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第4章 この記憶、俺じゃない。けど、俺なんだ──


 馬車に揺られているはずなのに、硬い床に背中をつけて横たわっている感触がする。

 目を開けると、そこには崩れかけた漆黒の瓦礫が広がり、割れた石壁や折れ曲がった柱が視界を塞いでいる。一瞬、ここがどこなのかわからない。

 確かさっきまで魔王ルシファと馬車に乗っていたはずじゃなかったのか。


 鼻を刺すような焦げくさい匂いと、空気には血と土埃が混ざった生々しい気配。

 まるで戦場の残骸だ。何が起きた? 頭がぐらぐらする。


「……ここ、どこだ……?」


 かろうじて声が漏れる。まともに呼吸するだけでも息苦しい。

 あたりには誰もいないのに、かすかに誰かのすすり泣く声が聞こえてくる。瓦礫の陰だろうか。


 瓦礫の間を少し歩くと、崩れかけの回廊の奥に、白銀の髪を持つ少年がうずくまっていた。

 破れた服に痩せた体つき。埃を被った長い髪が彼の肩を流れて揺れている。震える声で何かを呟いているが、はっきりとは聞き取れない。


「おい、大丈夫か――」


 声をかけようとするが、自分の声がかすれていて耳鳴りにかき消される。

 少年は俺の存在に気づき、顔を上げる。

 涙を浮かべた蒼い瞳――宝石のような、しかし深い孤独に満ちた色。

 おもわず息を飲む。なぜか、その瞳が見覚えのある誰かのものと重なる気がしてならない。


「……どうして……僕を、置いていくの……」


 少年の唇がかすかに震えている。はっきりと聞き取れるわけではないのに、その言葉が直接頭に響くような感覚がある。

 彼は何を訴えている? 大切な人に捨てられたような、そんな、悲壮感。


「俺は、お前を置いてなんか……」


 否定しようと声を出す瞬間、視界が大きく揺れる。遠くで崩れ落ちる天井のような轟音がして、粉塵が舞い上がる。頭が割れるような痛みが走り、意識が一気に遠のきかける。

 少年が悲痛な表情で何かを言いかけて――

 そこで、光景がぷつりと断ち切れた。



「……ユタ、……ナユタ!」


 誰かが肩を揺さぶっている。目を開けると、黒い天井――魔王城の客間だ。

 どうやらソファに横になっていたらしい。肩を掴んでいたのはセリナだ心配そうに俺を覗き込んでいる。


「私が少し席を外したら、あなたが倒れたと報告があって……大丈夫ですか?」

「倒れた……? 馬車に乗ってて、城に戻るはずだったよな」

「ええ、馬車が城の正門をくぐるあたりで急に意識を失ったそうです。今は陛下があなたをここに運んでくださって――」


 そこで口を濁すように言葉が途切れる。セリナの視線の先、少し離れた場所にルシファが立っている。相変わらず冷静そうな様子だが、その瞳の奥にわずかな焦燥が混ざっているように感じる。

 慌てて身を起こすと、頭がくらっとする。


「うっ……変な夢を見た。廃墟みたいなとこに、白銀の髪をした少年がいて……」


 上半身を支えながら眉間を押さえる。あの映像はただの夢にしては生々しすぎる。瓦礫、血の匂い、少年の涙――どれもが衝撃的で、どうにも胸の奥が軋む。

 額に手を当ててうめくと、ルシファが近づいてくる。


「痛むか。馬車の中でも苦しそうにしていた」

「痛いっていうか、胸がざわざわして……あれ、本当に夢なのか?」


 答えを求めるように彼を見上げる。ルシファは少しだけ視線を伏せたあと、低く囁く。


「お前の中で、断片的に記憶が呼び覚まされているのかもしれない。かつてお前が俺と契約を交わした頃の名残、あるいはさらに昔の記憶……」

「昔? 俺は転生者だって聞いたけど、そんな、何百年も昔のことを……」


 肩をすくめてみせるが、さっきまで見た光景のリアルさを思い出すと、否定はしきれない。確かにあの少年はどこかルシファに通じるような印象がある。

 セリナが静かに息をつく。


「契約者が記憶を共有することは珍しくありません。特に“番”としての結びつきが強い場合は、過去の魂の痕跡を見てしまうことがあるとか」

「番、番って、そんなふうに言われても……」


 自分が望んだわけじゃない。ただ命を救われた結果そうなっているだけだ。

 そう思っていても、今の身体には確かにルシファの魔力が宿っている。逃れられない感覚を突きつけられて、苦い気持ちが胸に溜まる。


「でも、気になるならもう少し深くその記憶に触れることもできる。封印が完全に安定すれば、痛みも少ないはずだ」


 ルシファの声が静かに耳を打つ。あの白銀の髪が微かに揺れている。馬車の中でも感じたが、彼にはどこか“哀しみ”に似た影がある。あの少年と同じように、孤独を抱えていた過去があるのだろうか。


