのが、やけにマリウスの目に残った。


 訪れる者のほとんどいない塔に、その日は珍しく二人目の客が来ていた。

「僕は、間違っていたのだろうか」

「何を今さら」

 そこに集うのはかつての共犯者、或いは喜劇の演者たち。グラスを片手に、過去の罪を忘れ、或いは思い出すつかの間のひと時。

「俺たち全員、間違っていたんだよ」

 一人は己が自由のため。一人は惚れた女のため。一それぞれの身勝手で演じた三文芝居は、やはり安い芝居に他ならず、心に影を落とすばかりだった。

「もし何もしていなかったら、どうなっていただろうね」

 それはきっと恐ろしく平穏で、少しの疲労はあれど、各々笑っていられたのかもしれない。たらればの話は何の意味もないが、そう考えずにはいられない。

「……小説を書こうと思うんだ」

「名案だな。時間ならたくさんある」

「その皮肉は彼女から移ったのかい?」

 ここで二人は初めて笑った。

「国を挙げて応援する、とは言えないが、俺個人として応援しよう」

 夜は更けていく。来たる明日がどうなるかは、誰も知らない。


§


 とある王国の市井では一つ、特異なジャンルが流行している。人々の間では「悪役令嬢モノ」の名で知られている、貴族社会の恋愛を描いた作品である。その名を冠する悪役令嬢というのは、馬鹿な王子に婚約を破棄されるが、その後幸せになるのだという。しかし、本当に悪役を演じていたのは、一体誰だったのか。真実は誰も知らない。

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