第3章 契約者って、そういう意味だったのかよ…!
黒い天蓋に囲まれた寝台で目を覚まし、ぼんやりとまばたきをする。ここ数日――そう呼んでいいのかも曖昧だが――ずっと同じ城の一室で暮らしているので、起き抜けの風景も変わりばえがない。
けれど今日はなぜか、外の空気を感じたい衝動に駆られる。いくら魔王の封印がまだ解けていないからといって、このまま閉じこもったままでは気が滅入るだろう。
「そろそろ自由に動けないもんかね……」
部屋の隅には黒い衣装棚。中には俺用に用意された服が何着も並んでいる。最初は抵抗があったが、仕方なく着慣れたシャツやズボンに袖を通す。魔族向けの装いなのか、生地は薄手だけれど妙に丈夫らしく、動きやすい。前は少し胸が苦しくなって倒れかけたが、今日は体調が幾分マシだ。もう少し歩けそうな気がする。
扉を開けると、いつものようにセリナが控えていた。冷ややかな紅い瞳がこちらを見て、小さく頷く。
「目覚めましたか。今朝は調子が良さそうですね」
「うん、そこそこ。……外、行けないか?」
唐突な提案に、彼女はちょっと驚いたように眉を動かす。
「外とおっしゃると……城の敷地外という意味ですか?」
「できれば、そう。そりゃ勝手に出歩いちゃいけないのはわかってるけど、魔王の陛下に掛け合ってくれないか?」
何度も言うが、ここに閉じこもったままなのは精神的によくない。そもそも体が重かった間は仕方なかったが、だいぶ動けそうなので、空気の通う場所に出たい欲求が湧いている。するとセリナは考え込むように黙り、それから意外な返事をくれた。
「実は、陛下があなたを外に連れ出す予定をしていました。都合が合えば今日にも……と」
「あいつが? どういう風の吹き回しだよ」
思わず目を瞬かせる。魔王ルシファが俺を城の外へ出すなんて、ちょっと意外だ。もっとがんじがらめに“保護”されると思っていたのに。セリナがその無表情な顔のまま言葉を続ける。
「城下には魔族の都市“ヴァルト=リグレ”があります。陛下はそこでいくつか公務をこなし、人間側との交渉にも臨むそうです。せっかくならあなたも同行してはどうかと」
「人間側の交渉……?」
胸がざわりと波打つ。そりゃあ魔族との停戦なり、領土問題なり、人間と魔族の間でいろんな取り決めがあるのは想像に難くない。でも、そこに俺が行っていいのか?
――いや、むしろ都合がいいかもしれない。俺は一応“元”勇者だ。人間側が俺を見つければ、もしかしたら救助してくれるかもしれない。
「わかった。じゃあその話、のった。俺、行くよ」
即答すると、セリナは小さく頷いた。
「了解しました。陛下にお伝えします。外出の支度を整えておいてください。少し移動が長くなるので、防寒具も用意しますね」
◇
そんなわけで、数時間後――時間の感覚は曖昧ながら、セリナの案内に従って城の正門までやってくる。すでに玉座の間でルシファから直接「一緒に都へ行く」と告げられていて、俺としても腹を括った。今はルシファの封印が残っていて完全には自由にならないとはいえ、城から外に出られるチャンスだ。何かしら手がかりをつかめるかもしれない。
「乗れ」
ルシファが漆黒の馬車の脇で待っている。御者台には魔族の兵士らしき男がかしこまった様子で立っていて、俺たちを見て一礼する。セリナは副官ゆえに別の役目があるのか、自分が先に馬車へ乗り込んでから周囲を警戒しているようだ。
しかし、馬車といっても車体の色から車輪の作りまですべて漆黒に統一されていて、車体の側面には魔王の紋章が刻まれている。まるで儀式にでも使いそうな禍々しさが漂うが、意外なことに扉を開けると内部はきちんとクッションが効いた座席になっている。
「うわ……豪華だな」
つい感想を漏らすと、ルシファが当然だろうとばかりにうなずく。
「陛下専用ですから。座り心地は保証しますよ」
