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歯科治療

作者: ミズノ

 扉の奥からは歯医者さんの音がする。細い針で黒板をひっかくような、鋭い音だ。この音を聞くたびに、背中にぞくりとした感覚が走り、その場に座り込みたくなってしまう。

「遅刻してすみません、まだ間に合いますか」

 大丈夫ですよ、と受付の歯科衛生士さんは診察券と保険証を受け取ると、受付の奥に先生を呼びに行った。

「遅れてくるの、珍しいですね」

「ちょっと、部活が長引いて」

 嘘をつくのは苦手だ。相手とじっと目を合わせていると、瞳を通して自分の内側がはっきりと見えてしまっているんじゃないかと怖くなる。歯科衛生士さんは優しそうに笑った。私は軽く頭を下げて座席に座った。

 待合スペースは小さな正方形の部屋になっている。壁際にはソファがあって五、六人が隣り合って座れるくらいの大きさだ。今は私一人しかいない。病院の営業時間ぎりぎりだから、私が最後だろう。

 週刊誌の並ぶ本棚にウオータサーバー、その隣の壁に貼ってあるポスターに目が止まった。演奏会のお知らせのポスターだ。ホール上を取った写真で、指揮者の前に楽器を持った人たちが並んでいる。明かりにきらめく金属の楽器の群れ。社会人の吹奏楽団だ。

 その隣には、歯のメンテナンスの大切さを説明するポスターがある。

「永久歯に生え替わったからといって、良いことばかりではありません」

 定期的なブラッシングや、フロスを使った歯の間の掃除の大切さを説明している。

 歯のメンテナンスをする音に慣れてきたところで名前が呼ばれた。歯科衛生士さんに案内されて治療室に入る。歯の掃除と点検が始まった。仰向けになったまま、目をつぶって口を開ける。耳障りな音が口の中を伝って頭の奥に響く。こういうときには、全然違うことを考える。そうすると、さっきのことばかりが頭に浮かんできてしまう。

「んん」

 と叫び出しそうになると、歯科衛生士さんは手を止めた。

「ごめんね、痛かったら手あげてね」

「全然痛くないです。大丈夫です」

 ん、と歯科衛生士さんが手を止める。何かを見つけたみたいだ。検査が終わり、最終チェックにやってきた先生は私の口の中を覗き込み、当たり前のことみたいに言った。

「あー、これは虫歯ですね」

 椅子の背が持ち上がる。私は壁のモニターに移った、自分の歯のレントゲン写真を見た。

「右下の奥、ここは虫歯になってます。来週から治療していきます」

 歯医者に遅刻したのは初めてだ。虫歯になったのも、実は初めてだ。今日は初めてのことばっかりだ。

 どうして人はわざわざ告白なんてするんだろう。そんなことをしたって、何かが変わるわけでもないのに。



 笠野はいつも楽器を持っている。朝、登校中に一緒になった時も、昼休みに廊下ですれ違う時も、帰りに校門で待ち合わせたときも、それはまるで体の一部みたいにそこにある。当たり前のような顔をして何かに打ち込むその姿からはストイックさや厳しさみたいなものは感じられない。違う部活でほとんど関わりがなかったのに、しかも二年生になってから、一緒に帰るくらいに仲良くなれたのが不思議だ。女子の少ないクラスだから、自然と仲良くしようみたいな風になったのがよかったのだと思う。それに、少しだけ他の女子から疎外感を覚えていたところがが共通していたかもしれない。

「練習付き合って」

 どきりとした。大きな声ではなくてもはっきりと聞こえる、気持ちのいい可愛い声だといつも思う。笠野はずっと無邪気な笑みを浮かべている。

 私が一瞬だけ言葉に詰まったことに気がついただろうか。そんな風には全然見えないけれど、そういう子ほど相手のことをよく見ているような気がする。

 校舎の外はまだ明るい。部活の練習が始まる前の慌ただしいグラウンド横切って、自転車に跨がった。

 普段の通学路を横道にそれた。しばらく走ると堤防が見えてくる。笠野はいつもこの場所で楽器を練習していた。

「部活がないのに練習なんて偉いね」

「部活じゃない練習が一番楽しいんだよ」

 笠野はこういう言い方を良くする。授業ではない勉強が一番楽しい、らしい。

「また写真撮ってよ」

「笠野が気づいてないときじゃないと」

 私がこっそり撮影した写真を、笠野はSNSのアイコンに使っている。鴛鴦する笠野を横から撮った写真で、夕日をバックに笠野と楽器の黒いシルエットが重なっている。

「宮子写真のセンスあるよ」

 私は返事をしなかった。笠野は気にした風もなく、足下のケースから楽器を取り出した。おとなしいのこの友人の演奏するトランペットは、それがまるで人の体の一部みたいだ。言葉よりもずっと自然に、気持ちの良い音色が飛び出す。川面を泳いでいた鴨の群れが一斉に飛び上がった。らせんを描きながら上昇したかと思うと、先頭の一羽が急降下して再び川面を滑るよう飛び去った。初夏の暖かい風が吹き、川縁の草木をざわざわと揺らした。まるで世界が笠野に応じているようだ。

