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第7章 神なんかに、俺の物語は書かせない


 寝台から起き上がり、額をゴシゴシ擦った。

 どうにもスッキリしないまま夜を迎えてしまって、変に頭が冴えている。モヤモヤしながら部屋を出て、城内の廊下をゆっくり歩いてみる。


「さっきの報告、どうにも嫌な感じがする」


 胸の内でつぶやくたび、封印の紋様がうずうずと疼く。焦りを抑えたいのか、むしろ煽っているのかよくわからない。とりあえず少し体を動かさないと落ち着かない気がして、自分に言い聞かせるように廊下を進む。魔王城は夜の闇が深いはずなのに、壁の燭台が青白い光を揺らしていて、不気味なはずが妙に落ち着くから不思議だ。


「お前、こんな時間にどこへ行く」


 背後から低い声が響いて、一瞬で胸が高鳴る。振り返ると、白銀の髪を流したルシファが壁の向こうからするりと現れる。まるで闇に溶け込んでいたみたいな登場の仕方だ。心臓に悪い。


「ビックリするだろ。そんなふうに出てくるなよ」

「お前がやけに落ち着かない足取りだったからな。眠れないのか」


 言われてみれば、こんな夜更けにうろついている理由なんて正直たいしてない。

 けれど、さっき聞いた報告――神官が城の外れに現れたという話が頭から離れなくて、どうにも眠る気になれなかったのだ。ルシファが隣に立つと、あれほど焦っていた気持ちが少しだけ和らぐ一方で、鼓動が早まるのを感じる。これも本当に厄介な身体だ。


「大した理由はない。ただ、呼吸しに来ただけ。外の空気は吸えないし、せめて城の中を歩けば気分転換になるかと思って」

「なら、俺が付き合おう。あまり遠くへ行くな。警備の者たちが不必要に緊張する」

「わかってるって」


 ルシファがゆるく微笑む。その蒼い瞳を真正面から見ると、相変わらず綺麗すぎてむかつくくらいだ。

 俺はできるだけ自然な態度を装いながら、彼を連れて廊下を曲がってみる。すると、見回りをしている魔族の兵士らしき姿が見え、俺たちに気づくや深々と頭を下げた。


「ご苦労。何か変わったことはあるか?」


 ルシファが低く問いかける。兵士は姿勢を正したまま、少し緊張した様子で答える。


「特に不審な気配はありませんが、先ほど、城門の外で奇妙な音が響いたという報告がありました。すぐに付近を調べましたが侵入者の痕跡はなかったようです」

「そうか。引き続き警戒を怠るな」

「はっ」


 兵士が退がるのを見送る間、俺の胸が騒がしくなる。こういう些細な不安材料を聞くたび、神官の動きが気にかかって仕方なくなる。でも、ルシファは動じた様子もなく、いつもの沈着な面持ちを崩さないままだ。


「なあ、もし仮にそいつらがここへ潜り込んだら……どうすんだ?」


思わず口にすると、ルシファは淡々とした声で返す。


「潰す。それだけだ」

「即答か」

「もちろん、やみくもに殺すという意味ではない。ただ、俺の城を荒らすなら容赦はしない」


 言葉が冷ややかに響く。それもそうだろう。ここは魔王の本拠地で、ルシファが守るべき領域だ。余計な侵入を許すわけがない。

 けれど、もしその“侵入者”が俺を連れ戻そうとしているとしたら――胸の奥が何とも言えない複雑な痛みに襲われる。相手が人間でも、敵意むき出しで来るなら応戦するしかない。

 ここを守っているのは、紛れもなく俺に手を差し伸べてくれた魔王やセリナたちなんだから。


「気が重いな。人間同士で戦いたくはないんだけど」


 思わず本音が漏れる。ルシファはちらりと横目で俺を見て、すぐに視線を前へ戻す。


「お前が気に病む必要はない。ここで生きると決めた以上、何が正しくて何が間違いかは……お前自身が考えて判断すればいい」

「そりゃあ、そうなんだけど。頭ではわかってるが、すぐ割り切れるほど器用でもないっていうか」


 ため息混じりに答えると、ルシファは少しだけ表情を緩める。こんな状況でも、彼の隣にいると妙に落ち着く自分に腹が立つやら、救われるやらで複雑だ。


「部屋へ戻るか。ここで立ち話を続けても寒いだろう。……それとも何か食べるか?」

「夜食かよ。……ま、確かに腹は減ってるけど」


 こんなやり取りがすでに当たり前の生活に溶け込んでいる。俺はひょいと肩をすくめてみせ、ルシファと連れ立って自室へ向かった。半ば監禁状態だと頭で思っていても、こうやって自然に会話できる関係は、どうにも奇妙で仕方ない。