セリナが淡々と補足を入れる。俺はそのまま促されるまま奥の席へ腰を下ろし、向かいにルシファが座る。これほど近くで向き合うと、どうしても緊張を感じる。
彼の白銀の髪と蒼い瞳が、車内の暗い内装の中に浮かび上がるようで、目のやり場に困る。
「緊張しているのか?」
「あんまり馬車に乗る機会がなかったからな。それだけだ」
ごまかして視線をそらす。ルシファは優雅に脚を組んだまま、微かに笑う。馬車が出発すると、闇色の景色が窓の外を流れていく。
◇
しばらく走ると、遠くに黒紫の城壁が見え始める。あれが“ヴァルト=リグレ”という魔族の都市らしい。近づくほどに多くの建物の輪郭が確認でき、城壁の内側には青白く光る街灯が整然と並んでいる。あたたかな人の気配、というよりは幻想的な光と影が交差しており、俺が知る人間の都市とはだいぶ印象が違う。
「意外にも整備されているもんだな。もっと荒廃しているイメージがあった」
城壁の陰から見えてきた町並みを見て呟くと、セリナがすぐに言葉を返す。
「昔は荒れていた時代もあったようです。でも陛下が即位してからは、市民たちが住みやすいように整備されていきました。闇の力を使えば、自然とこういう特色になるのです」
実際、建物の屋根や壁面には魔力を通すための紋様が走っていて、淡い光が脈打つように点滅している。魔族という異形の存在が暮らしているとはいえ、その生活感は人間の都市とそこまで大差ないようにも見える。
やがて馬車が大きな広場で停まる。車輪が石畳を踏む音が響き、魔族の兵士たちが整列して馬車を囲んでいるようだ。扉を開けると、少し冷たい空気が流れ込んでくる。外へ降り立つと、すぐに魔族らしき人々の視線がこっちに集まるのを感じて、俺は内心で身構える。
「……あの……人間?」「いや、契約者って聞いたぞ」「魔王の番だって」
ひそひそとした声が広場のあちこちから聞こえてくる。俺は混乱を隠せず、思わずルシファに詰め寄る。
「番って何の話だよ。勝手に変な呼び方しないでくれ」
「事実だろう。お前は俺と契約を結んだ存在なのだからな。魔族の間ではそれを“番”と呼ぶ」
得意げな顔でそう言われると、恥ずかしいやら腹立たしいやらで顔が熱くなる。セリナが隣で少し視線を逸らす。
「契約ったって、俺はそんなつもりじゃ……」
言いかけると、突如として広場の向こうが騒がしくなる。何やら人間の騎士団のような連中がこっちへやってきた。金髪をなびかせて先頭に立つのは……リュドだ。かつての“勇者仲間”の一人で、貴族出身のエリート中のエリート。
「あれ……リュド……!?」
俺が思わず息をのむと、リュドのほうもすぐに気づいたらしく、瞳を驚きに見開く。
「ナユタ、嘘だろ……お前、魔王のそばにいるってどういうことだ」
震える声でそう言い放ち、鋭い眼差しをこちらに向ける。そりゃそうだ。普通、仲間だったはずの奴が魔王の隣で平然としていたら驚くだろう。
「あ、いや……いろいろ事情があってさ」
言葉を濁すが、リュドの苛立ちは明らかだ。
「事情? まさか……噂は本当だったのか? お前、魔王に抱かれたって聞いたが……!」
「な、なんでそういう直接的な言い方……」
背筋がぞわっとする。リュドの言葉に広場の空気がさらにざわめき、魔族側の視線までもが集中する。俺はいたたまれない気分で、ルシファをちらりと見る。すると彼は完全に余裕の表情で、薄く笑んでいる。
「事実でしかない。だが、そこまで大声で言わなくてもいいだろう」
ルシファが静かにそう言うと、リュドは怒りを噛み殺したような声を出す。
「くっ……お前が魔王に従うなんて、最低だ。人間の裏切り者が……」
裏切り者。その言葉がグサリと胸に刺さる。たしかに、魔王城に滞在しているのは事実。俺は人間の側に戻っていない。言い訳しようにも、今の状態ではどうにもならない部分が多すぎる。
