第8章 この世界を、君と書き直していく
どこか遠くで鐘の音が鳴っている気がする。いや、気のせいかもしれない。
何しろ今、俺の周囲はものすごい怒号と衝撃に包まれていて、まともに音の方向すらつかめない。
城の廊下の石床が揺れ、壁に飾られていた魔力の灯がはじけ飛び、あちこちで乾いた破砕音が響いている。
「ナユタ様、こちらへ!」
セリナの呼びかけで意識を引き戻し、辛うじて体を踏ん張る。
目の前には屈強な魔族の兵士たちがずらりと並び、結界を張っている。それでも廊下の奥から突き進んでくる異質な力が、じわじわと正面からこちらを圧迫しているのがわかる。
こんな大規模な攻撃は初めてだ。いや、むしろ奇襲に近い。
ここ最近、神官や狂信者の侵入事件が相次いでいた。だが、まさかこのタイミングで、教会側が総力戦じみた大規模な術式を仕掛けてくるなんて想像していなかった。
結果として魔王城の結界は部分的にこじ開けられ、やつらの狂気じみた呪文が内部まで流れ込んでいるのだ。
「何だよ、この量……!」
歪んだ聖属性の光が廊下の先でごうごうとうねり、血のような赤黒い反転が混じっている。いかにも忌まわしい気配に満ちた“聖刻”の呪術。まともな教会が使うはずのない危険な技術らしい。
あの日、城に侵入した男が残していた謎の刻印とも似通った雰囲気がある。きっと、あれを拡大して使っているのだろう。
「ナユタ様は下がってください。ここは私たちが抑えます!」
兵士たちが一斉に武器を構えながら、背後へ声を飛ばす。必死なのは当然だ。だが、その一方で奥の奥からさらに迫力のある衝撃波が城全体を揺らしている。城の外では、魔族の軍勢が敵を迎撃しているらしいが、明らかに異常なまでの破壊力を伴う攻撃が行われているらしい。
「陛下はどこだ?」
「玉座の間で防衛指揮を執られています。結界の要があそこにあるので、敵の狙いもそちらかと!」
セリナの答えを聞いた瞬間、胸がドクンと高鳴る。城の最奥──玉座の間が一番大切な場所。
ルシファがそこを守るために留まっているなら、俺がここにいても歯がゆいだけだ。迷っている暇はない。荒れ狂う呪術の奔流を避けながら、一気に奥へ走ろうと決意する。
「待ってください、危険です!」
「わかってる。でも、ここでじっとしてられない。あんたも兵士を連れて、ほかの区画を守ってくれ」
「しかし……」
「頼む、セリナ!」
力を込めて目を見据えると、セリナはぎゅっと唇を噛む。彼女も本当はこのまま俺を逃がしたいのだろう。けれど、俺の意志を汲んでくれたようで、小さく頷く。すぐに周囲の兵士に指示を飛ばし、戦線を整え始める姿が見える。
「お気をつけて。封印が不安定になったら、すぐに陛下の魔力を受けてください」
「ああ、ありがとう」
短く答え、俺は廊下を逆方向へ駆け出す。身体の奥がチリチリと痛むが、今は気にする余裕がない。激しい衝撃と共に壁のあちこちが崩れているのを避けながら、玉座の間へ急ぐ。何人かの魔族兵とすれ違うが、彼らもまた必死に防衛に当たっているらしく、声をかける暇もない。
城の中央広間を抜けると、むっとするような熱気が漂っていた。まるでそこだけ空気が圧縮されているみたいに重い。照明だったはずの青白い魔力灯が不気味に点滅し、まるで泣き声のような音が聞こえてくる。辺りには砕けた石材が散乱していて、天井もところどころ崩れかけている。
「こんなに追い詰められてるなんて……」
肩で息をしながら呟く。ルシファは無事だろうか。いや、きっと彼ならこんな程度では倒れない。でも、ずっと一人で最前線に立っているのだと考えると、やはり落ち着かない。早く玉座の間へ行かないと。
そう思って駆け出そうとした瞬間、背後から何かが飛んできた。
咄嗟に身をかわすと、ズシャッと鋭い破壊音がして、床に深い亀裂が走る。白い閃光が散り、焦げたような臭いが鼻を突く。
慌てて振り向くと、漆黒のローブをまとった人影が立っていた。
「……さっきまでのとは格が違うか」