「俺……に限らず、そんな何百年も前のことなんか、覚えてなくて当然だろ? だけど……やっぱり夢の中のあの感じ、気になるんだ」


 もやもやする。契約を深めれば、あれがどんな過去なのか、なぜ少年があんなに悲しんでいたのかを知ることができるのかもしれない。

 でも怖い。知ったところで、俺は自分自身の生き方をどうするんだろう。


 セリナは視線を伏せて一礼する。


「では、少しでも体力があるうちに儀式室へ行きませんか? ナユタが望むなら、陛下が手伝ってくださるはずです」

「儀式室……どうせまた“俺を抱く”とかそういう流れになるんだろ? もう慣れないんだけど」


 自嘲気味に呟くと、ルシファが少しだけ表情を緩める。あまりに自然体でこちらを見つめてくるものだから、やけに照れくさい。


「嫌か? 辛ければ無理はしなくていい。それに、やり方はいろいろある」

「……どうせ魔力を交わすんだろ? 同じことじゃないか」


 言葉では反発しても、胸の奥では逃げずに踏み込みたい気持ちが湧いている。もう二度とあの少年の哀しそうな瞳を見て見ぬふりはしたくない。そんな自分の本音を自覚し、セリナに向けて小さく頷く。


「わかった。行く。あの夢の正体を、はっきりさせたい」



 案内されて入った部屋は、以前目覚めた寝室より広い。中央にある寝台は大きく、周囲の床には幾何学的な魔力紋様が刻まれているのがわかる。部屋全体がまるで生き物のように魔力を帯びて、かすかに振動している気さえする。


「ここが儀式室だ。外部からの干渉を遮断して、魔力を集中させるのに適した空間だ」


 ルシファが言うとおり、壁や天井にも刻まれた印が淡く光を放っている。セリナは部屋の入口付近で控えたまま、奥へは踏み込まない。ここから先は二人だけの空間だと暗に示しているのだろう。


「じゃあ、どうやってこの記憶とやらを引き出すんだ? 叩いたら思い出すとか、そういうレベルじゃないんだろ?」


 苦笑を交えながら尋ねると、ルシファはさっと手を伸ばして俺の肩に触れる。そこでごく微量の魔力を送られただけなのに、肌に鳥肌が立つ。

 驚いて彼を見ると、彼は穏やかながら真剣な眼差しを向けてくる。


「お前の記憶は、封印による生命維持の過程で混線している。もっと深く接触して魔力を巡らせれば、根元をたぐり寄せられるかもしれない。ただ、痛みも生じるだろう」

「痛みね……でも、ここまできて逃げられないだろ」

「覚悟はしておけ。意識が混濁しても、ちゃんとここに戻れるように俺が支える」


 やけに優しい声に胸が締まる。魔王だというのに、こうして見ているとただの男の人に見える。

 ──いや、今さらそんな感想を抱いても仕方ない。

 ルシファが俺の手を引いて寝台へ近づく。途端に顔が熱くなる。視線をそらすと、彼は少し苦笑したような気配を見せる。


「色気のある行為をしたいわけじゃない。ただ、お前の内奥にアクセスしないとどうしようもないからな」

「……言い訳が余計なんだよ、まったく」


 軽く悪態をつきながらも、内心では心臓がドキドキしている。ルシファが冷静に見えて、俺がやたら意識しているみたいで腹が立つというか、落ち着かない。


 体を横たえると、ルシファがそっと俺の上半身を支えるように抱きかかえる。黒い衣装のすき間から感じる体温に、また動揺が走る。それでも何とか呼吸を整え、瞳を閉じる。


「体の力を抜け。いざとなれば呼吸を深くして、俺の魔力に身を任せるんだ」

「任せるって、簡単に言うなよ……っ」


 そう言いかけたところで、封印の紋章が熱を持ち始める。ルシファの指先がその紋章をなぞると、強烈な電流が走ったかのように全身が震える。痛みと快感の境界が曖昧になり、呼吸が乱れる。


「くっ……」


 呻き声をこらえる。頭の奥でノイズが走り、視界がちらつく。さっきの瓦礫の風景がちらついて、あの少年の蒼い瞳がぼんやり浮かんでは消える。今にも別の世界へ引きずり込まれそうだ。