リュドの周囲にいる騎士たちの視線も冷たい。彼らからすれば、仲間を捨てて魔族についた卑怯者にしか見えないのかもしれない。だが、真相は全然違う。俺だって好きでこうしているわけじゃない。口を開こうとするが、言葉が見つからない。
「……お前らこそ、何しに魔族の都まで来てるんだ」
押し黙るのに耐えかねて問いかける。すると後ろに控えている聖職者風の男たちが、リュドに代わるように前へ出る。彼らの中心には、白金髪のミュリエル司教が立っていた。端正な顔立ちと柔和な微笑み――しかし、その瞳には底冷えするものがある。
「人類連盟の代表として“外交”に来たのですよ。魔王陛下との和平協定を再確認するためにね」
優しげな口調だが、どこか空虚だ。俺は得体の知れない圧を覚え、思わず一歩後ずさる。ミュリエルは俺の姿をまっすぐ見つめて、ゆっくりと微笑む。
「やはりあなたがナユタですね。人間の側でも有名になっていましたよ――魔王を討ち果たした勇者が、逆に魔王に“囚われた”と。まさか本当にここで暮らしているとは……興味深い」
「別に好きで囚われてるわけじゃない。いろいろあってこうなってるだけだ」
憤りをこめて言い返すが、ミュリエルはますます微笑を深くする。その様子が気味悪くて仕方ない。ルシファが一歩こちらに寄り、俺の肩を抱くようにして人間側を睨む。
「我々は交渉のために来ただけだろう。余計な詮索は無用だ。ナユタはここで保護しているにすぎない」
「保護、ね……」
リュドが苦々しげに呟く。周囲にいる人間側の騎士も露骨に嫌悪感を示している。空気がピリピリと張りつめるなか、広場に集まっていた魔族の市民も息を呑んで見守っているようだ。
そのとき、リュドが俺を指さし、苛立ちに満ちた声を上げる。
「お前は、勇者仲間だったじゃないか。俺やみんなと一緒に魔王を倒しに行っただろう? どうしてそんな魔王の隣にいる? それとも、やっぱり魔王に操られているのか?」
「操られてるわけじゃない……けど、いろいろあって……その……」
うまく説明できないもどかしさに苛立つ。短い言葉ですむ問題じゃないし、そもそも俺自身がまともに整理しきれていない。今さら「封印と契約で命が繋がってる」なんて言っても、誤解されるに決まっている。
「裏切り者……」
そう呟かれた瞬間、心臓が締めつけられる。悔しさと惨めさで唇が震える。
そんな状態の俺に、ルシファがすっと腕を回し、いっそう強く抱き寄せてくる。まるで見せつけるような態度だ。
「彼は裏切ってなどいない。実際、私を討ったのだ。……結果的に再び目覚めた私が、彼を“取り戻した”にすぎない。誤解があるなら解こう。彼は今、正式に“契約者”として魔王城にいる。それが事実だ」
堂々と宣言されて、俺の顔がカッと熱くなる。リュドは怒りに肩を震わせ、吐き捨てるように声を上げる。
「ふざけるな……ナユタ、お前は本当に魔王の番になったのか? お前は人間側の希望だったんだぞ。そんな穢れた立場になるなんて……!」
「穢れた、って……なんだよ、それ」
あまりに直球な罵倒に目が見開く。けれど、リュドの表情はどこか歪んでいて、ただの怒りだけではないように見える。悲しんでいるというか、何かを失ったような痛みを帯びている。
「お前は……まさか、それを受け入れているのか? 魔王に抱かれるなんて……」
「……勝手なこと言うなよ。俺は……」
体が強張る。確かに抱かれたことが事実か否かって言われたら、事実に近い部分があるけれど、だからといって望んでそうなったわけじゃない。なのにうまく説明できない。頭がぐちゃぐちゃだ。
「さあ、交渉の場へ移ろうか。こんなところで人目を集めるのは本意ではない」
ミュリエルが取りなすように言うと、リュドたち人間側は渋々頷く。ルシファも面倒そうに息をつき、俺の肩を抱いたまま先へ進もうとする。が、俺はその手を振り払いたくて身をよじる。――正直、どこまで抱き寄せられるのか恥ずかしすぎる。
「離せよ! 変に誤解されんだろうが!」
