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第6章 愛も、正義も、全部俺を壊しに来る


 モヤモヤと晴れない気分で城の廊下を歩く。

 つい先ほどまでリュドがこちらを睨みつける姿を見ていたはずなのに、今こうして戻ってきた魔王城の空気は、どこかやけに静まり返っている。


 外の喧騒と比べれば、これはむしろ落ち着けるはずだ。

 だけどこの“安心感”が今の俺には厄介だ。魔王の城内は暗く荘厳で、ふつうの人間なら怖気づくような空間だと思う。でも、今の俺はなぜかここにいると妙に呼吸がしやすい。

 まるで、ここが自分の居場所みたいに感じる瞬間がある。


 理由は誰に聞かずとも勝手にわかってしまっている。城に満ちる、あの特有の魔力の流れ。

 ルシファの存在を肌で察知すると、どこか安心してしまう。完全に魔力依存の影響だと思い込もうとしても、この感情は魔力だけのせいなのかどうか、自分でも判断がつかない。


「……あー……。本当に、どうしろってんだよ」


 小さく呟いてみても、城の壁は何も答えない。重々しい扉を抜けると、いつものようにセリナがさりげなく控えていた。


「お帰りなさい。外は騒がしかったようですが、大丈夫でしたか」


 穏やかな口調のはずなのに、どこか探るような色が混じっている。

 リュドとの一悶着を見ていたはずだし、それ以外にも人間側の視線にさらされた俺の動揺を、セリナなりに感じ取ったのかもしれない。


「ああ……特にケガはない。ただ、なかなか厄介な相手に会ってしまった」

「彼はあなたの“かつての仲間”ですよね」

「仲間っていうか……微妙な関係だったな。俺自身も、どう呼べばいいのかよくわからない。お互いに何もかも理解し合ってたわけでもないし、そもそも最初から一枚岩って感じじゃなかった」


 口に出してみると、そこに漂う空虚さが重い。リュドは俺を責めるみたいな口調だったし、あいつ自身も何かイラついている雰囲気だった。

 まるで俺に嫉妬しているみたいな……そんな印象すら受けたけれど、本当のところはわからない。


「いずれにせよ、ルシファ様はあなたを城へ戻すようおっしゃっていました。力の安定を最優先すると」

「安定ね……」


 封印の紋様が淡く光る。ここ数日、外の空間に出ると、とたんにこの熱が暴れだす。

 とくにリュドと対峙した時は、頭の芯まで痺れるような痛みを覚えた。魔族の土地だからって単純な理由だけじゃない。どうやら俺の心が乱れると紋様も共振するみたいだ。


「少しお休みになりますか。食事は後ほどお持ちします」

「うん……悪いけど、頼む」


 素直にそう応じると、セリナは軽く会釈して廊下の奥へ消える。彼女の背中を見送りながら、小さく息を吐いた。頭の中がゴチャゴチャだ。


 いつも使っている部屋――黒いカーテンと重厚な寝台がある例の特別室へ足を向ける。

 扉を開けるとやたらと静かで、澄んだ空気のような魔力がふわりと漂っている。

 こういうとき、ルシファが近くにいるのかいないのか、何となく気配でわかるようになってきた。


「……戻ったか」


 部屋の奥にある一枚ガラスの前で、白銀の髪が揺れる。

 ルシファはそっと振り向き、蒼い瞳で俺を見つめる。その視線に触れた瞬間、喉がカラカラに渇くような感覚が襲ってくる。まったく、どうにかしているくらい美しい。神話の彫刻がそのまま動いているみたいだ。