 吹奏楽部の練習は毎日ではない。それがいいと笠野が言っていたのを思い出した。

 鴨の群れが戻ってきて、再び列を組んでゆっくりと川面を泳ぎ始めた。

 演奏を終えた笠野は、トランペットを片方の手からだらんとぶら下げていた。川面に向けられた目は深刻な色をたたえていて、あんなに楽しそうな演奏を終えた後とは思えない。

 ちらと目のの端で私を捉える。こちらに向けられたのはいつもの表情だった。

「上手」

「ありがとう。部活は辞めちゃうかもしれないんだけど」

 さりげない風に口に出した台詞は、語尾がかすんでいた。多分笠野はこれが言いたかったのだ、教室を出て、校門をくぐって、ここまで歩いてくる愛胃だ、口に出すべきかどうかをずっと考えていたのかもしれない。

「笠野がそうしたいなら私は良いと思うけど、大丈夫なの、部活の友達とか」

「友達とかじゃないよ、仲間だから」

 笠野はちょっとだけ視線を横に向けた。

「ごめん、誰かに話したかっただけ。部員以外の誰かに」

「めちゃくちゃびっくりしたよ」

 何もしていないのに、走った後みたいに心臓が早鐘を打っている。

「愚痴なんだけどいい?」

「言うことによるかな」

 つらそうな表情をしようとしているくせに、私は少しだけ浮き足立っていた。喜んでいたとさえ言っていかもしれない。

「辞める確率と、辞めない確率と、今はどっちのほうが高い?」

「同じくらいかな」

 その場で何かを決められないのは、二つの選択のうちのどちらもつらそうに見えるからだ。言い方を変えるなら、どちらも同じくらい良い選択に見えるといことだ。

 私はどちらだろうか。

「決め手は?」

「顧問が病気とかでいなくなってくれたら、続けようかな」

 新しい吹奏楽部の顧問の先生の指導は、厳しい。下手な人を吊し上げてできるだけたくさんの部員の前で叱る。そうすると部員が緊張感を持って練習するようになるらしい。綿真意は、練習というよりも動物の調教に見えた。

 笠野は我慢できな猪田と思う。音楽を楽しみたいのに、部を強くしたいという顧問がその機械を破壊した。辞めていくのは厳しい指導について行けないからだと、辞めた部員をひたすら貶める。自分がそういうことをする部にいることが耐えられない。

「どっちを選んでも、私は笠野が正しいと思うよ」

「言うなあ」

「友達だから」

 笠野は楽器を足下に置いて大きくのびをした。

「ちょっとましになったかも」

 川面に浮かんでいた鳥の群れはいつの間にかいなくなっていた。



 部活のことを考えるとお腹が痛くなる。そういうことがあった。だけど辞めることはしなかった。私にはそれしかないからだ。目標も、人間関係も、多くのことを私は部活動に依存している。まるで会社員みたいだと、中学生のころに思ったことがある。

 人のことにはいくらでも口を出せるのに、自分のことになったら全然駄目だ。スマホを持つ手が震えた。文章で伝えようかと思ったけれど、それだとずっと自分の送ったメッセージがずっと相手のスマホに残ったままになってしまう。大切なことは電話のほうがいい。そうすれば、その人の記憶にしか残らないからだ。

「もしもし」

 通話が繋がった。周りの話し声入って、声がくぐもって聞こえる。

「加藤くんどこにいるの?」

「部室。移動するから待って」

 私の傍らを車が通り抜けた。排気ガスの混じった風が車の後ろで渦を巻っく。

「そっちこそどこにいるんだ」

「家の外」

 西の空に浮かんだ夕日は半分くらいが建物の陰に隠れて、夜のとばりがゆっくりと空を覆いつつある。建物の間から細く差し込んで、目の一点を貫くような鋭い光につい目をつむった。夕日に、いつもの通学路とは逆方向にまっすぐ歩いた。