「もう誤解の段階ではない。お前は紛れもなく私の番だ。それを誰に見せつけても構わない」
囁く声が妙に低く響き、胸がドキリとする。人目が集まる前でこんな主張をされると、表面上は嫌悪感が湧くはずなのに、なぜか体がぞわつく。この感覚がいまだに理解できない。
結局、ルシファの支配力に抗いきれず、俺はやや強引に連れられる形で一行に続いていく。広場の中心には巨大な噴水があり、その先に黒い大理石の建物がそびえている。あれが魔族と人間側との交渉を行う“仮議場”らしい。
◇
その後、議場の一室で俺はルシファとともに話し合いを見守る立場になる。セリナも同行しているが、彼女は終始黙って手帳のようなものに記録をとっている。人間側はミュリエル司教がまとめ役となり、リュドや聖堂騎士が周囲を固めている。どう見ても、両陣営の間には冷たい火花が散っていた。
もともと和平は形式的に結ばれているものの、小競り合いや領土の境界問題、資源の分配など課題が山積みらしい。しかも、魔王ルシファが人間側の国境近くに“結界”を張ったままで、移動を制限しているという指摘があり、逆に魔王側は「それは人間の侵略を防ぐ手段だ」と反論する。話が噛み合わない場面が多く、リュドなどは明らかに苛立っている。
「結局、貴様らは人間を信用していない。それを和平などと呼べるのか?」
「我々を侵略者扱いしているのはお前たちだろう。どちらが先に剣を抜いたか、よく思い出すんだな」
硬直したやり取りをじっと聞いていると、正直げんなりする。両者ともに理由があって対立している以上、ちょっと言葉を交わしたくらいで解決するわけがない。どんなに綺麗事を並べても、結局お互いを完全には信用していないのだ。
その一方で、俺は自分の立ち位置にまた思い悩む。ここに座る自分は何なんだろう。勇者としての使命を捨てた覚えはない。とはいえ魔族の封印に縛られて逃げ出せない。
それこそリュドが言ったように、裏切り者と罵られても仕方のない状態かもしれない。
ふと、視線を上げると、ミュリエル司教がやけに俺のほうを見ている。あの柔和な笑みがひどく不気味だ。背筋に寒気を感じていると、議論の切れ間に彼がわざわざこちらに話を振ってきた。
「ナユタさん。あなたは今、魔王城でどういうふうに暮らしているのですか? 何か……不自由はありませんか?」
その質問に、ルシファが反応するより先に、リュドが皮肉っぽく口を挟む。
「不自由なんてあるわけないだろう。魔王の番にされて、いいように飼われてるだけだ」
「リュド……」
思わず睨んでしまう。けれどリュドの目には俺への失望と苛立ちが滲んでいる。そんな彼からすれば、今の俺は情けない姿なんだろう。本人もきっとわかっているはずだ。
「ナユタさん、あなた自身はどう思っているのです? 本当に魔王のもとが居心地よいのですか?」
ミュリエルが穏やかな声で重ねる。あまりに落ち着いた口調が逆に怖い。俺は言葉を探すが、すぐに答えが見つからない。すると、ルシファが静かに腕を組む。
「彼を詰問する場ではない。契約によって、彼は自分の意思でここにいる。それだけで充分だろう」
「契約ね……。では、その契約内容を明らかにしていただきたいものですね」
ミュリエルが一見穏やかな笑顔を保ったまま迫る。人間側の騎士たちも嫌な緊張感を漂わせながら待ち構えている。ルシファはちょっとだけ眉をひそめると、俺のほうに視線をやる。
「いいか? 言いたければ言えばいい。言いたくなければ話さなくて構わない」
なんて無責任な……。困惑しながら、小声で尋ねる。
「契約って、実際どこまで暴露していいもんなんだ?」
「暴露しても構わない。それは“番”としての縁を示すもの。だが、お前が恥ずかしいというなら無理に言わなくてもいい」
