9、アジトへ
次の日。圭子は仕事を終えると、自宅マンションへと戻っていった。ランのことが気になっていたが、毎日押しかけることも出来ない。
近くの駐車場からマンションに歩きながら、圭子が物思いに耽っていると、マンションの前に派手な高級外車が停まっているのに気が付いた。開いた窓からは、ランの顔が見える。
「ラン……」
ランは不敵な笑みを浮かべながら、圭子を見つめている。そんなランに、圭子は駆け寄った。
「どうしたの? この車」
「買った。話がある。ドライブでもしないか」
この状況に、圭子は恐怖すら覚えていたが、すべてを知る覚悟を持った今、圭子は頷いて助手席へと腰を下ろした。車はそのまま、猛スピードで街を走り出した。
「ちょっと、制限速度わかってる?」
「大丈夫だよ。捕まりはしない」
「そういうこと言ってるんじゃないわ」
ランは聞く耳持たず、車を走らせる。そして無言のまま、港町へと入っていった。
「……どこに行くの?」
「ドライブだろ」
ランは答える様子もなく、そう言って笑っている。圭子は半ば諦めて、流れる景色を見つめていた。
それからしばらくして、車は港町にある場末の酒場の裏手に止まった。こんな場所には、圭子も来たことがない。だが、ランが車を降りたので、圭子も続いて降りる。そして、無言のまま歩き出すランについて、表通りの寂れた“メッセンジャー”というスナックへと入っていった。
「ランちゃん!」
店に入るなりランにそう声をかけたのは、大柄なニューハーフだ。この店のオーナーで、ランとは面識があるらしい。店の中に客はいるものの、ランは構わず奥のカウンター席へと座った。
「待ってたわ。本当に久しぶりね。変わらないわ」
「ママもな。バーボン、ロックで」
「はいはい。こちらのお嬢さんは?」
ランの言葉を受けながら、ママと呼ばれたニューハーフが、圭子に尋ねる。
「あ……ウーロン茶で」
「あら。お酒は飲めないの?」
「いえ……しらふでいないと、危険なんで」
正直なまでの圭子の言葉に、ランは隣で苦笑した。やがて出されたグラスに口をつけると、ママがランに鍵を差し出す。
「はい、預かり物」
「サンキュー」
ランは鍵を受け取ると、すぐに内ポケットへとねじ込む。ママはそれを見つめながら、懐かしい顔でランを見つめていた。
「掃除もしてるし、言われた通りに物も揃えてあるわ。それにしても、ランも隅におけないわね。こっちに来て早々、女性連れなんて妬けるわ」
「勘違いするな。こいつは石井直人の妹だ」
ランの言葉に、ママは驚いて目を見開かせる。
「そう。石井さんの……」
「……兄を知っているんですか?」
何もわからない圭子が、ママに尋ねる。
「ええ……こういう商売柄、警察にお世話になることもあるんだけど、あなたのお兄様には随分助けられたのよ」
その言葉だけでは理解出来ず、圭子が首を傾げる。そんな圭子を尻目に、ランは立ち上がった。
「ごちそうさま」
「あら、もう行っちゃうの?」
「目当てのものを見させてもらうよ。また近いうち寄る」
「絶対よ。私も行くから」
ランは金をカウンターに置くと、店を出ていった。圭子もそれに続く。
「ラン、待って。聞きたいことでいっぱいよ」
「ああ」
ランはそう言うものの、立ち止まりもせずにスナックの裏手へと回る。だが車には戻らず、そのまま先へと進んでいった。
スナックの裏手には、店の裏側や壁に囲まれた、ちょっとした広場のようなスペースがあり、そこにランの車が停まっている。その先には、壁にくりぬかれたようなトンネルがあった。そしてトンネルを抜けると、思いがけない光景が、圭子の前に現れる。
壁で圧迫感のあった場所から抜け出したせいもあるが、そこは開放感溢れる倉庫街である。すぐ横にはプレハブ小屋が建ち、目の前には用水路に似た小さな川が流れている。その川にかけられた橋を渡ると、機械的に並んだ倉庫群が見える。
「……ここは?」
「俺の家だ」
ランはそう言うと、車が通れるほどの幅がある橋を渡った。そして一つの倉庫の前に立つと、先ほどスナックのママから受け取った鍵を取り出し、シャッターにつけられた小さなドアを開けた。
真っ暗な倉庫の中を、ランは真っ直ぐに歩いていく。やがてつけられた明かりに、倉庫の中が露わになった。
広い倉庫は吹き抜けになっていて、壁づたいに二階スペースもあるようだ。倉庫の中央には低めの壁があり、その中に一つ部屋があるようで、またその向こうには、入口であるこちら側と同じだけ広々とした場所に、キッチンやダイニングテーブルなどの家具まで置かれている。
ランは反対側のシャッターの鍵も開けると、ダイニングテーブルの前に座った。そこまで来ると、奥にもう一つ、リビング部分があるのも見える。大きな倉庫だけあり、住むにはあまりにも広い。
圭子はランの前に座り、静かに口を開いた。
「……何を考えているの?」
「別に」
ランは口数少なく、煙草に火をつける。
「それで、話って何なの?」
「……明日、おまえは仕事が休みだよな?」
「どうして知ってるの? ううん、あなたなら何でも知ってるわよね……そう、休みよ。このところ、全然休みが取れていなかったから……それが何か?」
「片を付ける。おまえも来るか?」
圭子は目を見開いた。
「……私も?」
「嫌ならいい。兄貴の仇を取りたいのかと思ってな」