 小さい頃から何度も歩いた道だ。それなのに、自分の住んでいる世界とそっくりな異世界に迷い込んでしまったような、心細い不安な気持ちだった。

「あの、この前のことだけど」

 電話の向こうの沈黙がよりいっそう重く感じられた。

「ああ」

 喉の奥から絞り出したような声は震えていた。

「ありがとう。でもごめん」

 小さい頃に遊んだ公園の目の前にいた。昔あった、ぐるぐる回るコースターみたいな遊具は撤去されてしまってる。子供が指を挟んで、取り返しのない怪我をしてしまったからだと聞いた。

 恋はもっと蠱惑的なものだと思っていた。だけど実際に目にしたものは人の形をした生々しい現実で、なぜ人はこんなものを素晴らしいものと言い続けてきたのが不思議になるようなものだった。それも、これで終わりにできる。どうやって断るべきかを考えて歯医者に遅刻したりなんてしなくても済むのだ。

 早く通話を切ってく、と思った。何か言って、とも。だけど電話の向こうからは何も聞こえない。黙って答えを待てばいいだけだ。

 過ぎていく時間の一秒が一秒が、私に急かすように積み上がっていく。沈黙に耐えきれなくなったのは私のほうだった。

「部活もあるし、勉強だってしないといけない。誰か付き合うとかは、考えられないかな。今は」

「今っていつだ」

 目の前に銃口を突きつけられるみたいに、私はその場から動けなくなった。いや、と、かすかなため息を帯びた声が聞こえる。

「嫌なら嫌って言ってくれたほうがよかった」

 それは違う、と言いたかった。口を乱暴に塞がれてしまったように、言葉にならない言葉が、喘ぐような変な声で漏れ出てくるばかりだ。

「迷惑かけてごめん、切るわ」

 通話は一方的に切れた。世界に光と音が戻ってきた。木々が揺れ、公園の茂みからは夏の虫の鳴く声がかすかに聞こえてくる。

 ポケットの中でスマートフォンが震えた。画面の上に通知が届いている。今日も歯医者に行かないと。



 加藤君とは一年生の時に同じクラスで、同じ美化委員だった。何度か話をしたこともあるし、美化委員の仕事も分担してこなしていた。加藤くんがクラスの女子と話しているところを、私はあまり見たことがない。声をかける理由を見つけられるのは、私しかいなかったのだと思う。

 美化委員の仕事は半年で他の人に変わって、引き継ぎした後はほとんど話すことがなくなった。加藤君がいつも一緒にいるグループと、私がいつも一緒にいるグループは教室の中の距離も友達の繋がりも離れていて、話すきっかけはほとんどなくなった。

 お昼ご飯を食べているとき、配られたプリントを後ろに回してふと振り向いたとき、加藤君と目が合うことは何度かあったのを思い出した。何も感じなかったわけではない。その視線にどんな意味があったかを、ずっと考えないようにしていただけだ。

 右奥下の奥歯に、ドリルで削られる鋭い痛みが走った。こらえきれずに声を上げると、口の中の圧迫感が消えた。水色のマスクをつけた歯医者の先生が、仰向けになった私を真上から見下ろした。

「麻酔は効いてるはずなんだけどなあ。もう少しだけ足しますね」

 視界の端から金属製の機械が現れ、私はぎゅっと目を閉じた。

「力抜いてくださいね。ちょっとちくっとしますよ」

 麻酔を打たれた右下のあたりは、空気を入れて膨らませたみたいな感じがする。治療が再び始まった。痛みは、さっきよりは凄くましになった。

 恋は麻酔だ。その後の痛みに耐えるための。私はただ、少しだけ麻酔が効きにくかったのだ。

 ドリルの振動が歯を伝わって頭の中に響く。一度削ってしまったら、もう元には戻らない。

 痛みは次の日まで続いた。

「痛そうだね、食べてあげようか」

 お弁当は笠野にあげた。その日の笠野はいつも通りに見えた。お昼に痛み止めを飲んで、その後は放課後までずっと平気だった。

 私は授業が終わった後にすぐに職員室に行った。数学の先生に質問をしにいくためだ。先生はすぐに見つかったけれど、すぐに質問には答えてもらえなかった。何か、書類で不備があったらしい。