一目でわかる。ローブには見たことのないような血文字の紋様が浮かび、顔の上半分を仮面で覆っている。かつて侵入してきた狂信者とは違い、はるかに統制の取れた動きと強烈な気配がある。
まさに、“幹部”クラスなのかもしれない。
「神聖なる教義を汚す異端者め……。貴様の首を神に捧げることで、人間界に光をもたらすのだ」
声が震えるほどの狂気に染まっている。それでも本人は強い信念を抱いているつもりなのかもしれない。俺は苛立ちと怒りで奥歯を噛む。
「人間界に光? ずいぶん都合がいいことを言うんだな。お前たちがやってるのは、ただの破壊と殺戮だろ」
「黙れ。貴様は魔王に身も心も汚され、神を裏切った存在。その封印の紋様こそ、魔族との穢れた契約の証……!」
男は憎悪むき出しで杖を振りかざす。そこから放たれる光弾が、恐ろしく鋭い軌道で飛んできた。まともに食らえばヤバい。すんでのところで身を捻り、右腕の封印がピリッと痛む。心臓がドクンと鳴るのを感じながら、再び跳ねるようにして距離を取る。
「ちっ……!」
男の霊力めいたオーラが壁を焼き、床を穿つ。味方である魔族兵士たちは見当たらない。
ここで立ち止まっている暇はないのに……と焦る一方、こんな厄介な相手を放置すれば、後ろから背中を撃たれかねない。
「貴様を倒せば、魔王も弱体化するはずだ。あの封印を破り、勇者の血を浄化すれば……我らは真なる救済を得られる!」
「勝手なこと言ってんじゃねえよ!」
振り下ろされる杖から聖刻の文字が浮かび上がる。男は一瞬で大気に魔力を巡らせ、まるで毒ガスめいた瘴気の領域を発生させ始める。これはまずい……魔族の魔力結界を攪乱する呪いのようなものか。視界が紫色に揺らめき、呼吸が苦しくなる。
「な、何なんだこれ……!」
「神の審判により、貴様の穢れた体を浄化する。抗うな。穢れきった魔王の力など、神の前では無意味だ!」
狂った絶叫が廊下にこだまする。頭がクラクラするのをこらえ、俺は必死で体を支えながら光る封印を見下ろす。痛みだけがやけに鮮明に伝わってきて、呼吸が荒くなる。だけど、このまま倒れるわけにはいかない。
……ルシファの魔力は、俺の中に流れ込んでいる。あの男に汚れと言われようが、今の俺にとってそれは生きるためのエネルギーそのものなんだ。意識を集中させてみると、確かに胸の奥から淡い蒼い輝きが脈打っている感覚がある。
(ルシファ、頼む……少しだけ力を貸してくれ)
心の中でそう呼びかけてみる。勝手な話だとはわかっているけれど、彼がいつも「お前は俺のものだ」と言ってくれたように、俺もまた彼の力を使わせてもらう権利があると信じたい。
震える腕を持ち上げ、封印の紋様に触れる。すると、胸を突き上げるような熱がじわりと広がる。
「なっ……魔王の魔力を……!」
男が驚愕に声を上げる。俺は呼吸を整え、熱の行き場を探しながら周囲を見回す。
敵が作り出した瘴気のドームが周りを覆っている。けれど、その内側にほんの小さな隙間を感じる。まるで、俺の魔力が干渉を拒むように結界を裂いているようだ。
「確かに汚れてるかもしれない。だけど、俺はこうして生きてるんだ。汚れでもいいから守りたいものがある。勝手に浄化だとか言って、人を犠牲にするお前らとは違う!」
叫んだ瞬間、腕の封印がバチッと小さく火花を散らす。魔王城の空気と混ざり合ったルシファの魔力が、まるで導かれるように俺の身体に流れ込んでくる感覚がある。
脳裏に浮かぶのは、あの白銀の髪と蒼い瞳。
いつだって俺を抱きとめてくれた姿がぼんやりよぎる。
その瞬間、封印の紋様から蒼い光が放たれる。瘴気のドームに穴が空いたように光が一気に広がり、男の歪んだ聖刻を弾き返した。黒いローブが風に煽られ、男の体がぐらりと後退する。
「馬鹿な……ただの勇者が、魔王の力に頼って……!」
「ただの勇者じゃない。俺は……魔王の“番”だ。自分で言うのは恥ずかしいけど、なめるなよ」