「離れるな。お前が落ちてしまえば、俺もお前を引き戻せなくなる」

「……落ちるって……どういう……」


 声に出す間もなく、意識がぐるりと回転するような錯覚に襲われる。まとわりつく魔力の渦は俺を過去へ誘う扉そのものだ。

 ルシファの腕が俺の背に回り、抱き寄せる感触がかすかに現実へつなぎとめてくれている。



 気づくと、また廃墟の世界だ。今度は瓦礫だけじゃなく、空全体が赤黒く染まっているのもわかる。血のようなにおいが鼻を突き、足元には割れたステンドグラスの破片が散らばっている。


 先ほどよりはっきりとした痛覚が体を襲う。頬に切り傷があって血が滴っているのがわかる。おそらくこれも“記憶の中の俺”が受けた傷なんだろうか。

 歩みを進めると、先の方に白銀の髪が見える。あの少年だ。少し年上になったように見え、瞳には怒りと悲しみが渦巻いている。


「世界なんて、僕を受け入れる気はないんだ……」


 低く震える声。魔力が彼の周囲で蠢き、柱や壁を焦がしていく。かなり危険な状況だが、同時に彼の涙声が胸に突き刺さる。こんなにも苦しんでいるのに、どうして誰も助けてやらない?


「やめろ……そんなことをしたら、お前はもっと孤独になる」


 必死に声を張り上げようとするが、息が上手く繋がらない。それでも何とか足を踏み出す。

 自分の手の中に握られた剣には、微かなひび割れが走っていて、もうまともに戦える状態ではないようだ。だが今俺は、あの子を止めたいだけだ。戦闘なんかで解決する問題じゃないはずだ。


 少年が振り向き、目を見開く。一瞬、蒼い瞳に安堵の光が宿った気がするが、それはすぐに絶望的な色へと変わる。


「君まで、僕を拒絶するなら……僕は……っ」

「拒絶なんか、しない!」


 大声を出す。体がぶれるほどの勢いで叫んでいるのに、声がかすれて苦しい。廃墟を満たす闇と血のにおいが混ざり合い、頭が痛む。それでもあと少しで、彼に手が届きそうだ。

 伸ばした指先が触れ合う寸前、激しい熱風が吹き荒れ、剣が砕け散る音が耳に刺さる。


「うわっ……!」


 たまらず膝をつく。視界が赤く染まって、耳鳴りで何も聞こえない。

 ふいに少年が浮かべる哀しげな笑顔が目に入る。その表情は、諦めを通り越した空虚。まるで全てを捨ててしまったような――


「また、一人になる。僕は……」


 聞こえないはずの声が、頭の中で反響する。切なさで胸が痛む。こんな結末は望んでいない。彼を守りたいのに、体が動かない。怒りとも悔しさともつかない大きな感情がこみ上げて、涙が滲む。


(駄目だ、また助けられないのか? 俺は何のために剣を握った?)


 喉が軋む。少年の足元に赤黒い血が広がり、瓦礫の上に花のように広がっていく。誰の血だ? 何が起きた? 見ようとしても視界が回転して、意識が吹き飛びかける。



「……目を開けろ。ちゃんと戻ってこい」


 ルシファの声が耳に飛び込む。気づくと、俺は彼の腕の中で息を荒らしている。かろうじて儀式室の床に倒れ込まずにすんでいるが、顔が汗まみれだ。体温が異常なほど上がっていて、胸が苦しい。


「やば……苦しい……」

「魔力が過負荷になっている。呼吸を合わせろ。ゆっくり吸って……そうだ」


 ルシファが背中を撫でてくれる。その動作につられて呼吸に意識を向けると、ほんの少し胸の圧迫感が和らぐ。瞼を開けると、彼が近くで俺の顔を覗き込んでいる。こんなに近い距離で見つめ合っているのに、不思議と嫌悪は湧かない。むしろ安心が大きい。


「また、あの子が苦しんで……何もできなかった」


 弱々しい声でそう言うと、ルシファがそっと瞳を閉じて、一度だけ息をつく。


「お前が見ているのは、恐らく俺の……そしてお前の過去の片鱗だ。あのころ、俺たちは世界からも、人間や魔族からも阻害されていた。だからこそ、強い契約で互いを支え合っていたが……何らかの理由で途切れたのかもしれない」

「……俺たちって、最初から敵じゃなかったんだな」


 声が震える。勇者と魔王という立場で戦っていたのは、“後から作られた構図”にすぎないのかもしれない。そう思うと、リュドたちが言う“正義”も含めて、どこか空虚に感じてしまう。

 何が正しくて、何が間違いだったんだ?


