最終話、遥かなるメモリー
海のそばに佇む倉庫街は、不気味な静けさを見せている。並んでいる倉庫は、どれもシャッターで閉ざされていた。ランの居住用の倉庫は、ランが居ればいつも開いているはずだが、どこから見ても閉まっている。
圭子は不安を顔に出すと、慌てて表通りのスナックへと走っていった。
倉庫街のすぐ近くにあるスナック・メッセンジャーは、以前ランに連れられてきたことがある。オーナーであるママとの様子で、ランとは親しげに思えた。ここへ来ればランのことがわかると、圭子は考えたのだ。
「あら、圭子ちゃん」
店に入るなり、閉店して誰もいなくなったカウンターに、ママと呼ばれるニューハーフのオーナーが、座って煙草を吸っている。
「いらっしゃい。預かり物があるのよ」
「え?」
「はい、ランから」
状況が掴めない圭子に、ママは茶封筒を差し出す。圭子は差し出されるがまま受け取った。
「これは?」
「ランがあなたに渡してくれって、さっき置いていったのよ。一人の時に見ろって言ってたわ」
「……ランは?」
その質問に、ママは静かに微笑む。
「今回は短かったわね……いつもフラフラと、世界中を飛び回っている人だけど」
「どこへ……行ったんですか?」
圭子は目を丸くさせ、ママへと詰め寄る。
「さあ。さっきふらっと来て、しばらく日本を離れるからって……」
「嘘!」
圭子は顔面蒼白だった。自分があんなことを言ったから、ランは何も言わずにここを去ったというのか。思いがけない素早さに、信じられずにいる。
「……彼が好きなのね。別に驚かないわ。あんなに綺麗で強い男、惹かれないほうがおかしいもの」
「……でも、どうしてそんなに急に……」
「彼は意味のないことなんかしないわ。彼があなたに何かを言い残したなら、それをまっとうしていればいつか会えるわよ。私も彼を待ち続けて、結構経つけどね……」
圭子はママを見つめた。
「……詳しいんですね。ランのこと」
「そんなことないわよ。彼は謎多き男……そのすべてを知ろうとなんて、私には勇気がなくて出来ないわ」
圭子は押し黙って、目を伏せる。そして静かに口を開いた。
「私は知りたいんです。たとえ殺されても……」
「……いつだったか、あなたのお兄さんも、そんな真っ直ぐな目をして現れたっけ」
煙草の煙を吐きながら、懐かしそうな目をしてママが言う。圭子もママを見つめた。
「……兄はどうしてここに?」
「きっかけは、ランよ」
「え?」
圭子は逸る気持ちで、ママの言葉を待つ。
「……あなたのお兄様は、死んでしまうきっかけとなった事件を調べていたことで、早くからいろんな人にマークされていたの。だから、自分が狙われていることも知ってたわ。でも自分は死んでも仕方がないけれど、家族であるあなたに危害が及ぶことだけはしたくないって、ランを探してた……」
数年前、スナック・メッセンジャー。今とあまり変わらぬママが、店の中で一人、開店準備を進めている。
そこに、一人の青年がやってきた。圭子の兄、直人である。
「……すみません。まだ開店前なんですよ」
直人を見るなり、ママが言う。しかし直人はカウンターに近づくと、カラオケの曲目本などが積まれて潰された、一番奥のカウンター席の前へ行き、わざわざ本を退けて座った。
「……席なら他にもありますけど?」
「マダム・メッセンジャーをください」
直人の言葉に、ママは不敵に微笑むと、真っ赤なカクテルを差し出した。
いつも何かが置かれて座ることの出来ない奥のカウンター席に座り、直人が発した言葉を言えば、裏メニューであるカクテルが出される。裏の取引方法である。
「どうぞ」
「コードネーム・ランへの、連絡方法を教えてください」
「それは随分、高いご注文ね。石井直人巡査」
自分の名を言い当てられた直人は、冷や汗をかきながらも、真っ直ぐにママを見つめている。
「……あなたが優れた情報屋というのは知っています。コードネーム・ランへの連絡方法を教えてください」
