004 祝福すらも服従させて
姉がなにか言う前に、サーシャは小さな身体を翻し、家を飛び出した。向かう先は、この地区で最も大きいアンゲル教会の聖堂だ。かつてスラム街で育ったサーシャにとって、見知らぬ土地で目的地を探すことなど朝飯前だった。
荘厳なステンドグラスが嵌め込まれた聖堂に足を踏み入れる。内部は静謐な空気に満ち、敬虔な信徒たちが祈りを捧げていた。無神論者のサーシャにとっては反吐が出るような光景だが、今は感傷に浸っている場合ではない。
サーシャは祭壇の近くにいた、恰幅の良い神父に駆け寄った。そして、幼女のか細い声を最大限に利用する。
「あの、神父様。わたしに、祝福をください!」
神父は驚いたように目を見開いたが、すぐに慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「おやおや、小さな子羊よ。神への信仰心、感心です。ですが、祝福の儀は心身に大きな負担がかかる。君のような年齢では危険すぎるのですよ」
「でも、お願いです! どうしても、力が必要なんです!」 サーシャは目に涙を溜め、今にも泣き出しそうな顔を作った。ハリウッド女優も顔負けの演技だ。 「お父さんはお酒に溺れて、お母さんを殴って……。さっき、お母さんはお父さんからわたし達を守るために、罪を犯して警察に連れて行かれました。このままじゃ、お姉ちゃんとわたし、二人で生きていけません……!」
悲劇のヒロインの独白に、神父は明らかに動揺した。周囲で聞き耳を立てていた信徒たちも、同情的な眼差しを向けている。
「なんと、それは、あまりにも……」
「祝福さえ受けられれば、わたし、働けます! お姉ちゃんを守れます! どうか、どうか神の御慈悲を……!!」
サーシャは祈るように手を組み、神父を見上げた。その翠の瞳は潤み、誰が見ても庇護欲を掻き立てられる天使そのものだった。
神父はしばらく葛藤していたが、やがて深く溜め息をつくと、意を決したように頷いた。
「……分かりました。主アンゲルは、試練に立ち向かう者を決してお見捨てにはならないでしょう。特例です。さぁ、こちらへ」
(チョロいもんだ)
内心で舌を出しながら、サーシャは神父に連れられて儀式の間へと向かった。 部屋の中央には魔法陣のようなものが描かれ、周囲を無数の燭台が囲んでいる。神父が祈りの言葉を唱え始めると、魔法陣が淡い光を放ち始めた。
「さぁ、子羊よ。陣の中心へ。これから汝の内に眠る魂に、神の力が注がれます。凄まじい苦痛が伴いますが、決して信仰を失ってはなりませんぞ」
サーシャは言われた通り中央に立つ。次の瞬間、全身を万本の針で貫かれるような、あるいは内側から焼き尽くされるような激痛が襲った。姉が「相当苦しかった」と言っていたのはこれか。常人ならば一瞬で意識を失うか、発狂するレベルの苦痛だ。
神父が「耐えろ、子羊よ!」と叫ぶ。 だが、サーシャの口元に浮かんでいたのは、苦悶ではなく━━獰猛な笑みだった。
(あぁ、そうだ。この痛みだ。死ぬ間際に感じた、あの快感に似ている)
サーシャは、その暴力的なエネルギーの奔流を、恐怖ではなく、懐かしさすら込めて受け入れた。長年、死と隣り合わせで生きてきた精神は、この程度の苦痛で揺らぐほど脆くはない。むしろ、この力を支配してやろうという征服欲が湧き上がってくる。
(おれのモンだ……神? 悪魔? そんなものにおれが慄くわけねぇだろうが!!)
心の中で叫んだ瞬間、サーシャを苛んでいた奔流がピタリと止んだ。いや、違う。サーシャの意志に『服従』したのだ。
その時、儀式の間で不可解な現象が起こった。 神父が持つ分厚い聖書が、ふわりと宙に浮いた。燭台の炎が一斉に揺らめき、蛇のように形を変えて天井へと昇っていく。儀式の間に満ちていた神聖な圧力が、まるで嘘のように霧散した。