「また勝手に俺の部屋にいるのかよ」


 少し乱暴な口をきいてしまうけれど、ルシファは気にもとめないようすでゆっくり近づいてくる。

 距離が縮まるたびに心臓が騒ぎだしそうになるから、俺は何とか平静を装う。


「お前がここで休むのを待っていた。外の街でのこと……あまり楽しい時間ではなかっただろう」

「そりゃそうだ。知り合いに“魔王の番”扱いされたんだから、どういう顔すりゃいいのかもわからない」


 言葉に詰まる。普通に考えたら、魔王の番、なんて何とも刺激的すぎる響きだ。

 恥ずかしいとか腹が立つとか……いや、そもそも俺自身がそれを完全には否定できなくなっているのが問題だ。


 ルシファは静かに瞼を伏せる。いつもの冷徹な雰囲気とは違う、どこか悲しげにも見える仕草に思わず視線が止まる。


「もしお前が本当に嫌がっているなら、城の外へは連れ出さない。それでもよければ、俺はそうするつもりだ」

「それってつまり、監禁状態を続けるってことだろ? どっちが正解なんだか」


 人間界の仲間たちと再会したところで、あんなふうに言い争いになるなら、下手に出かけないほうがいいのかもしれない。けれど、監禁されていい気分になるわけもない。


 それでも、外に出るたびに感じる“居場所のなさ”みたいな苦しみよりは、この城に留まったほうがまだ楽だなんて自分が嫌になる。

 俺は勇者だったんじゃないのか。なのに、今は魔王の魔力にすがる形でなんとか生き延びている。

 その矛盾がどうしようもなく胸を締めつける。


「お前には選択権がある。嫌ならば無理には引き止めない。しかし、その時は命の危険も覚悟してほしい。封印が安定する前に俺の魔力から離れれば、お前の体は崩れていくから」

「……わかってる」


 そう、今さら逃げ出そうにも封印のせいで体が無事かどうか怪しい。

 仮に完全な自由を得たとして、俺はどこへ行けばいいんだろう。


「それで、あいつ――リュドだけど。もともと、そんなに悪い奴じゃなかったんだ。だけど、今日会ったときは妙に攻撃的で……」


 とりとめもなく話し始めた俺を、ルシファは真剣に聞いてくれる。相槌はほとんどないけれど、その蒼い瞳に吸い込まれそうになる。彼の横顔はいつ見ても綺麗だ。


「そいつは、お前を人間として取り戻したいのか。あるいは、自分が持っていなかったものをお前が手にしていると思って苛立っているのか。どちらにせよ、お前を縛ることはできないはずだ」

「わからない……あいつの本心までは読み取れなかった。俺も余裕なかったし」


 リュドだけじゃなく、俺がかつて一緒にいた仲間たちはどう思っているのか。

 勇者パーティだったころの記憶は曖昧な部分もあるけれど、そこには“打ち解けた絆”というより“利害一致”の関係が浮かんでくる。もしかしたら、最初からどこか不協和音があったのかもしれない。


「お前が考えるべき事は、ほかにある。リュドという人間の事情よりも、今お前自身が何を望むか。それを見失うな」

「……何を望むか、か」


 そんなの、自分でもわからない。魔王を倒すという目標は崩れ去ってしまった。俺の腕には、かつての剣の感触すら残っていない。

 人々を守るために戦ったはずなのに、今はこうして魔王の城で腕に封印が刻まれ、気づけば俺の心は彼に引き寄せられている。


「……なあ、ルシファ。もし俺が、もう一度人間の側に戻りたいって望んだら、お前はどうする?」


 問いかけると、ルシファはほんの少しだけ眉を寄せる。心の奥を試すような俺の質問に、彼がどう答えるのか気になって仕方ない。


「もし本当にそれを望むなら、止めはしない。だが、俺はお前がどこにいても、お前を見つけるだろう」

「それは、つまり……」

「たとえお前が離れようとしても、俺はお前を追う。俺が、傍にいて欲しいからだ」

「はぁ、めちゃくちゃじゃないか。止めないって言ったあとに、すぐ追うって」


 思わず苦笑する。ルシファは一瞬だけ困ったような表情を浮かべ、すぐに小さく笑う。


「確かにな。矛盾している。……それでも、これが俺の気持ちだ。お前と離れたくはない。だが、お前の意思を否定して無理やり縛るのも違うと思っている」

「こんな魔王、聞いたことないや」


 信じられないけれど、嘘を言っているようにも思えない。ルシファという存在は、従来の魔王像とはまるでかけ離れている。支配と独占を当然のように押しつけてくるかと思えば、俺の意思を尊重するそぶりも見せる。それはけっして甘いだけの優しさではなく、底知れない執着の裏返しでもあるのだろう。