 部屋に戻ると、セリナがテーブルの上に軽食を用意して待っている。パンとスープ、果物の盛り合わせに香ばしいハーブが香る肉の薄切り。夜中だというのに、かなり手間がかかっていそうなメニューだ。魔王城の食事事情は人間のイメージと違いすぎる。料理好きな魔族でもいるのか。


「何か問題はないですか。外が少し騒がしかったようですが」


 セリナが控えめに問いかけ、俺は椅子に腰掛けながら首を振る。


「うん、外で変な音がしたって兵士から聞いた。侵入はないらしいけど、気持ち悪いな」

「そうですね。陛下も警戒を強めるよう指示されていますし、私も巡回を増やしておきます。ナユタ様はご安心ください」


 彼女の言葉にはわずかな緊張がにじむ。セリナもまた、この城を守ることに命をかけている立場だから、不審な動きには内心焦りを抱いているのかもしれない。それでも表に出さず、淡々と従う姿勢を貫くのが彼女の流儀なのだろう。


「ありがとう。……それにしても、こんな夜中に悪いな。助かる」

「いえ、私は命を救われた恩がありますから。こうして皆の力になれるなら本望です」


 セリナはまっすぐな目をしてそう言い、丁寧に一礼する。俺は返す言葉が見つからなくて、ただ苦笑いするしかない。魔王やセリナのような魔族たちは、外から見れば“悪”と断じられてきた存在だ。けれど、実際はこうして普通に誇りを持って生きている。そこに触れると、俺の中にこびりついた“人間の正義”なんてものが、どこか滑稽に感じられてしまう。


「んじゃ、食べさせてもらう。あんたも休めるときに休んでくれよ」

「承知しました。お部屋の外で控えていますので、何かあればお呼びください」


 セリナが部屋を出ると、ルシファが俺の向かいの椅子に腰を下ろす。いつも通りの流麗な所作が、もう見慣れたはずなのに、時々ドキッとしてしまう自分が嫌になる。

 俺だって男だし、相手だって魔王とはいえ男なんだから、そんな目で見られるのはおかしい……と思いたいが。


「どうした。妙に落ち着かない顔をしているな」

「お、落ち着かない顔って、どんな顔だよ」

「こう、眉間に皺が寄って、唇が少し尖っている。俺の顔を見るときは必ずその表情になる」

「そ、そうか? 別に尖らせてるつもりはない。……あーもう、黙って食うぞ」


 照れ隠しというより、変に意識してしまった自分が恥ずかしくてスープに集中する。

 だが、視線の端でルシファがゆったりと俺を眺めているのを感じて、余計に胃が落ち着かない。こんな時間に食べて太るんじゃないかとか、必死に頭の中身をどうでもいい事で埋めようとする。


「お前、あまり肉を食べないのか?」

「いや、好き嫌いはないんだけど……今はそこまで食欲が湧いてないだけ」

「ならばスープだけでも充分だ。食べたいと思うときに、好きなものを好きなだけ口にすればいい」


 俺の事情を尊重するような言い方をされると、逆に困ってしまう。魔王らしからぬ気遣いに慣れたくないし、慣れそうな自分が怖い。けれど、甘えてしまうのも事実だ。

 ため息を吐きながら、適当にパンを千切って口に運ぶ。ハーブが練りこまれていて意外と美味い。


「そういや、お前は食事するのか?」

「するぞ。魔族だからといって、常に魔力で生きているわけでもないからな。……ただ、人間ほど栄養を摂取しなくても動ける。それに、美酒のほうが好きだ」

「へえ……。まあ、たまに酒くらいなら俺も――」


 と、そのとき、どこか遠くから甲高い音が響いた。

 ピシャン、と硝子か何かが割れたような鋭い響き。俺とルシファは同時に顔を上げる。部屋の外でセリナが動いた気配がする。廊下を駆けるような足音が近づいてきて、すぐに扉がノックもなく開かれた。