「悪いんだけど、笠野を呼んでくれるか」

「質問しに来たんですけど」

「校内放送で呼んでもいいんだが」

 それはちょっとかわいそうだと思って、笠野に電話をかけたけれど出なかった。時計を見る。まだ部活の時間には少しだけ早い。

「呼びに行ってきます」

「これ持ってけよ」

 机の上に置きっぱなしだった参考書だ。

「すぐ戻ってきます。失礼します」

 鞄を肩にかけ直す。音楽室の方から、かすかに楽器の音色が聞こえてくる。すでに練習を始めている生徒もいるみたいだ。

 放課後の学校は自由だ。どこに行っても誰といてもいい。思わず足取りが軽くなる。職員室から歯見えない。廊下を歩いている生徒もほとんどいない。二階の高さにある渡り廊下を通って隣の校舎へ。階段の上から降ってくる音を辿って音楽室へ。入り口の扉は開いたままだった。

「失礼します」

 ちょうど、黒板の前でチョークを握っていた子と目が合った。楽器の音にかき消されそうで、私は少しだけ声を張り上げた。

「笠野さん、いますか?」

 押してはいけないスイッチを押したみたいに、教室の中に響いていた楽器の音が、一斉に止んだ。

 その子は目を大きく見開いた。少しだけ口を開こうとして、何かをためらったのかにもう一度閉じた。

「笠野さんは、いないかな」

 呼吸ができずにもがくような苦しげな声だった。

「辞めたよ」

 投げやりな声が視界の外から私の耳に突き刺さった。いらだちを隠そうとしない、つり上がった一対の目が私をにらみつけている。自分が絶対に正しいと全然疑わない目だ。一見して苦手なタイプだと思った。すぐに立ち去ろうと思ったけれど、振り返った私の後ろから耳障りな声が聞こえてくる。

「部活辞めちゃう人は社会でやっていけない」

 私はその場で振り返った。名札のフレームのスリッパを見て、声の相手は三年生だとわかった。

「何?」 

「社会に出たこともない人がなんでそんなことがわかるんですか?」

 ぽかんと口を開けた。この人もくちをパクパクしている。この部屋はまるで金魚の群れみたいだ。

「失礼しました」

 重い木製の引き戸を思い切り閉めたら、扉の向こうでわめく声が聞こえなくなった。

 何かを始めるには勇気がいるけれど、ずっと自分を捧げてきた何かを捨てるのにはそれ以上の勇気と、強烈な痛みに耐えるだけの覚悟がいる。続けることも止めることも等しくくるしいはずだ。

 逃げたと思われたくなかったから、音楽室から見えなくなるまでゆっくり歩いた。ずっと自分の心臓の音が聞こえていて、体から汗が噴き出している。

 下駄箱に笠野の靴はなかった。電話に折り返しはなく、送ったメッセージに既読もついていない。

 自転車に飛び乗って、通学路を外れた道を走る。住宅街を抜けて川に向かって走る。土手の上からは、川縁にぽつんと一人で立つ笠野の姿が見えた。自転車を止めて階段を駆け下りた。笠野が振り向く。や、と気軽に片手をあげてくる。

「めっちゃ息切れしてるけど」

「辞めたの?」

「辞めてないけど?」

 足下の楽器ケースを開く。ぴかぴかに磨き込まれた金属の輝きには一点の曇りもなかった

「吹く場所が変わっただけだよ」

 ぶおー、とのんきな音が川面に響いた。

「一言くらい言ってよ。そういう重大なことは」

「重大なことじゃないからいいかなって」

 笠野は足下のケースを開けた。いつもと変わらない力強い音色が川面を駆けていく。

 まっすぐ前を見つめる笠野の目は少しだけ潤んでいる。何かを捨てることには痛みが伴う。どれだけ強い麻酔を打っても、深い傷は確かにそこにある。元に戻すことはもうできない。

「ずっと見られてるとやりにくいんだけど」

 


 治療は今日が最終日だった。

 歯医者の駐輪場には一台だけ自転車が止まっている。

 後輪側のフレームをみてぎょっとした。同じ学校のシールで、しかも同じ学年だ。

 不穏な予感はそのまま当たった。待合室には、見慣れた制服を来た男子がぽつんと一人で座っている。背中を丸めて、顔を近づけるみたいに手元の教科書に集中していたけれど、私が入ってきたのに気がついて目を瞠った。

 そのまま教科書に向き直るわけにも行かなかったんだろう。私も見なかったことにするわけにはいかなかった。

「運命みたいなタイミングだなあ」

 加藤くんは苦しそうに息を吐きだ知った。運命、という言葉の場違いな大げささ思わず笑ってしまった。

 一人分の距離を空けて隣に座った。ソファは一つしかないからそれしかできない。受付の看護師さんはカウンターの奥に行ったきり戻ってこないし、患者さんはこれ以上増えそうになかった。