「でも、このままじゃあの子は……って、もう過去のことか」


 過去は変えられないはずだ。けれど、心が騒ぐ。あの少年が流した涙は、どうしてあんなに現実味を伴っている? 今この瞬間にも、同じように苦しんでいるルシファの“心の傷”が存在するのかもしれない。


 ルシファが小さく頷く。


「過去に戻ることはできない。だが、お前が記憶を取り戻し、リライターの本質を理解すれば、世界の捉え方は変わる。お前はそれだけの力を持っているのかもしれない。……だから、失ったものを思い出すだけじゃない。新しく書き換えることだって可能だ」

「書き換える……世界を?」


 驚いて顔を上げると、ルシファはわずかに微笑む。

 まるで、再び孤独を背負わないために何かを期待しているような表情だ。その笑みを見て、俺の胸に妙な熱がこみあげる。もしかすると、“世界”ではなく“未来”を変える力が俺にはあるのか。それがリライターの能力なのか。


「……そんなの、自信無いよ。でも、俺は……あの子も、お前が傷つくのも……嫌だ」


 口にしてから、自分がどれだけ本音をぶちまけているのかに気づいて赤面する。でも、正直な気持ちだ。ルシファは少し驚いた様子を見せたあと、穏やかに笑う。


「お前は優しいな。昔もそうだった。契約者でありながら、俺にとって唯一の“救い”だった」


 その言葉がなぜかくすぐったくて、同時に胸が痛い。過去の俺がどんな存在だったとしても、今こうしてルシファの腕の中で呼吸を整えている。

 お互いの心音が近すぎて、冷静さを失いそうだ。彼の蒼い瞳を見つめ返すと、数秒間、時間が止まったように感じる。


「……ありがとう。今はそれしか言えない。俺、何も思い出せずに迷惑ばかりかけて……」

「迷惑なんて思わない。むしろ、お前がいてくれて助かっている。……それに、お前はこれからを選べる。俺の番として、一緒に過去を背負って生きるかどうかも、お前の自由だ」

「自由って。今さら離れられないだろ」


 自嘲めいた声が出るが、ルシファは首を振る。


「契約を強制はできない。もしお前が本当に望むなら、封印を解いて自由にすることも不可能ではない。ただ……その代償はお互いに大きいかもしれない。どちらがいいかは、お前が判断すればいい」


 その言い方に、胸がぎゅっと掴まれる。正直今は、離れるとか考えられない。やっと気づきかけた絆を手放すなんて、あの少年の痛みを無視するのと同じだ。

 だからといって、すべてを受け入れる覚悟があるかと問われれば、まだ答えは出ない。仲間たちや人間社会のことも気がかりだ。


「どのみち、まだ体が持たないし、リライターの力もどうなるかわからない。もう少し……いいか?」


 視線をそらしながらそう言うと、ルシファが微笑む気配がする。微かな体温がにじんで、手をそっと重ねられる。心臓が跳ねるように脈打っているが、今はそれがさほど不快じゃない。


「もちろんだ。お前が覚悟を決めるまで、俺は待つ。……昔みたいに焦って自分を壊したくないからな」


 意外なほど弱気な口調に、胸が痛む。ルシファだって、きっと不安を抱えているんだろう。

 さっきの少年の面影を背負いながら、孤独にならないよう必死で俺に手を伸ばしている。そう考えると、愛おしさに似た感情が静かに湧いてくる。


「……辛いんじゃないのか? 俺が全部思い出す前に逃げたら」

「ああ。だが、お前を信じている。たとえ逃げても、結局俺のもとに戻ってくると確信している」


 淡々とした口調だが本気だろう。呆れたやつだと思いながらも、内心では顔が熱くなる。

 いつからこんなに意識するようになったのか。胸がどきどきしてたまらないが、とにかく今はこの身体を立て直さないと。本格的な記憶追求には、まだ体力も気力も足りない。


「……一旦、部屋に戻る。休ませてくれ。いいか?」

「もちろんだ。セリナに準備させてある。歩けるか?」


 支えられながら寝台を出る。頭の芯がまだじんじんして、体がだるい。けれど、心はさっきよりもずっと軽くなっている気がする。あの少年が苦しむ風景はつらかったが、俺は何もできないままではなかった。こうしてルシファと向き合っている限り、少しずつ糸口を掴んでいる手応えがある。