 何より、俺の胸がその言葉に呼応して一瞬だけ温かくなる。

 この感情が魔力にゆがめられているだけかもしれなくても、心が揺れるのは事実だ。


「……気持ちが整理できない。ちょっと休む」

「ああ。俺はここにいるから、何かあれば呼べ」


 いつものように抱きしめてこようとはしない。

 けれど、その蒼い瞳が最後まで俺を見守るように追っているのがわかる。俺は少し視線を外し、重い足取りで寝台のほうへ向かう。

 ふかふかの黒い寝台に腰を下ろすと、身体が急に鉛のように重たく感じて、ベッドの上に倒れ込む。


 また妙な夢を見そうな気がする。最近は夜ごとに、誰かの記憶めいた映像が頭を駆け巡るのだ。

 白銀の髪をたなびかせた姿が、やけに懐かしく思えてしまう。

 それがルシファの過去なのか、あるいは俺の知らない“もう一人の自分”なのか。知りたい気もするけれど、いざ思い出しかけると恐怖で頭が痛くなる。


「……考えすぎても仕方ないか」


 目を閉じると、ゆっくりと意識が沈み始める。

 耳の奥でかすかにルシファの息遣いを感じるような錯覚を覚えながら、まどろみの縁に落ちていく。



 微かな熱気が肌を撫でて、目が覚める。いつの間にかルシファの姿は消えていて、代わりに薄暗い照明が灯された部屋の片隅には、丸テーブルに食事の支度が置かれている。セリナが運んでくれたのだろう。熱いスープの香りが空腹を刺激して、低く腹が鳴る。


「やれやれ……食って寝てばっかりじゃ、そのうち動けなくなるかもな」


 苦笑しながらテーブルに座り、蓋を開けると、あたたかい湯気がふわりと立ちのぼる。飲み込むと心までじんわり温まっていく感じがして、思わず目を細めてしまう。こういう生活に慣れてしまうと、ますます抜け出せなくなりそうだ。


 そのとき、廊下のほうから控えめな足音が近づいてくる。ノックの音に返事をすると、思ったとおりセリナが姿を見せた。相変わらず無表情だが、どこか安堵しているようにも見える。


「よく眠れましたか。あまり長く眠っていたので心配しました」

「まあ……ちょっと変な夢も見たけど、体は楽になった。ありがとう」


 セリナは小さく頷き、部屋の中央付近で立ち止まる。そこから先に踏み込むのは躊躇しているらしい。魔王の私室に等しいこの部屋は、部下の身分なら気軽には入りづらいのかもしれない。


「実は……少し気になる報告があって」

「気になる報告?」

「陛下がおっしゃっていたわけではありませんが、魔王城の外れに“人間の神官らしき者”が潜んでいるという情報が届きました」


 神官──胸が嫌な予感に締めつけられる。俺が勇者として呼ばれたとき、教会の偉い司教だとか、そういった連中が色々と裏で暗躍していた記憶がうっすら残っている。真偽はともかく、“人間の正義”を振りかざして魔族を弾圧するような思想を持つ奴らがいたのは確かだ。


「誰かはわかるのか?」

「今のところ情報が少なくて。けれど、複数人でここへ来ている可能性があるそうです。リュド様とは別行動のようですが、目的はわかりません。陛下は“放っておけ”と仰っていました」