ランがそう言った瞬間、ランの携帯電話が鳴った。ランはすぐに電話に出る。
「Hello」
『ハロー、ラン。トムだよ』
中国にいるはずの、トムのそんな声が聞こえる。
「ああ、様子は?」
『今、連中が船に乗り込んだよ。仕掛けは良好。リストの人間は全員乗り込んだ。しかし、想定内だけど問題が起きた』
「どうした」
ランはそう言いながら立ち上がると、キッチンへと歩いていき、台の上に乗った食器類から陶器の皿を出すと、そこに煙草を揉み消す。
『ジュニアが乗り込んだ。マフィアのボスの子、龍王だ』
ランはシンクへと寄りかかると、軽く頭を掻いた。
リストに乗っている人物が船に乗り込まないこと、またそれ以外が乗り込むことは、予想の範囲内だった。マフィアに関わっている連中など、巻き添えになっても仕方がない部分もあるが、子供を殺すのは趣味ではない。
「……年齢は?」
『確か、八歳だったかな……大物の子供だけあって、生意気なガキだよ』
「わかった。一時中断だ。出港を見届けたら、こっちに戻ってきてくれ。作戦を練り直す」
『練り直すって……まさか助けるつもりかい? あんな子供の一人くらい、死んだって……』
「いいから戻れ」
『わかった……すぐに戻るよ』
ランはそこで電話を切った。その間も、圭子はずっとランを見つめている。
「何かトラブル?」
「察しいいな」
ランは軽く笑うと、圭子の前に座った。
「何があったの?」
「こっちは大した問題じゃない。それより、おまえの答えは?」
「……すべてを知りたいとは言ったけれど、殺し屋と結託して仇打ちだなんて、そんなこと……」
「ムシがいいような気もするが、それならそれでいい」
ランは少しホッとしたような表情を見せると、新しい煙草に火をつけた。
「……ヘビーというか、チェーンスモーカーね。体には気をつけた方がいいと思うけど……」
「ハッ。殺し屋に意見するとは、度胸があるな」
「そうね……あなたを信用するなって、忠告されたばかりなのに」
「ああ。俺の正体を知っても近づいてくる人間なんて、イカれたやつしかいない。おまえもそうなのかもしれないな。一杯つき合えよ」
ランはそう言うと、キッチンの棚からブランデーとグラスを取り出す。
「そうね。この際、とことんつき合うわ」
圭子は少し酔いたくなっていた。この現実離れした世界から、酒の力を借りて開放的になりたいと思う。
ランはグラスに氷を入れると、ブランデーを注ぎ、圭子のグラスに自分のグラスを合わせた。
「乾杯」
二人はグラスに口をつけると、互いを見つめる。
「……この場所には慣れてるみたいね。スイッチの位置、お酒や氷の位置も」
沈黙になった一瞬、圭子がそう切り出した。
「俺の家だって言ってるだろ。殺し屋の拠点が、一つだとでも思ってるのか?」
「じゃあ、日本のアジトは他にもあるっていうの?」
「まあな……」
ランは口数が少ないものの、意外にも聞けば何でも答えてくれる。また、その姿はどう見ても圭子と同世代であり、下手をしたら年下にも見える。まだ実際の仕事を見ていないこともあり、そんな見た目のランは、接しやすい部分もあった。
「でも、しばらくはここに身を落ち着かせるつもりだ。警官であるおまえも知っておいた方がいいと思って、連れてきた」
「……すっかり私はあなたの仲間ね。これも計算の上?」
「……そうだな」
ランのその言葉に、圭子は傷ついていた。自分はランの計算の上でしか動いていないように思える。また、自分が駒の一つということが、妙に悲しかった。そう思うと同時に、圭子は酒を煽るように呑む。
「おかわり」
「なんだ。酒癖が悪かったのか?」
圭子の態度に、ランが涼しげに微笑んで言う。
「しらふではいられないもの。自分の心を保つためにも、お酒の力が必要な時もあるのよ」
「……くだらないな」
ランはそう言いながらも、圭子のグラスにブランデーを注ぐ。そんなランを、圭子は見つめた。
「……酔ったついでに、もう一つ聞いていい? あなたの年齢は?」
圭子の言葉に、ランは突然、態度を変えた。その顔は無表情のままだが、近寄りがたい雰囲気を漂わせる。だがランは、すぐに笑って圭子を見つめた。
「永遠の二十歳……」
ランのその言葉に、圭子は一瞬言葉を失ったかと思うと、吹き出した。
「殺し屋さんも、冗談言うのね」
「百歳越えてると言ったって、信じないだろ?」
ランも笑って尋ねる。
「当たり前でしょ? 確かにコードネーム・ランに関する最初の記録は、百年以上前らしいけど、当時のランとあなたが同一人物とは誰も思わないわ。最初のランはあなたの先祖なのか、裏世界のナンバーワンがランという称号を得られるのかは知らないけれど、そうなるとあなたは何者なの?」
ランは笑っていたかと思うと、急に真剣な顔で圭子を見つめた。
「酒を飲んで饒舌になったようだが……いくら女でも、その質問には答えられない。それを聞いて生きている人間を、俺は知らない」
突然、圭子も恐ろしくなって、ランから目を逸らした。
「……ごめんなさい。自分の立場を忘れてたわ」
圭子は空になったグラスに酒割用の水を注ぎ、口をつける。
「本当、正義のために警官になったのに、殺し屋と笑って酒を飲み交わしてるなんて。何やってるんだろう、私……」
圭子は愚痴のようにそうこぼすと、遠のく意識に身を任せた。