番としての縁……その単語だけで体が熱くなる。周りに人間の騎士や司教がいる中で、そんな話を堂々とするわけにはいかない。普通ならそう考えるが、このまま“魔王に抱かれた”とか“裏切った”とか言われ放題なのは納得いかない。
意を決して、まっすぐリュドとミュリエルのほうを向く。
「正直に言う。……俺は、魔王の魔力を体に取り込んでしまった。あの戦いのあと、危うく死にかけたところを助けられて、封印を施された。そして、その“封印”が実は番契約ってやつだったらしい」
震える声でなんとか説明する。余計な誤解を招く言葉は極力排除しているつもりだけど、顔が赤くなるのを止められない。議場の一角が微妙などよめきに包まれる。リュドなどは露骨に嫌悪感を示し、半歩引いて舌打ちしている。
「要するに、お前は魔王の力を体内に宿して、戻れなくなったってわけか。汚らわしい……」
「リュド、言いすぎだろ!」
思わず声を荒らげる。これ以上「汚れた」呼ばわりは聞きたくない。リュドはそれでも納得しない様子で、眉を寄せている。
すると、ミュリエルが悲しげな調子で口を開く。
「気の毒ですね。神の祝福を受けた勇者だったはずが、魔王の魔力を取り込まされるとは……。ある意味、あなたは犠牲者なのかもしれない。しかし、それを受け入れているのなら、もう人間としての……」
「うるさい……何が言いたい」
内心がざわざわと荒れる。俺は犠牲者なんかじゃない――そう言いたいのに、うまく言葉にならない。ミュリエルの微笑がさらに深くなり、その隣でリュドが苦しそうに唇を噛む。
「私たちはあなたを救いたいのですよ。神の元へ正しい形で帰らせてあげたい、と」
「はあ? それってどういう……」
不穏な響きに目を見張ると、ルシファが静かに口を挟む。
「話が逸れたな。今は和平協定の確認が目的だ。ナユタの問題は私が責任を負う。お前たち人間の干渉を受けるいわれはない」
ルシファの言葉に、人間側は不満げな態度をあらわにする。
しかし議題はあくまで国家間の交渉であって、ナユタ個人の帰属問題は優先事項ではない。ミュリエルもひとまず引き下がる形をとるが、その瞳には薄暗い光が宿っていて、背筋に嫌な感覚が走る。
◇
交渉が終わったあと、俺はルシファとともに議場を出て、街の一角にある広場に立つ。周囲の魔族は先ほどよりもさらに好奇の目を俺に向けている。手を振る者さえいる。
「……ここまであからさまに注目されるとは」
ぼそりと呟くと、ルシファはくすっと笑う。
「魔王の番が人間であるというのは、魔族社会でも大変な話題だ。好奇の対象になるのは当然だろう」
「そういう意味で俺に付きまとってるわけか。迷惑だな」
皮肉を言うが、ルシファは意に介さない。むしろ満足そうに見えるのが何とも腹立たしい。
だけど、実際に街を歩いてみると、意外なほど人々――いや、魔族たちは敵意というより興味をもって俺を眺めている感じだ。中には勇者というより“魔王のパートナー”としてワクワクした顔で見つめてくる者もいる。何だこの奇妙な居心地の悪さは。
「……なんか、すげえ複雑」
率直な感想が口をつく。俺は勇者だったはずなのに、いつの間にか魔族の“番”扱い。しかも人間の仲間からは裏切り者呼ばわりされ……頭がこんがらがる。
ルシファが隣で俺の腕を軽く引く。
「無理をして長く歩くと、また体が悲鳴を上げる。少し休むぞ」
「あ、ああ……」
確かに疲れが出てきたのか、封印の紋章がじわりと熱を帯びている。俺はしぶしぶルシファに付き合う形で一角の休憩所のような場所へ腰を下ろす。黒い石のベンチだが、魔力が通っているのかほんのり暖かい。
「……お前、こんなふうに気遣えるなら、最初から人間と仲良くやってればいいんじゃねえの」
嫌味半分に問いかけると、ルシファは少し目を伏せる。
「魔族と人間、もとはもっと距離が近かった時代もあった。だが人間は脆くて、そして繁栄するに従って排他性を強めた。人間から見れば我々魔族は異形だ……だから衝突は避けられない部分がある」
「異形ね」