妙に胸が熱くなる。自分で言葉にすると照れくさいが、事実だから仕方ない。
男が動揺する隙を突くように、俺は一気に足を踏み込む。剣は持っていないが、かつて叩き込まれた体術で相手の杖の軌道を逸らし、思い切り男の胸ぐらをつかんで投げ飛ばす。
「がっ……!」
宙を舞った男が床に叩きつけられ、ゴロゴロと転がる。その先には瓦礫が散乱していて、身動きが鈍ったところを再度封印の光で押し込むように威圧する。呪文の詠唱をさせないよう、地面に押さえ込もうとすると、男は血走った目で睨み返してきた。
「貴様……っ。だが、まだ終わらない。神は決して我らを見捨てない。いずれ、この魔王城も――」
「黙れよ。俺はもう、誰に何を言われようが曲げない。魔王を憎んでるなら、俺を斬れ。けど、お前らがしてるのは自分の都合を押しつけてるだけだ」
男がさらに何か言いかけたところで、俺は封印の光を思いきり増幅させる。バチッと火花が散り、あたりに細かい閃光が降り注ぐ。男は抵抗しかけるも、既に体力が限界らしく、のけぞるようにして意識を失った。ローブがズタズタに裂け、中からあちこちに刻まれた醜い刻印がのぞいている。
大きく息を吐いて男から手を離し、近くの兵士を呼ぶ。すぐに駆け寄ってきた魔族兵たちが男の腕を押さえて拘束をかけてくれる。狂信的な相手だけに油断はできないが、少なくとも即座に呪術を放つ力は残っていないだろう。
「助かった。すまない、運べるか?」
「任せてください。ナユタ様こそ、ご無事で何よりです」
兵士の言葉に苦笑する。いつの間にか“様”づけで呼ばれるようになった自分が不思議だが、今は考える余裕がない。ここで立ち止まっている場合じゃない。玉座の間へ急がないと。あっちのほうが、もっと激しい戦闘になっているはずだ。
「じゃ、任せた」
「お気をつけて!」
兵士たちに捕縛を任せ、再び走り出す。先ほどまでの呪術の余波で廊下の天井が一部落ちている箇所があり、回り道を余儀なくされる。城内はどこもかしこも煙やら粉塵で視界が悪く、ひどい状況だ。けれど、不思議と怖さは感じていない。むしろ心はひとつの方向だけを目指していて、他のことが頭に入らない。
(ルシファ……!)
彼が玉座の間を守っている。ここまで敵が侵入してきたということは、外の攻防もかなり激しいだろう。魔王軍の副官や兵士が尽力しているのは想像がつく。
でも、もしそれでも押されているのだとしたら。もし彼が――。
「考えても仕方ない。行くしかねえ……!」
死に物狂いで走る足が、いまだに震えていないことに自分でも驚く。
かつて魔王を討とうと必死だった頃の自分は、これほどまでに“誰かのために”走ったことはあっただろうか。今、こんなにも必死なのは、魔王――ルシファを失いたくないから。それだけは誤魔化せない自分の本音だと知っている。
◇
玉座の間の手前には巨大な扉がある。そこに近づくにつれ、激しい爆音と衝撃波が肌を刺すように伝わってくる。扉の周りには複数の兵士が倒れており、中からは赤黒い閃光が漏れ出していた。
胸が強く締めつけられる。こんなところまで破壊の爪痕が来ているなんて。
「ルシファ!」
扉を体当たりで開ける。眩しい光と轟音が一瞬にして吹き付け、中の様子を確認するだけで背筋に寒気が走る。広大な玉座の間の床は割れ、壁の装飾が崩れ、かつての荘厳さは微塵も感じられない。中央には無数の魔力渦がぶつかり合っていて、空間がまるでねじ曲がっているようだ。
その中で対峙している二つの存在――白銀の髪を舞わせるルシファと、その向かいに立つ神官の衣を纏った高貴な男。
長身痩躯で、白金の髪を束ね、柔和そうな微笑を浮かべている。けれど、その目の奥には狂気の光が宿り、手にする聖杖からは禍々しい魔力が放射されている。
「ミュリエル、か……!」
名前を発すると同時に、頭の奥がざわつく。俺はこの男を知っている。