 廊下に出ると、セリナがやはり入口付近で待機していた。こちらが出てきたのを確認し、安堵の表情を浮かべる。


「お疲れさまでした。大丈夫そうですね」

「ああ……そっちこそ、待たせて悪い」

「いえ、私は構いません。ただ、体は無理しないでください」


 セリナのそっけないようで優しい言葉が染みる。ルシファとともに歩みを進めると、少し遠くに見える廊下の窓から月のような青白い光が漏れ出している。

 夜なのか、あるいは魔界特有の空の色なのかはわからないが、妙に幻想的な光景だ。


「……ルシファ」


 ふと名前を呼んでしまう。彼が静かにこちらを振り向く。口にした瞬間に恥ずかしくなって黙り込むが、彼は特に気にする様子もなく「なんだ」と返事をする。


「いや……その、ありがと。おかげで、少しだけ道筋が見えた気がする」


 面と向かって感謝なんかするのは照れくさい。でも、きちんと言わないといけない気がした。ルシファはほんの少し唇の端を上げ、いつもの冷静さのなかに穏やかさを覗かせる。


「礼なんか要らない。俺が勝手にやっているだけだ。……お前は、俺の番だからな」


 さらりと言われると、やっぱり心臓が跳ねる。番なんて、簡単に受け入れられるものじゃないが、それでも悪い気はしない。むしろ、過去にそうだった可能性を思うと、自然に受け止められる気がするから不思議だ。


 屋敷の灯を横目に、廊下を静かに歩く。身体がだるくて自然とルシファに寄りかかるようになるが、彼は何も言わず支えてくれる。セリナが先導してくれるおかげで、何とか部屋までたどり着く。

 ドアの前でセリナは振り返り、俺の表情をうかがう。


「気分が悪くなったらすぐ呼んでください。陛下が不在でも私が対応します。いいですね?」

「わかった。ありがとな」


 俺が答えると、彼女は小さく頷いてそのまま立ち去る。ドアを開けて入った寝室は、少し前まで息苦しいほどの閉塞感を覚えた場所だが、今はほんの少し安心できる気がする。


「じゃあ、俺は休むわ。今度変な夢を見ても大丈夫かな……」


 ため息まじりに言うと、ルシファは扉のところで少し考えるようにしてから、歩み寄って俺の頭を軽く撫でる。


「もし見るなら、見ればいい。俺が悪夢を和らげる。お前は安心して休め」

「……どっちなんだよ、見てもいいのか、見ないでいいのか」

「好きにしろ。ただ、お前が泣くなら俺が拭う。それくらいはさせろ」


 意地悪なくらい堂々と言われ、こっちが照れくさい。そもそも泣かないし、と思いながらも、むしろ少しだけそういう優しさが頼もしく感じる自分もいる。まったく、情けない。


「言うことだけは立派だな、バカ」


 一応悪態をついておく。ルシファはクスリと笑い、そのまま部屋を出ていく。扉が閉まると同時に、疲れがどっと押し寄せた。ベッドに倒れ込んで、そのまましばらく動けない。


 さっき見た光景が瞼の裏でちらつき、あの少年の涙声が耳を離れない。俺は本当に何者だったのか。ルシファとどういう関係で、なぜ別れを経験したのか。

 すべてを知るには、まだ少し時間が必要かもしれない。でも、確実に近づいている気がする。


「この記憶、俺じゃない。けど……俺のもの、なんだよな」


 力なく呟く。すると封印の紋章がかすかに温かく光る。まるで遠くからルシファが呼応してくれているみたいだ。嬉しいのか恥ずかしいのか、自分でも感情の行き先がわからない。

 ただ、孤独感はあまりない。たとえどんな過去が待っていても、俺はもう一人じゃない。


 深い眠気が意識を覆っていく。今度こそ悪夢にうなされずに眠りたい。それでもまた何かを見てしまうなら、必ず覚えておこう。あの少年の声を、ルシファの声を、そして俺自身が何を求めていたのかを――。

 そんな決意を抱きながら、瞳を閉じる。熱が微かに残る封印紋章をそっと指先で押さえて、静かに呼吸を重ねる。


 暗いまどろみの中で、確かに誰かが囁く。「愛してる」とか「捨てない」とか、そんな甘く切ない言葉が混ざり合い、ひどく胸を締めつける。俺は寝返りを打ち、声にならない声を吐きだす。どれが俺の記憶で、どれがルシファの記憶かはもうわからない。でもそのすべてが、今の俺を形作っている。いつか必ず、はっきりと確かめたいと思いながら、静かに意識を手放す。


 ――この記憶は、俺じゃない。だけど間違いなく“俺の”一部だ。

 少なくとも、そう感じるだけの温もりが、胸の中に残っている。

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