僕たちは今日も、寄り道をする
「おばあちゃーん、これください」
膝の上に猫を乗せながら舟を漕ぐ駄菓子屋の店主は、今日も返事を返してくれない。代わりに猫は気配に気づいてピクリと耳を立てる。
「毎日これじゃ、万引きし放題だよな」
海郷くんはそう言いながらも、いつもきちんとジュース代をレジの横に置く。僕も同じようにアイス代を置いた。
おばあちゃんの膝の上で大人しくしているこの店の看板猫(と海郷くんは言っている)をひょいと持ち上げると、海郷くんは優しくその背を撫でて話しかける。
「でもいざというときは、お前が番猫するんだぞ~。ちゃんと戦える猫だもんな」
ばんねこ。あぁ、番犬の猫バージョンってことね。
「だってほら、俺には大人しいけど……」
海郷くんが猫を僕に近づける。すると途端に、猫は僕に向かって威嚇を始める。
「お前にはいつもこうだもんな。万引きしたことあんの?」
万引きはおろか、嫌われることをした覚えもないんだけどなぁ……。
僕だって、愛してあげたいんだけど。
猫は僕を見るのも嫌なのか、腕の中からぴょんと飛び出していった。
「上、行くか」
海郷くんが人差し指を真上に向ける。僕が頷くと、一緒に店を出た。
外に出ると、一斉に蝉の声で出迎えられる。空は青々とした快晴だ。僕たちを溶かそうとさんさんと照っている太陽が眩しい。駄菓子屋のすぐそばにある長い石段を登ると、神社が見えてくる。僕らの寄り道スポットだ。
鳥居の前に立ち、二人そろって礼をする。神社に入る前の礼儀だと、昔海郷くんが教えてくれた。僕らは日陰を目指して奥へと進み、いつもの特等席である石でできたベンチに座った。
片手に持ったままの棒アイスを袋から取り出すと、少し溶けていた。
「お前、いつもそれだな」
そういう海郷くんも、いつも同じ炭酸ジュースで飽きないね。
僕は白いバニラのアイスを口に含む。冷たい触感と甘い香りが広がる。最高だ。真夏の空の下、この瞬間が一番夏らしさを感じる。
もうすぐ、夏休みだね。
「あー、まだなんも決めてねぇわ、予定」
プシュ、と音がして海郷くんはお気に入りの炭酸ジュースをごくごく飲む。よくできるなと毎回思う。僕は炭酸のぴりぴりする感じが苦手であんまり飲まない。
どこか行きたいけど、こんな田舎じゃあ学生が遊びに行くのも一苦労だもんね。
「お前が原付の免許取ってくれたら、どこにでも行けんのに。免許取れよ」
またそれか。夏になる少し前から、海郷くんは僕にどうしても原付の免許を取ってもらいたいらしく、こうして免許の取得を進めてくる。
できないよ。
「なんでだよ。金ねぇの? 俺んとこのバイト先、紹介してやろうか?」
ないわけじゃないけど……無理。
「ははぁ。さてはお前、びびってんな? 心配すんな。あんなのチャリンコと同じだから」
同じじゃないよ。海郷くんはスピード出しすぎなんだよ。都会だったら捕まってる。
「あんなんで捕まるわけねぇよ」
熱気で蒸されたぬるい風が、汗で張り付いた僕らの髪を揺らす。
僕らの会話は途切れて、ぼんやりと夏の空を眺める。
海郷くんは小学校の頃からの幼馴染みだ。
クールを装ってるけど実はお化けが苦手で、林間学校のときの肝試しでは学年で一番びびり散らかしていた。でも見栄っ張りだから、女子の前でカッコつけたいがために、自分から列の先頭に立って自爆したんだよね。後ろの方にいた女子が、半泣きの海郷くんを見て笑ってたのはいい思い出。
あれから何年経っただろう。もうずいぶん昔のことみたいだ。
僕は小さく息を吸って今日こそは、と一歩を踏み出そうとするけど、吸い込んだ空気は声を響かせずに消えていく。
今日も言えそうにない。
「あ、アイス溶けてんぞ」