「陛下、緊急です。東側の回廊の窓が何者かに破られました。侵入者がいる恐れがあります」


 声を上げたセリナの表情はさすがに険しい。ルシファはすぐさま立ち上がり、落ち着いた口調で指示を出す。


「数名を向かわせろ。もし相手が神官なら、聖属性の術式を警戒しろ。こちらはどうする」


 最後の問いは俺に向けられている。セリナの目も一瞬だけこっちを見るが、すぐに視線を落としてしまう。つまり、俺が下手に動くのは危険だという暗黙のアピールに思える。だけど、ここでじっとしていられるほど俺は肝が据わっていない。むしろ、行くなら今すぐ行って正体を突き止めたい。


「俺も行く。……って言っても足手まといかもしれないけど、見過ごすわけにはいかない」


 言い切ると、ルシファはほんの少しだけ苦い表情で眉を寄せる。しかし、それでも「やめろ」とは言わなかった。


「わかった。だが、俺のそばを離れるな。魔力の干渉が乱れると封印に影響がある」

「承知してる」


 セリナも短く頷いて、そのまま先導するように廊下へ駆け出す。俺とルシファは隣り合いながら後を追うように走る。夜中とはいえ魔王城の廊下は広く、足音が反響してやけに騒々しい。


「誰が侵入したかわからないんだよな」

「今の段階ではそうだ。もし教会の者なら、何らかの聖印や神術を使う可能性がある。お前の身体には悪影響が出るかもしれない。細心の注意を払え」

「言われなくても警戒するさ。……ただ、やるしかないなら、やるよ」


 口が乾き、喉が痛む。胸の鼓動が激しくなる。

 そうして東側の回廊へ向かうと、確かに窓ガラスの破片が散らばっていた。冷たい夜風が吹き込み、カーテンが乱れている。そこに魔族の兵士が数名集まっていて、やや興奮気味に周囲を警戒していた。


「侵入者はまだ付近にいるはずだが、姿は見えません。結界があるため、そう遠くまでは行けないはずですが……!」


 兵士の一人が悔しそうに報告する。ルシファは魔力を探るように目を閉じ、周囲の空気を凝視するみたいに息を止める。そして、わずかに唇を動かした。


「……ひどく澱んだ気配が残っている。神の加護とは違う。もっと嫌な匂いだ」

「嫌な匂いって……」

「おそらく、歪んだ聖術か、あるいはそれを装った外道の呪術だろう。神官というより、闇に染まった狂信者の類かもしれない」


 低く言い放つルシファの目が鋭く光る。その一言で鳥肌が立った。俺の記憶にもある。

 教会には表向きの聖なる儀式だけじゃなく、独自の黒い手段を持つ連中がいた。以前、ほんの断片だけ噂を聞いた気がする。もしそいつらが侵入してきたとしたら、まともな話し合いはできそうにない。


「陛下、あちらに血の跡があります」


 セリナが破片の近くを指し示す。窓枠にこすれたような血痕があるらしい。何かの拍子にガラスで手を切ったのだろうか。侵入者が負傷しているなら今が捕縛のチャンスだ。俺は緊張を胃の奥に押し込めながら、血痕の延長を目でたどる。廊下の奥の方へ続いているみたいだ。


「行こう。セリナ、兵士を手分けさせろ」

「承知しました。ナユタ様は陛下と一緒にお願いします」


 まるで幼児扱いされている気もするが、実際そうしないと危ないのはわかっている。ルシファが先に立ち、俺はそのすぐ後ろにつく。城の奥へと伸びる暗い廊下を、足音を殺すように進む。

