隣のお姉さんはだらしない
「今日もおつかれー! かんぱーい!」
カシュと缶ビールを開ける音が、ダイニングに鳴り響く。
高々と掲げられる缶と、続くのは明るくもどこか抜けている印象の女性の声。
ごくごくと半分ほど飲み干し、カンッとテーブルへ叩きつけるように缶ビールを置く彼女は、ぐったりと椅子に全身を預けていく。
「んくっ、んくっ……ぷはぁ! ナーくん、おつまみまだー? タレたっぷりの焼き鳥にー、串カツもいいねー。……あっ、シメはコッテリの豚骨ラーメンがいいー」
「無茶振りにもほどがありますよ、奈々恵さん」
ナーくん。
キッチンに立っている俺のことをそう呼ぶ女性は、ぷはぁと息を漏らしながら、テーブルの下へ素足を投げ出していた。
しかも格好は、キャミソールにショートパンツのルームウェア。
油断し切っている姿を俺の前でさらし、アルコールでほんのり頬を赤くしながら注文をつけてくる彼女は、海老原奈々恵さん。
近所の大学に通っている年上の女性で、同じアパートのお隣さん。
一人暮らしをしているのだが、こんな風に家へ上がりこんできては、夕食や晩酌に参加している。
理由はとても簡単だ。
「えー、ナーくんならできるってー。……ふふっ。年下の男の子に、ご飯作ってもらうのさいこー!」
「まあ焼き鳥と串カツなら……って、今夜のメニューは違いますからね」
ビールをこくりこくりと飲みながら、猫のようにだらーとテーブルに溶けていく奈々恵さん。
この姿を見れば分かると思うが、彼女は私生活に問題があり、特に家事が大の苦手だった。
部屋はゴミと洗濯だけした衣服が散乱し、足場といえるのは敷きっぱなしの布団だけ。
本人も寝るためだけの場所と割り切っていて、それが余計に惨状をひどくしていた。
そんな奈々恵さんに心配を募らせた俺の両親が、ご飯だけでもと家に招待したのが事の始まり。
今ではすっかりこの家に溶けこみ、自分でお酒を買ってきては、毎日と言っていいほどだらけた姿を俺に見せていた。
「んんー。まっいいかぁ。ナーくんのご飯、美味しいからねー。三食全部作って欲しいなー」
「それもう、この家に住んでるじゃないですか。ちゃんと自分の部屋があるんですから、そっちに帰ってください」
「ええーやだー。私を起こすところから、寝かしつけるところまで。全部やってー」
「赤ちゃんですか」
駄々をこねてはいるも、あくまでも素足をバタバタと動かしているだけ。
苦いビールで口寂しさをまぎらわせ、テーブルの上に料理が並べられるのを、奈々恵さんはしっかりと待っていた。
大学生とは思えない体たらく。
甘えん坊で、だらけていて、酒好きの健啖家。
そんな情けない姿を、まざまざと見せつけてくる奈々恵さん。
しかし俺の──宮下直人の彼女の第一印象は、お洒落で格好良い大人な女性だった。
「一目惚れ、だったよなあ」
いつかの春の日。
朝早く、学校へ登校するために玄関を出た瞬間、すれ違った年上美人。
アップにされた黒髪の下はナチュラルメイク。
凛とした黒目は優しい眼差しがふくまれていて、目が合ったときにはそっと笑って、こっちに手を振ってくれた。
あの時の衣装も覚えている。
白いブラウスに黒のレーススカートで、ピシッとしたモノトーンの色合いの中に、清楚な可愛らしさがあった。
同年代だったとしても、相手にされるとは思えない高嶺の花。
年下の俺なんかでは、異性としてすら見られるとは思えない。
だからこそ、お目にかかれるだけでも役得だと、心の中で勝手に失恋した気分になっていたのに。
今となっては、この通りだ。
「ん、なになに。ナーくん誰かに恋してるの? 聞きたいなー、私聞きたいなー。お姉さん、恋バナ大好きー」
「気のせいですよ、色々と。ほら、料理できましたよ」