「放っておけ、ね……。危険じゃないのかな」

「この城は陛下の魔力障壁で守られています。たかが人間の神官がどうこうできるものでもない、と陛下は考えているようですが」


 セリナは淡々と言葉を並べながら、その瞳にわずかな警戒の色を宿している。心のどこかで不安を抱いているのは間違いなさそうだ。


 もしも相手が、俺の知る司教や神官だったらどうなるだろう。魔族討伐を押し進めるような過激派が潜んでいるなら、放置するのはさすがに危険な気がする。

 今さら“魔王を守りたい”なんて考えている自分にびっくりするけれど、魔族側に大きな被害が出るのも後味が悪いし、ルシファがこれを甘く見ているのも気がかりだ。


「陛下に直接話をしてみますか」

「……そうだな。少なくとも警戒するに越したことはない」


 セリナが軽く頭を下げて部屋を出る。ひとり残された俺は、未だ半分ほど残っているスープに口をつけながら、神官の出現にざわざわと騒ぎ出す胸の内を抑えようとする。

 教会が絡むとろくなことがない。それは俺のぼんやりした記憶の中でも、はっきり嫌な気配があった。


 もしもあのミュリエルとかいう司教が来ているのだとしたら、面倒な事態になりそうだ。あいつは“神の御名”を掲げて、あらゆるものを裁こうとする狭量な狂信者だと聞いた。現にかつて、魔族への攻撃を主導したのも教会の一部勢力だった気がする。もしかすると、リュドが俺を探しに来たのとは別に、教会側も独自に動いているのかもしれない。


「……ルシファはそこまで気にしてないみたいだけど」


 彼は本当に、“たかが人間の神官”だと思っているのかもしれない。確かに魔王の魔力は圧倒的だ。だが、もし敵が何かとんでもない儀式や呪術を持ち出してきたら……。

 考えれば考えるほど、胸が重苦しくなる。


 ――人間か、魔族か。どちらの味方をするかなんて、そんな単純な二択で片づく話じゃない。

 でも、自分を招き入れてくれた魔王側が危機に晒されるなら、俺はもう逃げられない。


「嫌だな。まるで俺が魔族に肩入れしてるみたいじゃないか」


 苦い笑いがこぼれる。そう、俺は確かにここで“生かされている”。


 食器を片づけて部屋を出ると、廊下を巡回している魔族の兵士とすれ違う。彼らは俺が顔を見せると、かすかに会釈するようになっているらしい。最初は敵視していたように見えたけれど、今や“陛下の番”として扱われているのだろう。表情こそ険しいが、敵意は感じない。


 廊下の先にある大きな扉を開けると、そこはルシファが玉座を置いている謁見の間。

 奥へ進むと、玉座の脇にはセリナが控えている。その隣には、見慣れない魔族の男がひとり。どうやら兵士か侍従か、とにかく報告を持ってきたような雰囲気だ。ルシファは正面に立ち、いつもの冷静な表情で話を聞いている。


「……わかった。お前たちは過剰な手出しをせず、動向を注視しろ。こちらから仕掛ける必要はない」

「はっ」


 魔族の男が一礼すると、踵を返して謁見の間を出ていく。そのすれ違いざま、ちらりと俺を見て会釈するのを感じ、妙なむずがゆさが胸をくすぐる。やっぱり“番”として認識されているのだろうか。


 ルシファはちらりとこちらを見て、淡く微笑む。見惚れそうになるのを必死で抑えつつ、俺は口を開く。


「例の神官の話だよな。セリナから聞いた」

「そうだ。数名が城の周辺にいるらしいが、こちらから動かなければ何もしてこないはずだ。彼らにとって、魔王城はあまりに危険だからな」

「でも……手をこまねいてるのも嫌な予感がするんだけど」


 視線をぶつけると、ルシファは軽く顎を引く。彼自身、特段の焦りは感じていないようだ。城には強固な結界があるうえ、魔族の兵力も盤石。人間ごときが入り込む余地などない――という自信なのかもしれない。


「お前が心配なら、少し手勢を動かして警戒を強めるよう指示しておく。もっとも、俺が本気で結界を張れば、人間の軍勢が数千いようと破れはしない」


 その言葉に嘘はないのだろう。けれど、俺の中のモヤモヤは晴れない。教会は正面からの戦争を挑むわけじゃなく、裏でこっそり儀式を仕組む可能性もある。

 人間の狂信者は、時に恐ろしい手段に出るからこそ厄介だ。


「もうひとつ気になるのが、人間の誰かが“俺を取り戻す”みたいな動きをしてるかもしれないってこと。リュドはああ言ってたし、もしかしたらその背後で教会が糸を引いてるんじゃないのか」

「……お前を取り戻す、か。もしそれが事実なら、彼らは確実にお前の存在を狙ってくる。すでに気配を探っているかもしれない」


 そう言うルシファの瞳は鋭い光を宿している。

 ナユタという存在が単なる勇者で終わらないことは、本人も周囲もわかっているはず。俺の体に秘められた《リライター》の力や、魔王と契約している特異性が彼らにとっても重要な駒なのかもしれない。