「ここまで来たのは褒めてあげるけれど、その情報はトップシークレット……見ず知らずの人間に教える情報ではないわ。それに私はこの通り、一応裏の世界から足を洗った人間なの。前より情報は少ないし、このカクテルは昔からのよしみとだけ取り合っている連絡手段よ」
「あなたが俺の名前を知っているなら、どれだけ俺がヤバイ事件に首を突っ込んでいるのかも知っているのでしょう」
「ええ、知ってるわ。あなたは今、国家である総理大臣、国を牛耳っている暴力団、それとつながるマフィアにまで狙われているのよ。ここからすぐにでも立ち去ってもらわないと、私も狙われてしまうわ」
苦笑するママに、直人の表情が変わる。
「そうです……俺は絶対に、間宮総理大臣、そして暴力団を許さない。日本の安全のためには、これらを法の下で裁かなければならないと思っています。馬鹿げたことと思うかもしれませんが、俺はこの性格を曲げられない。でも、妹は別だ。ランとは面識があります。警官として、殺しの依頼は出来ないけれど、相談に乗ってもらいたい。彼に妹を守ってもらいたいんです」
ママはそれを聞いて、静かに笑った。
「あなた、彼に気に入られているみたいね……聞いてるわ。もしあなたが訪ねて来たら、惜しまずランへつなげろってね」
ママはそう言うと、メモに何かを書き始め、直人に渡した。そこには、英語で住所が書かれている。
「試すようなことをしてごめんなさいね。どの程度本気なのかを知りたかったの。私があなたを知っているのは、あなたが事件に突っ込んだからだけじゃないわ。ランに言われて、あなたのことはずっと気にしてたのよ」
「どうして……」
「さあ。でもあなたと彼は、深いところで関係しているみたいね。私もそこまで知らないわ」
「……この住所に、ランがいるんですか?」
「訪ねるつもりなら無理よ。地図には載らない住所だから」
直人は目を泳がせならも、ママを見つめている。直人の顔は必死で、メモを握り締める。
「大丈夫、ちゃんと連絡はつくはずよ。世界中を飛び回っている彼だけど、逃げも隠れもしてないわ。騙されたと思って、手紙でも書きなさい。さあ、そろそろ開店だから、出て行ってくれないかしら」
「……ありがとうございました。情報料は……」
ママは目を細くして笑った。
「正義の警官なら、この店を守ってちょうだい。それが情報料。ランのお気に入りのあなたから、お金なんて取らないわよ」
「……わかりました。ありがとうございました」
直人はそれ以上言わず、そのまま店から去っていった。ランがなぜ自分のことを、わざわざママに言ってくれていたのかはわからない。だが今の直人には、それを気にするだけの余裕はない。
その後、直人はすぐにランへ手紙を送った。生命保険つきの手紙である。ランからの返事はなかったが、直人は約束通り、ママの店を巡回しながら、事件の核心へと突き進めていった。
現代。直人との思い出に、ママは涙目になった。しかしすぐに笑顔を見せて、圭子に微笑む。
「本当に、いいお兄様だったわね。殺されてしまったあの日も、この地区の治安向上の企画書も出してくれて、律儀な人……」
「……そうですか。兄とママにそんな繋がりがあったなんて知りませんでした。それに、ランとの関係はもっと……」
「圭子ちゃん。私に言えることは、知り過ぎてはいけないということ。お兄様だって、正義のために進んでも、結局は危険を回避出来なかった……それが彼の幸せだったとしても、知らなくていいことって本当にあるのよ。私だって情報屋なんてしているから、何度命を狙われたことか……」
圭子はママを真っ直ぐに見つめる。ママにとっては、直人に見つめられているかのような感覚を覚えていた。
「でも、ランが守ってくれている。そうでしょう?」
圭子が確信を持って言った。ママは静かに微笑む。
「その目、本当にお兄様そっくりね……」