空いた缶ビールを振り子のように揺らしながら、こっちに来て詳しく話せと誘う奈々恵さんに、俺は素知らぬ顔で返事をする。
本当、色々と気のせいだったと思いたい。
今となっては遠くなってしまった、完璧で近寄りがたい、理想的な大人の女性の奈々恵さん。
初対面のときの面影はすでになく、目の前にいるのは、酒におぼれた酔っ払い。
年下とはいえ、年頃の男子高校生の前で安易に素肌をさらし。
ずかずかと、ノック無しで俺の部屋に入ってくるのはもちろん、彼女の部屋に俺が入るのも抵抗なし。
あまつさえこんな体たらくを堂々と見せてくるのだから、理想なんてあったもんじゃない。
「おおー! ぶ厚く切ったチャーシュー入りのチャーハンに、焼き立ての餃子だあ! ……これは飲まねばっ!」
「もう飲んでるでしょう、って三本目ですか。いつの間に」
キンキンに冷やされ、汗をかいた五本の缶ビール。
その内二本は、すでに空となって転がされていて、俺が驚いている間にも流れるようにプシュと音が鳴っていく。
よだれを垂らし、目から椎茸のような光を出す奈々恵さんの前に並ぶのは、ついさっき俺が完成させた料理たち。
湯気を立たせて食べられるのを待っている彼らは、彼女のいう通り、チャーハンと餃子だ。
チャーハンを彩るのは、細かく刻んだニンジンとネギ。
グリーンピースとピーマンは奈々恵さんが嫌いなため参加を拒否されているが、代わりに入っているのは、少量のニラとニンニク。
それらを米と卵、角切りの豚肉と一緒に炒め、隠し味にはオイスターソース。
そして主役とばかりに脇に置かれるのは、自家製だからこそできる、厚切りのチャーシューだ。
続く餃子も皮以外は俺が作った。
野菜はひかえ目で、豚のひき肉の比率は多め。
そうして作った具を、限界まで詰められた餃子は、一噛みするだけで肉汁がこれでもかと口内にあふれ出る。
付け合わせとして市販のキュウリの漬物と、飲酒後を心配してアサリの味噌汁を用意していたが、奈々恵さんの視界には映っていない。
「ふっ、ふへへぇ。ねえ、ナーくん。このチャーハンさあ……」
「これ、そんなホイホイ作れるチャーハンじゃないから、毎日とか無理です」
「ちぇー。ナーくんのいけずぅー」
今できることは無くなったので、俺は奈々恵さんの対面にある席へ。
その最中に、彼女はぶうぶうとわざとらしい文句をいうも、ビールを片手にしたスプーンの進みは好調だった。
すくった分を一口食べるたびに、頬の緩みは隠せていなくて。
自分の分量で混ぜた醤油と酢をつけた餃子なんか、肉汁と旨味とともにビールを喉へと通した後、こちらに振り返っては美味しいと言ってくれる。
「……ナーくん、私のお嫁さんにならない?」
「そのくだり、何回目ですか。耳にタコできるくらい聞いてるんですけど」
「というより、もうお嫁さんでは? ご飯作ってくれるし、部屋の掃除手伝ってくれるし、洗濯もしてくれるし」
「お陰で女性への幻想は無くなりましたよ」
そう、もう俺は奈々恵さんを、綺麗な目では見れなくなっていた。
明日が休日となれば二日酔いになるまで飲み倒し、翌日の介抱なんていつものこと。
好きな食べ物は多いけれど、同時に嫌いな食べ物も多くて、特に嫌いな野菜を前にした時には、チベットスナギツネみたいな目をしている。
洗濯の件だって、毎度下着まで俺が洗っていたら、思うことなんて段々となくなっていく。
憧れた大人の女性はもういない。
ここにいるのは、俺が世話しないと倒れてしまう、駄目なお姉さんだけだ。
「幻想、ね。チラチラ見てたもんねー。今もだけど」
「何がですか」
「私の胸。別にいいよー、お駄賃お駄賃」
「ブッ……げほっげほっ。見っ……てないですよ、別に」
嘘だ。
出会ったばかりの時とは印象が真逆になっているとはいえ、ハッキリ言って、美人なことに変わりはない。