勇者として召喚された当時、教会の中枢で指揮を執っていた司教――ミュリエル・ディエンツ。人々からは「神の代弁者」だとか「光の司教」と謳われていたが、その裏では魔族殲滅を進めるための汚い工作をしていた。俺のぼんやりした記憶の中でも、どこか薄気味悪い印象があった。
「ルシファ……大丈夫か!」
叫んでも返事はない。彼は顔にうっすらと苦痛の色を浮かべている。周囲に渦巻く闇色の魔力は、ルシファ自身が結界を維持するためのものかもしれないが、そこにミュリエルの放つ聖刻呪術が入り乱れている。二人の力が拮抗し、激しい衝撃が常に弾けている状態だ。
「ようやく、お出ましですね、ナユタ様」
ミュリエルが静かに視線を向けてくる。その声は穏やかな響きで、皮肉にも耳障りが良いほど美しい。だが、その瞳には底知れない憎悪と狂信が渦巻いているのが明白だ。
「俺を知っててここに来たのか……?」
「ええ、もちろんです。あなたは神に選ばれながら、魔王の手先に成り下がった大いなる愚者。かつては“勇者”として期待していたのに、本当に残念です」
「勝手なことばかり言いやがって……」
すると、ルシファが俺のほうにわずかに視線をやる。血のように赤く染まった唇から声が漏れた。
「ナユタ……来るな。こいつの呪術は……強い。封印が……乱れる」
「乱れても構わない。お前がこんなに苦しんでるのに、引き下がれるか!」
勢いでそう言い放つ。ルシファは俺を見つめて何か言いたげだが、すぐにミュリエルの聖杖が光を放ち、立ち位置を崩される。彼はすでにかなりのダメージを負っているようだ。頬に血が一筋流れ、呼吸も荒い。
「ふふ、愛のごっこ遊びはそこまでにしましょう。ナユタ様には、神への供物として相応しく儀式を受けてもらいます。あなたの穢れた体を神に捧げ、私が浄化を成し遂げる。それが人類の救いへの道……そして、魔王の終焉でもあるのですよ」
「くだらない妄言だ。何が救いだ、他者を犠牲にしておきながら……!」
ミュリエルはゆったりと笑う。その冷酷な笑みの裏には、圧倒的な自信と狂信が同居している。司教として長年培った魔力コントロールと、闇の呪術が混ざり合った力は、ただの人間とは思えないほど巨大だ。ルシファが少し押されているのも無理はない。
「あなたには理解できないでしょう。正義とは、時に血を伴うもの。神の望む秩序を築くために、必要な犠牲は厭わない。たとえそれが、あなたや魔族の命であってもね」
「神はそんなこと望んじゃいない……! いや、俺には神なんてどうでもいいが、お前たちのしてることはただの傲慢だ!」
「傲慢? ではあなた方は正しいと? 魔族に身体を穢され、理性を失い、背徳に溺れているのに?」
穏やかな口調とは裏腹に、杖の先から放たれる光の威圧感が増していく。どうやらミュリエルは会話での説得など最初から考えていないようだ。
俺とルシファを同時に滅ぼすつもりか、それともどこかで俺だけを生け捕りにして儀式を執り行おうとしているのか……いずれにせよロクな展開ではない。
「ナユタ、逃げろ。お前まで巻き込むわけにはいかない」
ルシファがかろうじて声を振り絞る様子に、胸が痛む。
「一人で背負うなんて許さない。俺はお前と一緒にいると決めたから、ここで逃げたら意味がないだろ」
「馬鹿を言うな。封印が崩れたら、お前は生きて……」
「それでも、俺は逃げない。お前が死にそうなときに目を背けるなんてできない!」
自分でも驚くほど強い口調が出る。封印の紋様が熱を帯び、ズキズキと痛む。けれど、これまでにない覚悟が心を突き動かす。
俺は魔王の傍にいる――そう決めたんだ。
「……面白い。では、二人まとめて葬りましょう。愛もろとも滅びる運命を、神は憐れみ給うでしょう」
ミュリエルがさらに一歩踏み込む。神官の衣が揺れるたびに、花びらのような聖痕が舞い散る。血の儀式と融合した聖刻が、まさに絶大なパワーを宿しているようだ。
ルシファと俺、二方向から合わせて攻めれば互角以上に戦えるかもしれないが、封印の乱れが気になる。俺の体はいつまで持つか……。