 壁の至るところに魔術的な装飾があるが、見慣れぬ者には迷路と変わらないだろう。


「ここは客人用の部屋が多い区画だ。普段はあまり使わないが、それを知っていて狙ってきた可能性がある」


 ルシファが小声で説明してくれる。確かに、この先は俺もあまり来たことがない場所だ。

 滅多に客なんて来るはずがないし、人間側の客なんてなおさらあり得ない。そこへわざわざ侵入してきたなら、相当な覚悟か下調べがあったに違いない。


「……見つけたぞ」


 急にルシファが足を止め、ある扉の前を見据える。扉には微かな亀裂が走っていて、ドアノブ付近に血が滴っている。見れば、バリア状の魔力が扉を覆っているようだ。内側から何かしらの術式を張られたのかもしれない。


「破るか?」

「ああ。少し下がれ。衝撃がいく」


 俺は言われるがままに壁際へ寄る。ルシファが静かに右手をかざすと、蒼い魔力が周囲の空気を震わせた。まるで大気ごと一掃するような圧力を放ち、扉を覆う結界がバチッと弾ける。

 扉が悲鳴をあげて砕け散り、破片が床を転がる。


 中は真っ暗だ。だが、鼻をつく血と焦げたような匂いが立ちこめている。息を呑んで踏み込むと、そこには黒いローブを纏った人影が倒れていた。血だらけの腕を押さえ、苦しそうにうめいている。

 顔には仮面をつけていて素顔がわからないが、どうやら人間の体格だ。


「おい……」


 声をかけると、そいつはビクッと反応し、こちらを睨むように仮面の奥で目を細める。

 すると、急に震える声で呪文めいた単語を唱え始めた。低く、耳障りな響き。まるで怒りと絶望と妄執を混ぜ合わせたような禍々しさが漂う。


「やめろ! 無駄なことは――」


 言いかけた瞬間、そいつの腕から悪寒のような聖なる光が迸った。

 いや、聖と言うよりは歪んだ神術か。黒い紋様が渦を巻き、狙いを定めず部屋のあちこちに飛び火する。壁紙や家具が音を立てて崩れ落ち、俺は反射的に顔を背ける。

 炎かと思ったが、激しい光のせいで視界がチカチカするだけだ。


「ルシファ!」


 振り返ると、ルシファが静かに左手を突き出す。すると蒼い魔力の壁が立ち上がり、歪んだ術式の光を丸ごと抑え込んでしまった。あっという間の対抗手段に、倒れた仮面の男は目を見開く。


「くっ……なぜ、貴様……!」

「言ったはずだ。俺の城で暴れれば容赦しない。もう動けまい」


 冷徹な声が響く。仮面の男は再び呪文を唱えようと口を動かすが、その瞬間、ルシファが指を一つ鳴らした。パチンという音とともに男の手足がピクリとも動かなくなる。

 どうやら魔力で完全に拘束したらしい。


 俺は恐る恐る近づき、その仮面に手を伸ばす。すると、奴が歯を食いしばりながら、低くうめくように声を出した。


「お、お前……ナユタなのか……! そんな姿で、魔王に従うとは……っ」


 どぎつい憎悪が入り混じった言い方に、寒気が走る。同時に、名前を知っている時点で、やはりどこかで俺のことを調べていたのだろう。

 ゆっくり仮面を外すと、その下からは痩せこけた男の顔が出てきた。髪は白く、皮膚には奇妙な刻印が刻まれている。狂信者の儀式痕だろうか。正直、まったく知らない顔だ。


「俺を知ってるってことは、教会の奴らの手先か?」


 男は答えない。けれど、その憎しみに染まった瞳がすべてを物語っている気がする。

 俺が魔王に“抱かれている”存在であること――彼らにとっては最悪の異端なのかもしれない。魔王と契約した勇者なんて、許しがたい裏切り者というわけだ。


「どうしてここへ来た。何が目的だ」


 問い詰めても、男は苦しげに呼吸を繰り返すばかり。もう体力も限界らしく、再び呪文を唱える余裕もないだろう。血がじわじわと広がり、放っておけば命に関わりそうだ。


「こいつ……もう助からないかもしれない。魔力が暴走してる」


 俺が口にすると、ルシファが男を見下ろしながら目を伏せる。


「お前の命を救うつもりはないが、聞きたいことがある。……この先に何をしようとした? 神官がほかに潜んでいるのか」

「ぐ……黙れ、魔王め……!」


 必死に食いしばる男の顔に、どこか幼稚な絶望が浮かんでいる。このまま放置すれば死ぬんだろうが、彼が何を抱えていたのかを探る手立てはない。ルシファが冷たく指を鳴らすと、さらに厳しい拘束がかかったらしく、男は完全に体を動かせなくなる。呼吸すら苦しそうだ。