海郷くんの声にはっと手元を見ると、アイスは溶けて地面にぽたぽたと流れ落ちていた。慌てて残りを口の中に突っ込む。
いつもと変わらない味。
海郷くんと話してると、いつもアイスが溶ける。
「今年も夏祭りあんのかなぁ」
あるんじゃない? またあの射的の屋台出るかな。当たらないことで有名な。
「あれ絶対インチキだろ。棚の景品、当たった試しがねぇし」
隣りのクラスの増田くん、プラモ当てたって言ってたけど。
「嘘だぁ! 中身カラだったんじゃね?」
他愛もない話。海郷くんといるとどんな話も毎回楽しい。
「今年はさぁ、いろんなことして遊びてぇな」
海郷くんは頭の中でもうその計画を広げているようで、楽しそうに口元を綻ばせる。
そんな横顔を、僕はいつも眺めている。
しばらくくだらないことを話したあと、海郷くんはバイトの時間だと言って立ち上がった。僕も一緒に帰ることにする。
来たときと同じように鳥居に礼をして、一緒に石段を下る。
石段を降りきったとき、僕はとっさに声をかけていた。
ねぇ。
「ん?」
…………。
「なんだよ」
…………。
「佐倉? どうした」
……いや、なんでもない。また明日ね。
「なんだそりゃ。変なやつ。またな」
海郷くんは、僕に背を向けて去っていく。
今日も言えなかった。
今日も僕は、海郷くんの背中が見えなくなるまで立ち尽くす。
いつになったら言えるんだろう。
君と僕は、もう死んでるんだよって。
六十八年前の今日、君はこのあとバイトに行く途中で事故に遭う。
車に轢かれそうになったあの看板猫を助けようとしたんだよね。
あの猫、僕を嫌ってたんじゃなくて、君に助けられたから懐いてるんだよ。
君が体を張って助けたあとも長生きしたけど、結局おばあちゃんと君以外、誰にも懐かなかった。
僕はずっと後悔してた。
最後に会ったあの日、もっと長く君と話してたら。寄り道しなければ。なにかが変わってたんじゃないかって。
考えてもどうしようもないのにね。
海郷くん。君が死んだとき、みんな泣いてたよ。
おばけが苦手でクラスで一番のびびりだった君が、一番におばけになっちゃったね。
あの駄菓子屋も、今はもうない。君が死んで数年後、店主のおばあちゃんが亡くなって閉めちゃった。君のお気に入りのジュース、もう買えないんだ。
街のお祭りも、いつの間にかやらなくなった。
君との思い出がどんどん消えていくのを見ていたくなくて、僕は高校卒業とともにこの街を出て都会で暮らし始めた。君のことを忘れようなんて思ったことはない。でも、思い出すのが辛かったんだ。
大学生になって、就職して、結婚して、子どもができて、孫にも恵まれた。
ごく普通の人生だったけど、それなりに楽しかったよ。
だけど、死んだあとに目が覚めたらこの場所に立ってたんだ。
懐かしい制服姿を見たとき、君はずっと、あの日の中で生き続けていたんだと知った。
君はきっと、自分が死んだことに気づいてないんだね。
地面に伸びる影を見つめる。
顎先から汗がぽたりと落ちる。ここは死後の世界なのに、生きているような感覚。
振り向いたら、またあの日が繰り返される。
このまま振り向かずに君を追いかけたら、君との夏は終わってしまうのだろうか。
いつもと同じ蝉の声。
いつもと同じ夏の空。
いつもと同じ僕。
別れの一歩が踏み出せない、僕。
振り向くと、海郷くんが立っていた。
すぐ横の店に親指をさす。
「なぁ、駄菓子屋寄ってかね?」
僕は頷く。
にっ、と笑顔を見せて、いつもの調子で狭い店内に入ると、迷わずお気に入りのジュースを手に取って言った。
「おばあちゃーん、これください」
僕たちは今日も、寄り道をする。
僕ら二人、あの夏に取り残されたままだね。