 私はメッセージアプリを立ち上げたり閉じたり、意味もなく画面をフリックしたりを繰り返していた。どうして、私のほうがこんなにも気を遣わないといけないんだろう。加藤くんは教科書に目を落としたままだ。

「私ならいけると思ってたの?」

 ぶんと音が聞こえるような勢いで顔をあげた。唇は震え、自分が見ているものを信じあれないでいるみたいに目をぱちぱちしている。

「断ったほうがその話を蒸し返すってどうかしてるだろ」

 その通りだ。私はどうかしているみたいだ。

「笑い事じゃないからな」

 診察室の扉が開いて、看護師さんが顔を出した。思わず背筋を伸ばしてしまったのは失敗だった。

 いっそ怒ってくれたらいい。その場で立ち上がって、私の頬を思い切り殴ってくれたら良い。そうすれば平等だ。けれどきっと加藤くんにそんなことはできないだろう。

 扉の向こうから鼓膜を突き刺すような鋭い音が聞こえてくる。歯の掃除をしているところか、削っているところか。何回聞いてもこの音は苦手なままだ。

 最後の治療はすぐに終わった。

「違和感はないですか?」

 診察台に仰向けになったまま、大きな鏡を覗き込む。もう区別はつかない。

 外はもう暗くなっていた。駐輪場から振り返ると、薄闇の向こうに歯科医院の白い影が浮かんでいる。曇りガラスからは橙色の暖かい光が漏れ、アスファルトの地面に四角い模様を作っている。怖がっていた自分が嘘みたいだ。

 奥歯に力を込めてみる。もう元に戻すことのできない人工の歯は、想像していたよりもあっさりと私に馴染んだ。

 歯科医院の自動ドアが開き、出てきた加藤くんと目が合った。どちらからともなく目をそらす。

「お疲れ」

 加藤くんは自転車のスタンドを蹴り上げた。からからと車輪が回る。けれどすぐに赤信号に引っかかった。私はその後を追いかけた。

「あの」

 加藤くんはこちらを振り返った。

「嫌なわけではなかったんだ」

 傍らを一台の車が通り抜けて、私たちの影が明るく照らされた道路を半周して消えた。

「めちゃくちゃ動揺してただけなんだ。だから友達から始めましょうってことで、どうかな」

 赤信号がちかちかと明滅してる。加藤くんは自転車に跨がったままリュックを体の前に回すと、中からクリアファイルを取り出した。同じビラが何枚もとじてあったのがわかる。そのうちの一枚を手に取った。

 見覚えのあるチラシだ。思い出した。歯医者の壁に貼ってあった演奏会のお知らせだ。

「何で加藤くんが宣伝してんの」

「ここの院長が親戚なんだよ」

 私は黙っていた。驚いていたし、まだわからないことがあったからだ。

「中学の時は吹奏楽だったんだ。俺は行くつもりだから、チケットももらってくれよ」

 今度こそ、私はきちんと答えるべきだった。

「行くよ」

 チケットを受け取った。加藤くんの硬い表情が少しだけ緩んでいた。



 舞台の上には幕が掛かっている。ホールの後ろにある扉から人が出入りしているけれど、満席という感じではない。私みたいに、知り合いの知り合いがぱらぱら集まってきているような感じなんだろう。少し遅れた加藤くんもやってきた。

 明かりが落ち、舞台の上に照明がかかる。司会の紹介の後に幕が上がった。

 指揮者の後ろに楽団員が並んでいる。その中には、笠野の姿があった。落ち着いているようにも、緊張しているようにも見える。

 指揮者の合図にあわせて、全員が一斉に楽器を構える。ホールの空気が引き締まり、演奏が始まった。お腹の底に響くような低音が空間を満たs。

 ちらりと隣の様子を見る。加藤くんは真剣な表情を向けていた。舞台の上の笠野もそうだ。 笠野は何かを諦めたわけではなかった。何があってもずっと音楽に関わり続けようとしていたのだ。所属する集団が変わってもそれは変わらない。形が変わっても、関係が変わっても、もう元に戻らなくても、一番芯にあるものを支え続けることはできる。

 今日の終わりに、笠野にはどう声をかけようか。加藤くんは、この演奏をどう思っただろうか。

 巨大な音の本流が、私の周りをいっぺんに包み込んだ。


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