こちらが異世界から来た身としては、魔族も人間も大差なく思えるのだが、やはり長い歴史のなかで感情の溝ができたのだろう。平和協定が形骸化しているのも、その根深い差別心や恐怖心が原因かもしれない。
「それに、人間たちは“正義”という旗を掲げて都合よく魔族を害悪に仕立てあげる。お前も、かつてはその流れに乗せられたはずだ」
「俺が乗せられたかどうかは……覚えてない部分も多いし」
もやもやとした思いがこみ上げる。確かに、魔王討伐の使命を受けたときは、何の疑いもなく「魔王は絶対的な悪」と信じ込んでいた。まさか、こうして城のなかで一緒に飯を食い、都で肩を並べて座る日が来るなんて思わなかった。
「……それでも、俺はお前の気持ちがよくわからない。どうして俺みたいな人間に執着する? 番ってだけなら、ほかにもいるだろう」
素朴な疑問がこぼれる。すると、ルシファは横顔でほんの少し笑う。
「ほかにいない。お前は特別なんだ。理由はお前自身が一番知っている……はずなんだがな。まあ、まだ思い出せないか」
「覚えてないっつーの。何を思い出すんだよ」
苛立ちがこもる。ルシファは答えず、俺の手をそっととり、その甲に浮かぶ封印の紋章を指先でなぞる。ぎくりと心臓が跳ねる。
「リライター――お前のスキルは、世界を上書きし得るほどの未知の力だ。魔族だけでなく、この世界の理を揺るがす可能性を秘めている」
「リライター? 俺が持ってるスキル……そういえば、未解析スキルだとか、あれがそうなのか?」
「そうだ。戦闘中、お前はその力の片鱗を見せた。だからこそ、俺はお前を“取りこぼす”わけにはいかない」
魔王の視線がこちらを射抜いてくる。張りつめた空気が一瞬走り、俺の肺がぎゅっと縮まるような感触に陥る。そこまで重大な力を俺が持っている……? 自分でも信じ難い話だが、魔族の封印に繋がれてなお生きているのも、そのスキルの異常性ゆえなのかもしれない。
「でも、俺はこの力を制御した覚えなんかないし、自覚もない。少なくとも、自分の意志で世界をどうこうしようなんて思わない」
「お前がそう思えるなら、それでいい。……ただ、誰かがその力を利用しようとしたら? 人間側の狂信者や権力者が、お前を“神の器”に祭り上げるような真似をしたら?」
その可能性は――考えたくなくても、想像の範疇ではある。人間側にだって、いろんなタイプがいる。リュドはまだ理解できるが、ミュリエル司教の得体の知れなさは本能的に怖い。もし俺を「穢れた花嫁」だのなんだの言って排斥する気なら、どんな手段を使ってくるかわからない。
「……だからって、お前のものになるのも……なんか違うだろ」
「お前はもう、俺のものだ。何度も言わせるな」
軽く言い返されて胸がざわつく。正面からそう断言されると、ここが公共の場だということを忘れそうになる。
周囲の目を気にして手を振り払おうとしていると、突然向こうのほうで人間側の騎士が何やら慌てた様子で立ち話をしているのが見えた。視線を走らせると、リュドの姿もある。彼らがこちらを睨んでいるのがわかる。嫌な予感がするが、今はかかわりたくない。
「……戻るか。これ以上は変に人目を集めたくないし」
「いや、せっかく来たのだ。お前にこの街を少し見せたい。昔はお前も……いや、やめておこうか」
「昔? 何だよ、それ」
「気にするな。思い出したいなら、いつか思い出すだろう」
相変わらず曖昧な言い回しを残し、ルシファは俺を立たせる。体調を案じているのか、さりげなく腰に手を当てて支えてくる。その接触感にまた頬が熱くなる。わざとらしく手をはね除けたくなるけれど、今は頭痛の気配もあるし、素直に少しだけ頼らせてもらう。情けないが、仕方ない。
◇
結局、都の見学をしたところで、新たな情報が得られたわけでもない。魔族が人間よりも異質な文化を持ちながら、日々を懸命に生きていることくらいしかわからない。それは別に悪くない発見だったが、俺の胸には解決しないもやもやが残る一方だ。リュドたちには拒絶され、ミュリエル司教は何を考えているか見当もつかない。
