002 くだらねぇと呟いて
サーシャが言い終えると同時に、世界が白く塗りつぶされた。鏡は砕け散り、白い髪の女の姿も掻き消える。次に彼が感じたのは、柔らかな陽光と、肌を撫でる心地よい風だった。
(……ここはどこだ?)
建物の中にいるのは間違いない。ゆっくりと開けた視界に映ったのが、見慣れない木製の天井だったからだ。
(とりあえず、起き上がるか)
身体を起こそうとして、サーシャは違和感に気づいた。やけに手足が短い。視線も低い。そしてなにより、身体が羽のように軽かった。
(一体何者になっちまったんだ? おれは)
のろのろとベッドから降り、近くにあった姿見を覗き込む。 そこに映っていたのは、くたびれた殺人鬼ではなかった。
陽光を溶かし込んだような艶やかな金髪。深い森の湖面を思わせる、大きく潤んだ翠の瞳。雪のように白い肌に、人形のように整った顔立ち。年はせいぜい6、7歳といったところか。簡素なワンピースを着た、天使と見紛うばかりの愛らしい少女が、呆然とこちらを見ていた。
「……ハッ、くっだらねぇ」
喉から漏れたのは、乾いた笑いだった。だが、実際に聞こえたのは鈴が鳴るような可憐な声だ。そのアンバランスさが、サーシャの神経を逆撫でする。
「これが、『相応の弱体化』かよ。あのクソ女、悪趣味にも程がある」
幼い唇から吐き出された悪態は、誰に聞かれることもなく空気に溶けた。これが、自分が殺しで日銭を稼げないようにするための足枷。確かに、こんなか弱い幼女に殺しなど依頼する人間はいないだろう。腕力も、体力も、長年培ってきた肉体の全てが奪われていた。
サーシャは、いや、この身体となった少女は、小さな拳を握りしめる。だが、その手はあまりにも小さく、非力だった。
そのとき、部屋の奥のほうから悲鳴と怒号が聞こえた。「なんだ?」とサーシャは呟き、その声の主の元へと向かっていく。
「キャーァ!! 辞めてぇ!!」
「テメェ、おれの酒代使いやがったな!? ぶち殺してやる!!」
サーシャは、なんとなく状況を理解した。
まず、このふたりはサーシャの両親だ。母親的な存在に先ほど見た自分の面影がある。それに加え、父親的な存在は母親にDVを行っている。どうやらアルコール依存症のようで、カネを奪われたと憤っているのだろう。果たして本当に母が父のカネを没収したか、それとも父の思い込みかは置いておいて、サーシャは近くに手頃な酒の空き瓶があるのを視認する。
そんな中、父親らしき人物が、包丁を持って母親らしき人物を刺そうとした。これは危ない、とサーシャは脊髄反射的に机の上に乗り、両手で瓶を構えて父の頭にそれをぶつけた。
母らしき者が間の抜けた声を漏らす。「え……?」
空き瓶は血で染まっている。腕力のなさと、そもそも瓶はそう簡単に割れないので、ちょうど良い鈍器になったというわけだ。
「大丈夫ですか? お母さん」
サーシャは、さもなにもなかったかのように、頭を強く打って倒れた父を後目に母らしき者に話しかける。
「う、うん……。大丈夫だけど、サーシャ。なんでこんなことしたの?」
「お母さんが殺されそうだったからですよ。子どもは親を守らないといけないので」
「で、でも━━「なら死にたかったんですか? クレイジーな男が刃物を持って、お母さんを刺そうとしたんですよ? 正当防衛も良いところでしょう」
母らしき人物はしばし黙り込む。サーシャもあえて沈黙を破ろうとはしない。
そうしたら、母は瓶をタオルで拭き始めた。指紋を隠すためだろう。
「…………サーシャ。お父さんを殴った犯人は私ということにしておく。そして身代わり出頭するわ。しばらく勾留されると思うけど、その間生活できる?」
サーシャは即答した。「できますよ。お母さん」
「分かったわ。お姉ちゃんにも、この話は内緒よ」
どうやら姉もいるらしい。サーシャは「はい」と話を合わせる。