だけど、考えても仕方ない。ルシファもきっと――と横目で見遣ると、彼が微かに笑みを浮かべている。
「一緒に戦うか。……お前らしいな」
「当たり前だ。お前と一緒にいて、背を向けるなんてありえない」
短い言葉でやりとりを交わし、二人同時に動き出す。
俺は封印の紋様を頼りに魔力を引き出し、ルシファは自らの魔力を制御しながらミュリエルの呪術を狙い撃つ。バチバチと火花が散り、玉座の間の空気がすさまじい音を立てて揺れた。
ミュリエルが衝撃波を放てば、ルシファがそれを闇の結界で受け止め、俺が空いた隙を狙って突き込む。逆に俺が攻められれば、ルシファが即座に魔力の盾を展開して守ってくれる。
噛み合った協力が、わずかずつだがミュリエルの動きを削っていく。
「ちっ、穢れ同士がいくら足掻こうと……!」
ミュリエルの苛立ちが伝わるような叫びが響き、聖杖の光がさらに明るさを増す。一瞬、目が焼けるかと思うほどの閃光が走り、あまりの輝きに視界が真っ白になる。
同時に鋭い痛みが腕を突き抜け、叫びそうになる。
「ぐっ……!」
これはやばい。白い閃光の中に、まるで無数の刃が仕込まれているようだ。気を抜けば体がズタズタに裂かれかねない。必死に封印から魔力を引き出して周囲を覆うものの、痛みと発熱が増していく。
限界が近いのか、封印の紋様がまるで警報のように鼓動を打ち続けている。
「ナユタ!」
ルシファの焦った声が聞こえる。視界がぼやける中、彼の白銀の髪を捕捉する。彼もまた、光の嵐を食い止めるのに苦戦しているのが伝わる。薄く開いた唇から血が伝い落ちていた。
「ルシファ……大丈夫か!」
「お前こそ! もう封印の限界だろ……!」
「わかってる。でも、やるしか――」
その言葉を飲み込むように、ミュリエルが新たな呪文を紡ぎ始めた。狂信的な笑みを浮かべ、杖を振り下ろす。その瞬間、どこからか聞こえてきた小さな囁きが、頭の奥を震えさせる。――“リライター”という言葉。かつて古書で見かけた、自分のスキルの正体。世界すら書き換える可能性を持つ力。
(そうだ……俺は、書き換える……? できるのか……?)
ぼんやりした疑問が浮かぶ。意識が朦朧としていて、まともに考えられない。けれど、これ以上やられたら本当にまずい。ルシファを、城を、守りきれずに終わるかもしれない。
奇跡が欲しい……俺の中に眠る何かがあるなら、今叩き起こすしかない。
「……っ……!」
意を決して、痛む腕に全神経を集中させる。封印の紋様が狂ったように光を放ち、身体の奥を焼くような熱が走る。目の前に広がる激しい閃光の奔流が、逆にゆらゆらと俺の意識を深い闇へと誘う。でも、闇の底にあるのは、白銀の魔王がくれたあの温もりだ。
過去も未来も、すべてが混濁する中で、一筋の光を掴むように声を絞り出す。
「リライター……わけがわからないが、やるぞ……!」
「ナユタ、何を……!」
ルシファが叫ぶのが聞こえる。でも、もう止まらない。封印の境界をぶち破るように魔力が噴き出し、まるで白い熱の洪水が俺とルシファ、そしてミュリエルを呑み込もうとしている。空間がひしゃげ、天井が砕け、世界そのものが歪んだように見える。
だが、そのゆがみの真ん中で、俺は心の中でただ一つのイメージを必死で描く。
――破壊じゃなく、救いでもなく。“ここにある命を、消したくない”という願い。
そのひたすらな想いが、リライターの力を呼び起こすなら……。
「ナユタァァァッ!」
耳を劈くルシファの声が空気を震わせる。次の瞬間、封印がはじけ飛んだ。腹の底から奇妙な音が響き、世界が一瞬静寂に包まれる。
ミュリエルの狂った笑顔が泡のように溶け、玉座の間のあらゆる崩壊が数拍だけ止まったように思えた。
「……っ!」
視界が暗転し、空間の感覚が失われる。足元の床の感触すら消えて、俺は重力のない世界に落ちていくような錯覚を覚える。だが、その闇の中には確かに誰かの腕がある。白銀の髪が月光のように揺れ、俺を抱き留める気配がする。
「ナユタ……!」