「話さないならそれでいい。セリナ、こいつを引き取れ。少しでも有益な情報を聞き出すんだ」


 指示を受けてセリナが部屋へ入ってくる。彼女は魔族の兵士を呼び寄せ、倒れた男を慎重に抱え込む。

 ひどい傷だが、今さら味方として治癒する理由もない。拷問じみた真似をする気はないが、男が自分で話すなら聞く余地はある。そんな空気がこの場には流れていた。


「ナユタ様、こちらは私に任せてください。ここは危険ですから……」

「……ああ」


 苦い思いを噛みしめながら答える。男の恨みがましい視線を直視できないまま、俺はルシファの横へ戻る。どこかで“同じ人間同士の争い”という後ろめたさがある。魔族側に立っているせいで、こういう場面に遭遇するたび、胸がどす黒い罪悪感に苛まれる。


「お前が悲しむ必要はない。そいつらこそが、自ら望んで敵対してきたのだ」

「頭ではわかってる。でも、もともと同じ世界の住人に恨まれて、殺されかけるのは気分悪い。しかも、俺がやられかけたのに、心の底で申し訳なさを感じてる自分がいて……ああ、どう言えばいいんだ……」


 うまく言葉にできないまま、苛立ちを吐き出す。

 ルシファは何も言わず、そっと自分の片腕を俺の背に回す。抱き寄せられるというより、支えるように触れられると、身体がびくりと震える。


「それが、人間としての優しさかもしれない。お前は、人間だからこそ苦しむ。だが、お前には魔王の力も流れている。二つの性質を併せ持つ存在だ。その痛みこそが、お前の強さになる」


 低く落ち着いた声が耳をくすぐる。強さって何だよ、と突っ込みたくなるが、今は言葉が出ない。

 心臓が鼓動を早め、背中の温もりに意識が引っ張られていく。

 魔力のせいか、彼の肌は微妙に冷たいようでいて熱いようで、境界が曖昧だ。


「……こんなところで抱きしめられるとか、恥ずかしいから」


 照れくささを隠すため、軽く抗議してみる。だがルシファは少しだけ笑みを浮かべて、俺の背から手を離す。その横顔を見上げると、今度はやけに寂しそうに見えて胸が疼いた。こいつもまた、孤独を抱えているのだと改めて感じる。


「とにかく、侵入者は確保したな。まだほかにもいるかもしれないけど……」

「城内の警戒を一層強める。お前は部屋で休め。まだ動揺している顔をしている」

「俺は大丈夫だ。さっきだってそこまで危ない目に――」

「封印が反応しているのがわからないか?」


 そう言われて腕を見ると、確かに紋様が淡く脈動している。緊張と動揺が混ざっているせいか、時折ピリッとした痛みが走る。あまり認めたくはないが、やはり俺の身体はまだルシファの魔力なしでは落ち着かないらしい。


「……わかった。無理はしない」

「よろしい。セリナ、あとは任せた」

「はい、陛下」


 セリナが深く一礼する。俺はまたしても戦力になったのかどうか微妙なまま、ルシファとともに部屋へ戻らされる形になった。あの仮面の男の動向が気になるが、今は仕方ない。これ以上封印が暴れれば、自分の命に関わる。



 部屋の扉が閉まると、急に足の力が抜けて、俺は寝台に腰掛ける。ほんの数分の出来事だったのに、思った以上に神経をすり減らしたらしい。ルシファが気遣うようにテーブルに手をついて、俺の視線と同じ高さになるようにしゃがむ。


「痛むか」

「ちょっとジンジンするくらいだ。平気だよ。……ありがとうな」

「感謝されるようなことはしていない。俺が守りたいと思ったから動いただけだ」


 さらりと答えられると、また心拍数が上がる。こういう言葉を臆面もなく口にする彼に、俺はいつまで慣れずに翻弄されるんだろうか。今だって、少し肩を触れられただけで妙に熱くなってきて嫌になる。