「知りたがりな目でしょうか。私、少しだけでもランと一緒にいて、わかったんです。悪と正義は紙一重……本当にそう。でも彼は、私にとって正義でした。きっと、ママにとっても……ママのようにはなれないかもしれないけど、私も彼について知りたいことがたくさんあるんです」
必死なまでの圭子に、ママは苦しそうに微笑むばかりだ。
「……私の情報も、彼についてはまったくないわ。でも、彼を敵には回したくないから、彼の言うことは聞く。私は謎のままでいいと思ってるけど、あなたが知りたいのなら止めないわ。お兄様のように、真実を追い求めればいい。でも気をつけてね。ランは無駄な殺しはしない。でも、容赦もしないわ」
「はい……ありがとうございました」
圭子は清々しい表情を見せると、お辞儀をして店を出ていった。
やがて圭子はもう一度、裏にある倉庫街へと足を運んだ。やはりすでに人の気配もない。圭子は倉庫街の奥にある鉄条網のフェンス越しに、海を見つめた。昇ったばかりの朝日が見える。
圭子は静かに、ママから渡された茶封筒を開けた。
「え……?」
封筒の中を覗くなり、圭子は首を傾げた。中には、破れかけた古めかしい白黒写真が入っている。
「なに、これ……」
圭子は写真に目を凝らした。小さな写真には集合写真のように、数人の人物が映し出されている。外国だろうか。外国人ばかりが映るが、その中に一人、東洋人の女性がいる。
やがてその写真の中に、少し遠くてぼやけているものの、ランによく似た少年が映っていることに気が付いた。今より幾つか若いくらいだろうか。まだ少年に見える。
「ラン?」
圭子は無意識に、写真を裏返した。すると、写真の人間と思しき、数人の名前が書かれている。しかし、ランという名はどこにもない。
「これはランじゃないの? ううん、ランはコードネーム……そうだ、このヴィクトル・Ⅹ・アイゼンハワーだわ。ランのパスポートの一つに、確かその名前があった……」
記憶を呼び起こし、独り言を呟きながら、圭子は名前を指で追っていく。
「ハリスド・ルカス、ヤヨイ・ハナエ……!」
日本人と思われる名前を見つけ、圭子はもう一度、写真を見つめる。そして圭子の脳裏に、僅かながら引っ掛かりが出来た。
「花江はうちの本家の苗字……この写真の人が、ランと関係してるんだ。それで私や兄を守ってくれた。そうなのね?」
圭子の家柄は旧家で、代々華道を受け継いでいる。圭子は分家なので華道をやったことはないが、親戚である本家の苗字は花江といった。偶然かはわからないが、ランが残した写真に写る女性が、圭子と何か関係があるのだと思いつく。
逸る気持ちを抑えられず、圭子は写真の表裏を何度も見つめ続けた。
やがて、圭子は写真の裏に、消えかけの文字があることに気がついた。あまりの古さにかすれているが、数字に見える。
「一、八六、四……一八六四年……この写真が、撮られた日?」
あまりの恐ろしさに言葉を失い、いろいろな憶測が頭の中を飛び交う。
もしその数字が撮影日だとすれば、もし写真の少年がラン本人だとするならば……そう考えれば、途方もない闇に満ちた場所に、足を踏み入れたことになる。
そうでなくとも、百年以上も前の写真を、なぜランは圭子に渡したのか。考えれば考えるほど、謎が多い。
圭子は静かに空を見上げた。すでに日は昇りきり、青空が広がっている。
「一八六四年……もしこの写真の子がラン本人だったら、ランは本当に百年以上生きていることになる……ううん、そんなことはあるはずがない。ランは自分の先祖の名を語っているのかもしれない。私の先祖と、ランの先祖が知り合いだったということかもしれない。なんにしても、私たちの関係は……」
その時、上空を飛行機が飛んでいった。それと同時に、一筋の飛行機雲が空を割く。
「……ラン、あなたは何者なの? いったい、私とどういう関係が……」
多くの謎を残したまま、コードネーム・ランと名乗る殺し屋は、圭子の前から突如として消えたのだった――。