蒼い瞳にじっと見つめられる。彼の声は震えていて、息が荒い。
俺はたまらなく安心して、思わず口元が緩む。だけど、その直後に激しい痛みが胸を突き破りそうになる。
「ぐあっ……!」
「おい、しっかりしろ! 封印が……崩壊してるんだ……!」
崩壊。そうか、俺はルシファの魔力を限界まで引き出そうとした。結果、封印の器を越えてしまい、身体が耐えきれなくなってるのかもしれない。
じわじわと視界が滲み、心臓が破裂しそうに痛む。けれど、不思議と恐怖はあまり感じない。
「大丈夫……たぶん、死なない。お前の魔力、まだ感じるから……」
何とか言葉を絞り出す。でも、ルシファは必死の形相で俺を抱きしめ、顎を震わせている。こんな表情の彼は見たことがない。彼がこんなにも脆く見えるなんて……。
「死ぬな……俺を置いていくな」
怒りとも悲しみともつかない声に胸が軋む。目を開けてみれば、周囲はまだぼんやりと閃光に満ちているけれど、さっきまでの激しい衝撃はやんでいる。
ミュリエルの姿がどうなったのか、玉座の間がどうなっているのか、よく見えない。
「お前……俺が死んだら、どうする?」
「言わせるな……そんなことは考えたくもない」
「……そう、だよな……。じゃあ、俺も死にたくない。生きて、お前と一緒にいたい」
苦しくて息が乱れる。体の奥から魔力が暴れまわっている感じだ。
だけど、俺が最後に何を願うかは、もう決まっている。ルシファと生き延びる。それだけ。破壊でも浄化でもなくて、ただ彼と生き延びたい。
「ならば……俺が、お前を救う。封印を超え、俺の魔力をもっと深く、お前の体に流し込む。それしか方法がない」
「ああ、やればいい……けど、痛いのは嫌だからな」
情けない声が震える。
ルシファは苦い笑みを漏らして、それから瞳に強い決意を宿したように見える。
俺の背をしっかり支え、倒れ込むようにして唇を重ねてきた。呼吸が浅くなる。彼の呼吸も乱れているのが伝わってきて、目が眩むほど熱が迸る。
「んぅ……っ……!」
一気に、灼熱の魔力が身体の奥に注ぎ込まれるのを感じる。
意識が飛びそうなほど眩暈がし、同時に全細胞がルシファの魔力に染められていくようだ。
何が起きているかわからない。ただ、身体が融け合うみたいに熱くて、切なさにも似た快感が喉から漏れそうになる。
「契約を超えた……魂の融合だ……」
ルシファの声が直接身体の中に入ってくる。切ないほどの愛おしさが胸に湧き、俺は力が抜けて彼にしがみつくしかない。
いつの間にか視界の白さが和らぎ、玉座の間の荒れ果てた床がうっすら見えてきた。崩れかけた天井から粉塵が舞っている。ミュリエルはボロボロの状態で気絶しているようだ。
それより、今は俺の体がどうなっているのかが問題だ。
呼吸を一つするたび、ルシファの魔力が脈動するのを感じ、封印の紋様が形を変えるように身体に刻まれていく。あれだけ苦しかったはずなのに、不思議と生き生きした力が内側から満ちてくる感覚がある。
「……ナユタ……」
ルシファが少し離れて俺の顔を覗きこむ。蒼い瞳に揺れる感情は、とても魔王とは思えないほど繊細な不安と優しさだ。俺はなんとか笑みを作り、肩で息をしながら言葉を返す。
「うん……大丈夫、たぶん。痛みも、だいぶ治まった。……ありがとう」
「よかった……本当に、よかった」
彼が安堵の色を濃くして抱きしめてくる。
身体ががっちりと寄り添うたびに、まだ残る疼きがじんわりと心を溶かす。
辺りを見渡すと、玉座の間は無惨な有様だが、大きな余震は止んでいる。どうやら攻撃の中心だったミュリエルも、完全には力を発揮できなかったようだ。外の戦況も気になるが、ひとまずこの場を収束させることが先決だろう。
「陛下、無事ですか――!」
バタバタと足音が響き、セリナや魔族兵たちが玉座の間に駆け込んでくる。
その目に映った光景は、床に大の字で気絶しているミュリエル、ボロボロの衣装を纏った俺とルシファが抱き合う姿。それでも誰も何も言わず、ただ駆け寄って来てくれる。