むしろ最初の印象が強すぎるから、今の姿はギャップとなって、胸を撃ち抜くものがある。
そして何度も言うようだけれど、年頃の男子高校生に緩んだ薄着の女性は目に毒で、どうしても彼女の体の方へ視線が向くのは仕方がないことなんだ。
しかし見ていないと意地を張りたくなるのも男の性で、耳が熱くなるのを感じた俺は、目を泳がせながら首を振った。
「隠さない、隠さない。それに私、ナーくんのこと嫌いじゃないし。むしろ大好きだよ?」
「世話係としてでしょう」
「ふふっ。それもだーけーどー、ホントもう、好き好き」
缶ビール四本目。
カランと倒された缶は、コロコロと俺の方まで転がってきた。
それを受け止めつつ、奈々恵さんの顔へ視線を向けると、酔いの回り具合は肌の赤さ以外にも表れていた。
舟をこいでいるようにもみえる、不規則な頭の揺れ。
呂律は怪しく、左手で頬杖を突く姿は傾いたまま。
視線も合ったり外れたりを繰り返し、スプーンを握っている右手は、状態を維持しているのが奇跡に思える。
あからさまに酔っていますと告げる醜態だが、奈々恵さんはここからが長い。
お腹いっぱいになり、意識が落ちるまでこれが続くのだ。
だからこそ、からかい目的の冗談だと俺は油断していた。
「大好きだよ、直人」
天秤の揺らぎはなく、俺の瞳を捉える奈々恵さんの真っ直ぐな視線。
一瞬にして捕まってしまった俺は、テーブル一つ分の距離が空いているというのに、なぜかそれよりも近くにいる感じがしてしまう。
早鐘を打つ鼓動、重なりそらせない二つの瞳。
呼吸すらも止まってしまいそうな、ゆっくりと流れていく時間。
そのどれもが俺と奈々恵さんの距離感を縮め、手を伸ばせば相手の体に触れられる気がして。
でも俺は心を向けるだけで、言葉を飛ばすことはできなかった。
だからなのか──
「だから、ね?」
冷やされた苦いビールを全身に浴びせられる。
「……冷蔵庫から自分で取ってください」
「ええっー! ナーくんのケチー。こんなに愛してるのに、いいじゃんかよー」
「五本も飲めば充分でしょうが。もう、片づけたいんで早く食べちゃってください」
大好きの意味を早とちりした俺に刺さったのは、奈々恵さんが振った、まだ中身がある缶ビールという名の釘。
ようは六本目の催促だった訳で、熱のある視線は、俺の考えているものではなかった。
異性としての好意。
それは俺が勝手に抱いているだけで、奈々恵さんにそんなものがある訳がない。
どこからどう見ても弟分の扱いなのだから、勘違いにもほどがある。
「人の気も知らないで、まったく」
なので、未だに収まらない動悸を誤魔化すため、俺は小声でぼやきながら席を立つ。
その後ろで口を尖らせた奈々恵さんが、おかわりを何度も要求しているも、こっちは真面目に相手をしている余裕はなかった。
もう一度、同じことをされたらどうなる?
その先を考えて首を振って、落ち着けと自分に言い聞かせ、何度も何度も思考を繰り返す。
熱くなった血は戻れと言うけれど、頭の片隅では誰かが冷めた目を向けてくる。
憧れと呆れ。二つの色が混ざり合う、一人の女性。
そんな縁遠くも身近な相手を前にして、俺はどうすることが正解なのか。
結局、苦悩しながらもキッチンに戻った俺は、深く吸った息を天井に向けてゆっくりと解いていった。
「……人の気を知らないのは、君の方だよ」
激しさが一向に止まない動悸が生みだした、俺の幻聴か。
後頭部にコツンとぶつけられた奈々恵さんの声は、現実味のない寂しさに染まっていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
難しく考えず「いいね」と思っていただけたのなら、↓広告下↓にあります「☆☆☆☆☆」欄にて応援していただけると幸いです。
お手数おかけしますが、よろしくお願いします。