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3、残されたメモ


「先輩!」

 警視庁に戻った圭子に声をかけたのは、一つ年下の後輩である、藤木であった。警察学校時代から知っている彼は、同じ国際犯罪機密処理班に所属し、圭子を慕ってくる可愛い後輩の一人である。

 圭子は力なく笑って、藤木を見つめる。

「藤木君……」

「行ったんですか? 無事、アメリカへ」

「そうね。すでに搭乗してて、乗り込むところも見られなかったけど……無事に行ったみたい。少し緊張して、疲れたわね」

「大丈夫ですか? 少し顔色が……」

「大丈夫。ちょっと疲れただけ」

「そうですか……」

 藤木は落ち込んだ様子で、圭子の前で俯いたまま動かない。

「藤木君?」

 そんな藤木を不審に思い、圭子が尋ねる。

「……すみません、先輩。さっき、先輩が総監に体当たりしていった時も、俺もおかしいと思いながら、行動に移せませんでした」

 藤木が言う。確かにあの時、おかしいと声を上げたのは、圭子一人だった。圭子は苦笑する。

「いいわよ。場の空気を読んでなかったのは私のほう……相手は警視総監。無謀なことしたって、反省してる」

「いえ! 格好よかったですよ、先輩」

「ありがとう。でも、こっちは無事解決だもん。喜ばなきゃね……帰るね」

「送りますよ」

「ううん。今日は一人になりたいの……じゃあね」

 圭子はそう言うと、一人、警視庁から出ていった。


 圭子はそのまま自分の車に乗り込むと、車を走らせる。真っ赤な外車という、まるで走り屋のような彼女の車は、取り立ててつぎ込むことのない相手がいないことを物語っているかのようだ。

 赤信号で停まった車内で、圭子はコートのポケットから一枚の紙を取り出した。そこには、とあるホテルのルームナンバーとともに、一人で来るようにと書かれている。差出人は、コードネーム・ラン。

 それを見つけたのは、青年を見送った後、化粧室に入った時だった。いつの間に上着のポケットに入っていたその紙は、まるで挑戦状を叩きつけられたかのように、圭子の心を揺さぶった。

 たった一人で乗り込むのは気が引けるが、わざわざ一人で来るよう指示されたそのメモには、理由のつけがたい拘束力がある気がする。圭子は指定されたホテルへと、急行した。


 車が向かった先は、都内でも有数の高級ホテルだ。圭子はフロントを通らずに、最上階へと訪れた。スイートルームらしい。

 エレベーターを降りるなり、目の前は豪華な造りのドアで阻まれている。ここまで来たものの、圭子は少しためらった。相手は得体の知れない人物だ。ここで人生最後になるかもしれない。しばらくそう考えたが、ある一瞬で、圭子は思い切ってスイートルームの呼び鈴を鳴らした。

 少しして、ドアがゆっくりと開いた。暖かな部屋の明かりとともに、青年の顔が飛び込んでくる。取り調べを受けた、さっきの青年だ。予想はしていても、やはり驚いた。

「思ったより早かったな。入れよ」

 何も言えずに固まったままの圭子に反して、青年は軽くそう言った。圭子は導かれるように中に入ったものの、玄関先で立ち止まることしか出来ない。

「あ、あなた、どうして……」

 やっとのことで、圭子が言った。青年は近くの椅子に座ると、起動しているパソコン画面を見つめながら、頬杖をついている。

「何がどうしたって?」

 青年が尋ねる。

「い、いろいろ聞きたいことがあるわ。どうしてここにいるの? 日本を発ったはずじゃない。あなたは何者なの?」

「そうだな。危険を顧みず、言いつけ通りに一人で来た律儀な女性だ。質問には答える。俺も聞きたいことがあるし。さて、何から話すべきか……」

 そう言いながら、青年は煙草に火をつけ、言葉を続けた。

「強いて言えば、やるべきことがあるだけだ」

「やるべきこと?」

 即座に圭子が尋ねる。しかしそれに反して、青年はわずかに笑みを浮かべているだけだ。

「それより……腹減らない?」

「え?」

「ディナーに行こう」

 パソコンを閉じて立ち上がった青年は、火をつけたばかりの煙草を揉み消し、椅子にかけてあったスーツの上着を羽織る。

「私があなたと?」

「嫌なら一人で行ってくるけど?」

「……行くわ。一人で出歩かせるなんて出来ない」

「正義感が強いんだな。兄貴そっくりだ」

「えっ……?」

 青年は静かに笑うと、ドアの方へと歩いていった。

「待って。今、なんて言ったの?」

「質問なら後で答える」

「わかったわ……でも、その前に教えて。あなたの名前は? 得体の知れないままじゃ、あなたを呼ぶことも出来ない」

 背を向けた青年の顔は見えないが、一瞬、辺りに張りつめた空気が漂う。

「……ラン、とでも呼んでくれ」

 ランと名乗った青年は、そのままドアを開けた。圭子は恐ろしいまでのその名に目を見開きながらも、その男についていった。


 コードネーム・ラン……その名を聞いて、知らない国際犯罪組織はいない。

 その名の起源を辿ると、実に百五十年以上前に遡る。だが裏社会に生きる人間というだけで、その詳細はほとんど公になっていない。

 しかし、その名は消えることなく、常に裏社会のトップに君臨してきた。作られたまでの噂では、この世のものとは思えぬ強さと、美貌を持ち合わせた男という。

 だが、それが嘘なのか本当なのか、またそれ以外の詳細は、何一つわかっていない。


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