「ナユタ様……! 体は……?」
「なんとか生きてる。そっちのケガ人は……大丈夫か?」
「まだ油断はできませんが、敵の大半は撤退した模様です。周辺部の戦闘も収まりつつあります。あの司教が本隊を率いていたようで、倒れたのを察知して残党が崩れたんでしょう」
セリナは冷静に状況を報告しながら、そっと俺を気遣うように肩を支えてくれる。何度も死地を潜り抜けてきた姿が頼もしい。兵士たちも慌ただしく動き、倒れたミュリエルの身柄を確保しつつ、城内の消火や瓦礫の撤去に取りかかるようだ。
「これで、ひとまずは落ち着くか」
力の抜けた声が自然と漏れる。ルシファも疲労困憊といった様子で頷く。俺はまだ意識が混濁していて、いつ意識を手放してもおかしくないほどだ。けれど、ここには倒れ込む俺を支えてくれる腕がある。
「ありがとう、セリナ。……俺は大丈夫だ。あとは、片付けを頼む」
「はい。あなたこそ、まずはしっかり休んでください。封印が――いえ、新しい紋様が、まだ不安定に見えます」
セリナの指摘にぎょっとして、自分の腕を見下ろす。そこには以前の封印とは違う、どこか不思議な光を湛えた紋章が浮かんでいた。淡い青と金が入り混じり、まるで生き物のように鼓動している。
おそらく、俺とルシファの魔力が混ざり合った印だ。もう“ただの勇者”でも“封印された存在”でもない、新たな契約の証とでもいうのだろうか。
「これは……悪くないかもな」
思わず笑みがこぼれる。ルシファも無言で微笑むだけだが、その目は穏やかに柔らかい。
俺たちは言葉より先に、そっと触れ合う指先で何かを確かめ合う。痛みや混乱はまだ残っているけれど、どこか大切なものを手に入れたと感じるのは間違いない。
◇
数日後。荒れ果てた魔王城はまだ完全復旧とはいかないが、魔族の底力と迅速な行動により、主要な区画や崩れた外壁はかなり立て直されつつある。人間界との紛争も、ミュリエル率いる狂信的勢力が瓦解したことで一時休戦状態。リュドなど穏健派の人間は、むしろ魔王城への大規模侵攻を止められたことに安堵しているらしい。
俺は城の高層から、復興作業で忙しそうに動く魔族たちの姿を眺めている。
窓の外からは清々しい風が吹き込み、砕けた瓦礫が運ばれる音や、笑い声まじりの談笑がかすかに聞こえてくる。ついこのあいだまで地獄のような修羅場だったのが嘘みたいに、今は平和な空気が漂っていた。
「少しは落ち着いたか?」
背後からルシファの声がして、振り返る。彼は歩み寄りながら、ほんのわずかに微笑む。
その表情は疲労の色が残るものの、憂いは少し和らいでいるように見える。
「ああ。おかげさまで、ずいぶん身体が楽だ。お前の魔力が循環してる感じがするよ」
「封印が消え、代わりに新たな紋章が宿った。もう二度と脆い危機には陥らないだろう。……ただ、お前はもう“人間”と呼べるかどうか微妙だがな」
からかうように言われて、苦笑する。確かに今の俺は、魔王の魔力を受け入れた存在だ。それを人間と呼ぶか、半魔族と呼ぶかはわからない。でも、そんな定義はどうでもいいと思っている。
大事なのは、俺がここで生きていることだ。
「半魔族でもいいさ。ついでに言えば、魔王のものでも構わない。俺は俺だ」
「それを言えるようになっただけ成長したな」
「お前にそう言われると、なんか照れるな」
肩をすくめると、ルシファはクスッと笑う。あの厳粛な表情が揺らぐ瞬間を見ると、いまだに不思議な気分になる。かつては恐ろしくて敵わなかった魔王が、今じゃこんなに近い存在だなんて。
「そろそろ城下の街も復興の動きが本格化する。人間との交渉も避けては通れないだろう。お前はどうする?」
「俺が出れば、また面倒ごとが起きるかもな。……でも、逃げてる場合じゃないか。ミュリエルの一派こそ崩れたけど、人間界にはまだ魔王を忌避する勢力もいるだろうし。いずれお前と一緒に顔を出すこともあるかもしれない」
