003 いざ祝福へ
母親は手際が良かった。
警察に電話をかけ、夫に暴力を振るわれ、カッとなって殴ってしまったと涙ながらに訴えた。サーシャが父を殴った血染めの瓶は、すでに彼女の指紋だけがべったりと付着している。サーシャは物陰から、その一部始終を冷めた目で観察していた。
(芝居がかった女だ。だが、肝は据わっている。良い女だな)
間もなくしてサイレンの音が近づき、制服姿の警官が二人やってきた。母親はやつれた顔で、しかし毅然とした態度で罪を認め、彼らに連行されていった。家を出る直前、彼女は一度だけサーシャを振り返り、その目に「生きなさい」という強い光を宿した。
警官たちが去り、静寂が戻った薄汚れた部屋で、サーシャは倒れた父親を一瞥する。息はあるが、頭からの出血が酷い。救急車も呼ばれたようだが、助かるかどうかは五分五分といったところか。
(ま、死んだほうが良い存在かもな。自分の妻に暴力振るうようなクズだし)
問題はこれからだ。この幼い身体で、どう生き抜くか。そう考えていると、玄関のドアが勢いよく開いた。
「ただいま……、え!?」
入ってきたのは、サーシャより少し年上に見える、同じ金髪の少女だった。亜麻色の髪を三つ編みにした、そばかすの似合う素朴な顔立ち。母親が言っていた「お姉ちゃん」だろう。彼女は部屋の惨状と、血を流して倒れている父親を見て、顔を青ざめさせた。
「お父さん!? サーシャ、一体なにがあったの!?」
姉はサーシャの肩を掴んで激しく揺さぶる。その瞳は恐怖と混乱で潤んでいた。
「見ての通りだよ。母さんが父さんを殴った」
サーシャは淡々と改ざんされた事実だけを告げる。その冷静すぎる態度に、姉は怯んだように手を離した。
「そ、そんな。お母さんが刑務所に?」姉は床にへたり込み、わっと泣き崩れた。「どうしよう、お父さんも呼吸してないし……私たちこれからどうなっちゃうの?」
「お姉ちゃん、落ち着いて。泣いたところでお母さんは帰ってこないし、お父さんは死ぬ可能性のほうが高い」
幼女の愛らしい見た目と鈴のような声色で、サーシャは名前も知らない姉を落ち着かせる。
「うん……」
「となれば、私たちも働くしかない。少なくとも、お母さんが帰ってくるまで」
「お母さん、どれくらいで帰ってくるかな……」
「死んでいても情状酌量の余地がありそうだから、多分執行猶予付きで戻ってこられると思う」
「確かに……お父さん、酔っ払うといつもお母さんを殴ってたから」
「でしょ? おれ、いや私もなんとかしてお金稼いでくるから、お姉ちゃんも頑張って」
「さ、サーシャが? 貴方8歳なのに?」
「緊急時に歳なんて関係ないよ」
まずは情報収集から始めなければならないが、それでもサーシャには自信がある。確かに腕力は弱まっていたが、あの天使もどきが言っていた〝アンゲル教〟という宗教になにか突破口があるかもしれない。たとえば……、
「あぁでも、お姉ちゃん。ひとつ質問して良い? アンゲル教は教会からの祝福を受けることで、異能力を手に入れられるんだよね?」
確証なんてどこにもない。ただ、あのとき鏡で見た限り、手から炎だったり電撃だったりを繰り出しているアンゲルス連邦共和国の住民もいた。
「う、うん。でもサーシャの年齢だと、祝福に耐えきれないと思うよ? 私だって相当苦しかったし」
(ビンゴ。やはりこの国の住民は、異能力を持っているのか)
「大丈夫、お姉ちゃん。大事なことだから何度でも言うけど、今は非常事態だからね」サーシャは姉を励ますように、陽気な笑みを浮かべた。「祝福、受けてくるよ。それさえあれば、多分きっと万事うまくいく。そうじゃなかったら……何度でもひっくり返すだけさ。締まらない結末なんて」