気づけば、城のほうに戻る馬車に揺られながら、妙な疲労感に襲われている。
「魔王の番……か。契約者って、そういう意味だったわけね……」
馬車の中でぼそりと呟くと、隣に座るルシファが興味深そうに顔を向ける。
「理解したか? 番は一緒に生きていく存在だ。肉体的にも魔力的にも結びつく。……嫌がっていても、いずれそれが当然となる」
「断言するなよ。……それが俺とお前の間に生じた“契約”ってやつなんだな」
「そうだ。お前はそれを受け入れたからこそ、生き延びた。それを嫌というのなら、今すぐにでも封印を解いて……いや、やめておこう。お前が死ぬ可能性がある」
「冗談でもそんなこと言うな。もしそれが事実なら、俺は抜け出せないってことじゃねえか」
苛立ちながらも、声が震えそうになる。ルシファはそれを見越したように、こちらの手をすくい上げる。周囲に人目はないとはいえ、車内で手を握られると相当ドキドキする。
さらにもう一方の手で俺の顎を軽く持ち上げられ、嫌でも視線が交わる。蒼い瞳が責めるように射すくめてくる。
「何度も言うが、後戻りはできない。お前が本気で嫌がるなら無理には求めないが、俺はお前に触れたい。お前を“自分のもの”として守りたい。それが俺の望みだ」
「……お前ってやつは……」
声が裏返りそうになるのをこらえ、思わず目をそらす。胸を鷲掴みにされるような感覚が走る。
嫌だ、と言って振り払えるならどんなに楽か。けれど、ただの嫌悪ならもっと簡単に拒絶できるのに、なぜか心のどこかがルシファの言葉に揺さぶられている。
本当にこれでいいわけない。俺は勇者だったのに――とはいえ、“番”という強固な契約に囚われている以上、この状況はそう簡単に壊せない。人間側も俺を歓迎してくれない、下手をすれば排除されるかもしれない。
じゃあ俺はどうする? このまま魔王の隣で生きるのか? そんな選択ができるのか?
「わからねえよ、まだ……。気持ちが追いつかない」
やっとの思いでそう言うと、ルシファは少し眉を下げる。
「お前の意志でいい。焦らなくていい。……ただ、お前を手放す気はない。そこだけは明言しておく」
その台詞に返事をしようにも、胸の奥が苦しくなるばかりで言葉が出ない。
うなだれるしかない俺の肩を、ルシファはそっと抱く。馬車の揺れがかすかな子守唄みたいに響き、だんだんと意識が朦朧としてくる。疲労が限界に近いのか、瞼が重い。
――こうして、俺は“勇者仲間”から裏切り者扱いされ、人間側からは穢れた存在とみなされ、あろうことか魔王の番として過ごす羽目になった。
契約者とは、自分が思っていたよりはるかに濃密で危険な立場だ。魔王の封印が解けたら、すぐにでも自由になれると思っていたが、そんなに単純な話ではないらしい。
ルシファが俺の額に手をやり、小さく囁く声が聞こえる。
「眠れ。今日は色々と神経を使っただろう。……大丈夫だ。もうお前をどこへもやらない」
そんな言葉を寝ぼけた耳で聞き流しながら、俺は目を閉じる。馬車の窓から見える黒紫の空が揺れ、路面のリズムが微かな振動となって体をくすぐる。嫌だと思う反面、ぬくもりが心地よいのも否定できない。
――人間側に戻る道がほぼ閉ざされ、魔王のそばにいるしかない現実。素直に受け止めるのが怖い。
ルシファの腕が少し力を込めて俺を支える。車内の微温い闇の中、心細さと微かな安堵を同時に感じながら、まぶたが重く落ちていく。深い眠りの淵で、思わず心の中で問いかける。
――こんな俺が、本当に誰かを救える力を持っているのか? それとも、ただ魔王の「もの」として生きるだけなのか?
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