「なるほど。だが、あまり無理はするな。お前は自分でも気づかないうちに頑張りすぎるからな」
「大丈夫。これからは、お前の魔力で無茶がバレるんだろ? 倒れそうになったら先に気づいてくれるんじゃないのか」
わざと軽口を叩くと、ルシファは少し呆れたような笑みを浮かべる。
そして、そっと手を差し出してくる。俺は素直にその手を握り返す。体温が混ざり合う瞬間、胸が暖かくなる。何度味わっても、この心地は慣れない。
「お前の手は、こうやって触れると熱いな」
「お前の手こそ冷たいんだか温かいんだか、わかんねえけどな。でも……嫌じゃない」
「知ってる。お前は最初から、どこかで俺を拒まなかった」
やけに自信ありげに言われ、思わず反論したくなるが、何となく言い返さない。そのくらい素直でもいい気がしている。
人間界と魔族の板挟みになって散々振り回され、それでも最後に俺はここを選んだ。その先に何があるかなんて、今はわからない。だけど、選んだ意味は確かにあるはずだ。
窓の外では日差しがゆるやかに降り注ぎ、復興作業の進む街並みが見える。戦火に包まれたあの夜を思えば、奇跡のような光景だ。城の広場には傷ついた兵士や魔族、市民たちが笑顔を交わしながら動き回り、それを見守る人影が幾つかある。セリナの姿も見える気がする。
「なあ、今後は……」
言いかけて黙る。先のことなんて誰にもわからない。だが、ルシファは俺の手をもう片方でそっと包み込み、静かに瞳を伏せる。
「変わらないさ。俺はお前を抱き寄せ、お前は俺に寄り添う。それだけで充分だろう」
「……ああ。まあ、そうだな」
正直、これ以上何を望むというのかという気もする。世界を救うとか人間を皆助けるとか、そんな大それたものじゃなくても、こうして生きていける道がある。
魔王とともに生き、愛を分かち合う。それはかつての俺には想像もしなかった未来だ。
「行こう。外の者たちも、お前の顔を見れば安心するだろう」
「そうだな。……まだ見回りも必要そうだし、兵士や市民とも話してみたい」
自然と歩き出した足が、城の廊下を踏みしめる。崩れかけた箇所には修繕の資材が積まれていて、その隙間を縫うように進む。
いつかここが完全に修復されたら、また違った風景が広がるのかもしれない。その頃までには、人間界との関係だって少しは落ち着いている……といいな、などと考えてしまう。
――まあ、そのときが来るまで俺は魔王の傍にいる。それでいい。特別な称号なんかなくても、俺はこうして笑えているし、彼が隣にいるだけで何度でも立ち上がれる。
もし誰かが「魔王に抱かれているのか」なんて言ってきても、堂々と認めてやろう。そのくらいの誇りはあるし、俺が選んだ道だ。
「重ねて言うが、お前は俺のものだ。決して手放さない」
「そりゃどうも。俺ももうお前以外はいらないから、安心しろ」
軽口を叩き合いながら、廊下を抜ける先には柔らかな日差しが射している。暗く威圧的だった魔王城の空気も、どこか明るさを増したように感じるのは気のせいじゃないだろう。
人と魔族がまだ溝を抱えていても、こうして笑い合える瞬間があるなら、俺は信じたい。
「行こう、ルシファ」
「ああ」
蒼い瞳が温かく微笑む。俺は胸にこみ上げるいろんな感情を抱えながら、彼の手をきつく握り返す。
大きな戦いは終わった。だが、またこれからいろいろな困難が訪れるだろう。人間と魔族の間には、まだ根深い偏見も残っている。
――それでも、二人なら進んでいける。たとえ道がどんなに険しくても、俺たちはもう離れない。勇者と魔王という枠組みを越えて、確かな絆で結ばれた存在になったのだから。
廊下を抜ける先に待つ光の中へ、白銀の髪を揺らす魔王とともに踏み出す。
――胸を満たすこの熱は、決して止まらない。
魔族でも人間でもない俺は、魔王と共に歩む“ただの俺”として、生き続ける。
それだけで、十分だ。
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