「……どうすんだ。俺を今のまま、ここに閉じ込めるか?」

「お前が外へ出たければ、俺が同行する。だが、無闇に人間側の懐へ飛び込むつもりなら止める」

「わかってる。そんな無茶をする気はない」


 どこにも確かな居場所がない、なんて堂々と言えるわけじゃない。

 だけど、人間側へ戻って“おかえり”と言われる可能性が低いことも、骨身にしみてわかっている。中途半端なまま行動すれば、ろくな結果にならないだろう。


「俺にとって、お前の安全は何よりも優先すべきことだ。……それがわかっていればいい」


 ルシファが一歩距離を詰め、俺の目を見つめる。

 その瞳に吸い込まれそうになるのを必死にこらえるが、呼吸が早まるのがわかる。彼はゆっくりと手を伸ばし、俺の封印の紋様に触れようとする。

 身体が一瞬緊張したが、不思議と嫌悪感は湧かない。


「ここ、また少し熱を帯びている。お前の心が不安定になると反応するらしいな」

「……余計なお世話だ」


 そう言いながらも、そっと触れられた箇所に落ち着くような心地よさが広がる。

 むしろ、自分からすがりつきそうになる感覚すらあって、思わず奥歯を噛みしめる。こんな状況、決してまともじゃないのに。


「陛下……失礼します」


 セリナの声がして、俺たちは同時にそちらへ視線を向ける。彼女は申し訳なさそうに一瞬だけこちらを見やり、それから報告らしき紙を差し出す。


「例の神官ですが、集落で不審な儀式の痕跡が見つかったそうです。やはり目的は不明ですが、隊が確認を急いでいます」

「わかった。引き続き監視を厳にしろ」

「承知しました」


 淡々と進むやり取り。それをぼんやり眺めていると、ルシファが再びこちらに向き直る。その横顔は、先ほどまでとは違う鋭い冷気を纏っている。たとえ人間の神官が相手でも、放置はできないと判断したのだろう。


「お前は部屋で休んでいろ。状況が変わればすぐ知らせる」

「俺も何か手伝えるなら手伝う」


 迷いながらもそう言いかけるが、ルシファはまるで子供をあやすみたいに静かに首を振る。返ってくる声は低く、それでいてひどく優しい響きを宿している。


「今はまだ早い。お前の封印をこれ以上不安定にさせるわけにはいかない。……頼むから、俺のそばを離れないでくれ」

「……わかった」


 素直に従ってしまう自分が不甲斐ない。でも、あの眼差しを拒絶するのは無理だ。

 わかっている。俺はもう、彼から完全には逃げられない。


 だけど、ぼんやりとした予感が胸を締めつける。

 神官たちは本当にただ観察しているだけなのか。それとも、俺を連れ戻すために何かを仕掛けるつもりなのか。あるいは、もっと大きな陰謀が進んでいるのかもしれない。


 人間と魔族、どちらも簡単には割り切れない。けれど、現状の俺はまるで“魔王側”の立ち位置に立っている。いずれこの事実が、さらなる争いを呼ぶんじゃないかと、胸が苦しくなる。


「……どう転んでも、しんどそうだな」


 呟きは虚空に溶ける。ルシファの気配を背後に感じながら、俺は複雑な思いを抱えたまま謁見の間を後にする。


 ――運命なんて言葉を、いまだに信じたくはない。だけど、この状況はまるで何かに導かれているようにしか思えない。魔王の腕を振り払えず、人間側にも戻れず、俺はこの城で芽生え始めた感情と向き合い続けるしかない。


 そして、その先に待ち受けているのは――


 考えかけた瞬間、頭の奥がずきりと痛む。行き場のない不安と期待が絡み合うまま、俺はそっと胸に手を当て、強引に息を整える。

 俺はもう、なりゆきまかせでも前へ進むしかない。


 人間でも魔族でも、誰かが待ち構えているとしても、ここを離れる道を――今はまだ、見つけられない。


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