「もう少し……近くにいてやろうか」


 低い声で囁かれ、頬がじんわりと熱を帯びる。

 相変わらず恥ずかしいセリフをサラッと言う。俺はそこで何と返すべきかわからず、軽く口を尖らせる。さっきの指摘どおり、きっと変な顔になってるに違いない。


「……どっちでもいいけど。まあ、悪い気はしない」


 どうしようもなく素直じゃない口ぶりに、自分でも呆れる。

 だけどルシファは嬉しそうに唇をわずかに歪める。まるで俺の言葉一つ一つを宝物みたいに受け取る男だ。魔王のくせに、何なんだろう。


 肩が触れるくらいの距離で二人並んでいると、さっきまでの戦いの気配が嘘みたいに静かだ。遠くからは兵士たちが走り回る足音やセリナの指示する声が微かに響いてくる。

 まだ落ち着いてはいないだろうけれど、少なくとも俺はこの部屋の中で一息ついている。


「……侵入者は捕まえたが、奴の背後にいる連中がいるかもしれない。城内に複数潜んでいる可能性もある。今夜は安眠できそうにないな」


 ルシファの言葉に、俺も頷く。この城の安全が脅かされるなら、放っておくわけにはいかない。

 ここは今や俺の生きる場所でもある。皮肉なことに、何よりも安心感を得られる居場所が魔王城だなんて、数日前の自分に言ったら絶対に信じなかったはずだ。


「だとしても、攻め込んでくるなら正面切って来ればいいのに。変に隠れたり狙ったり、卑怯じゃないか」

「彼らなりの“聖なる使命”があるのだろう。だが、弱いからこそ卑怯な手段にすがるのではないか」

「……そうかもな」


 人間だろうが魔族だろうが、弱い者は必死に生きようとする。それが歪んでしまえば、こんなふうに狂信者が生まれるのかもしれない。何が正しいかなんて、俺にはもうわからない。

 ただ、少なくともこの城にいる者たちは、俺を助けてくれた。


「しっかり休め。それが今のお前にできる戦い方だ」


 ルシファが俺の髪をそっと撫でる。引き剝がすでもなく、拒むでもなく、俺はそのまま目を閉じる。

 不思議と、混乱していた心が少し落ち着いていく気がした。

 この腕の中にいるときだけは、いま抱えこんだ罪悪感や不安を一瞬忘れてしまいそうになる。


「……悪い。ちょっとだけ、こうしてていいか」


 何を言ってるんだ、と自分でも思うけれど、ルシファは何も問わず静かに抱き寄せてくる。

 体温が広がり、まるで吸い込まれるような不思議な心地よさにとろけそうだ。外では兵士たちが慌ただしく動き、侵入者の残滓を探す中、俺だけがこの甘いぬくもりに浸っているのは変かもしれない。


 けれど、もうどちらが正義でどちらが悪かなんて、どうでもよくなりつつある。俺は俺の守りたいものを守るために、ルシファと同じ景色を見つめる。それだけのことだ。

 腕の封印が熱を放ちながら、俺の心臓と同じリズムで脈を打っている。疲れが一気に押し寄せるように瞼が重くなっていく。


「少しだけ、休む。騒ぎが収まったら教えてくれ」

「ああ、わかった」


 ルシファの低い声が頭の奥に響いて、俺はゆっくりと呼吸を落ち着かせる。こんなにも不安で、こんなにも安心している矛盾に、心がふわふわ浮かんでいるようだ。疲労と安堵が入り混じる中で意識が薄れていき、最後に微かな熱を感じながら思わず頬を緩める。


 侵入者を捕えたとはいえ、これで終わりだとは思えない。けれど、今このひとときだけは、たとえ束の間でも安息を味わっていたい。ルシファの魔力が鼓動を優しく包み込み、俺の身体はやけに素直にそれを受け入れている。


 ――まいったな、すっかりこっち側じゃないか。


 声にならないつぶやきとともに、微睡みの世界へ落ちる。

 どこかで小さな物音がした気がしたけれど、もう何も考える余裕がない。遠のく意識の先で、ルシファのかすかな息遣いだけが耳に残っていた。


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