11、潜入
トムのやり口は大胆だ。大量の爆薬を積んだ客船は、誰にも気付かれることのない場所でその時を待っている。自動プログラムで進む客船も、すでに離れた場所からでも遠隔操作が出来るように仕掛けられていた。そのため燃料も底をつきそうなことさえ、乗組員は誰も気付いていない。
夜、十一時を回った頃、闇夜の海上に浮かぶ豪華客船に、一機のヘリコプターが着陸した。
「爆発まで一時間を切ってる。本当にやるんだね。大丈夫かい?」
心配そうなトムの言葉に、ランはヘッドセットのレシーバーをつけて、不敵に微笑む。
「ああ。じゃあ、行ってくる。おまえも頼むな」
ランは圭子にそう言うと、ためらうことなくヘリコプターから下りていった。
圭子はランの後ろ姿を見つめながら、今更にして状況が怖くなり、体を震えさせる。
「大丈夫? 圭子」
察してトムが尋ねる。トムはそう言いながらも、ヘリコプターの操縦席に座ったまま、パソコンと向き合い集中している様子だ。
「ええ……」
「無理しなくていいよ。顔が真っ青だ。やはり君には荷が重すぎたかな」
「……信じられないのよ。好奇心だけでここまで来てしまったから。この下の船には、私の仇がいるはず。でも、もし不意に攻撃されたりしたら……」
恐怖を紛らわせるように話し続ける圭子に反して、トムは表情を変えないままだ。
「ここまで来たらリタイアは出来ないよ。腹をくくって、君の仕事の成功だけを考えるんだ。大丈夫。僕も命は惜しいから、君が危険な時はヘリを発進して逃げるよ……さて、ランは早くも船内に潜入したようだ」
トムの言葉に、圭子はトムのパソコンを覗き込んだ。地図のような図の上で、移動している赤い点が見える。
「ランの居場所?」
「そう、レシーバーについてるんだ」
その時、トムがつけているヘッドセットのレシーバーに、ランの声が聞こえてきた。
『トム。感度は?』
「良好。居場所もわかるよ」
『パーティー会場の前まで来た。さすがに人がうじゃうじゃしてる』
ランの声はいつも通りで、時に呑気にまで聞こえる。
「ターゲットは?」
『ボスの近くでつまらなそうにしている。さすがに次期総督ということで、護衛は一番多い』
「やっかいだな、ラン。大丈夫かい?」
『ああ。しばらく様子を見る。確保したら、また連絡する』
そこで、通信は途絶えた。
「時間がないのに、ランはいつも冷静だ。このまま僕だけ逃げ切れば、ランはいなくなって、僕は裏社会のナンバーワンになれるだろうが、ランは絶体絶命をも切り抜けるからな……下手なことは出来ないのが残念だよ」
独り言のように、眉を顰めてトムが言った。
圭子は運転席より後ろで、いつか下ろすべき梯子を携え、外を見つめている。トムの言葉を聞いて、圭子は静かに口を開いた。
「あなたたちの世界のことはわからないけど、一応、義理はあるみたいね……」
「ないよ、義理なんて」
あっさりと否定して、トムが笑う。そして言葉を続けた。
「義理があるように見えるなら、それは相手がランだからさ。同一人物じゃないにしろ、百年以上も世界一っていうのは伊達じゃないからね。僕も一流といわれるスナイパーだけど、ランを相手にしようなんて馬鹿な考えは起こらない。以前はランを狙った一人だけど、一度かち合えばわかるんだ。太刀打ち出来ないってね」
「……そんなにすごいの? ランって」
「そうだね。敵には絶対に回したくない……いや、回してはいけない人だと思うよ」
遠い目をして、トムが言った。圭子にとってランは、ますます謎が深まるばかりだった。
十数分後、トムはパソコン上で、ランの動きを追っていた。同じ場所にいたはずだが、徐々に移動しているのがわかる。
「動いた……」
トムは辺りを見回すと、操縦桿を握る。いつでも発進出来るようにしておかなければ、自分の命もランの命もないのだ。
ランは船内に潜伏しながら、たった一人の子供の行方を追っていた。極悪人の子供でも、未成年を殺すのは、ランのモラルに反する。
船内の広間は、連日連夜行われるはずのパーティーで、今夜も盛り上がっている。ランはしばらく様子を見ていると、やっとターゲットの子供が動いた。数人の護衛を兼ねた部下を従え、トイレへと立ったのだ。
広間では、カジノや食事、ダンスパーティーなど贅沢の限りで、誰も外へ出ようとしない。エンドレスの音楽や船のモーター音などにかき消され、ヘリコプターが着陸したことさえ気付いていない。動くなら、今しかない。
ランは表情一つ変えずに、素早く動き始めた。そして大胆にも、人でひしめきあう広間へ堂々と入っていった。
「ああ、失礼」
「ワインはいかがです?」
反射的な声に阻まれながらも、ランは怪しまれることなく確実に、ターゲットの子供、龍王へと近づいていく。ランの目に映る龍王は、広間の中心にあるホールへと向かっていた。そこにはトイレのほか、各階へ通じるエレベーターがあるはずだ。
「つまんないな。ついてくるんじゃなかった」
ホールになっている廊下に出るなり、龍王がそう言った。次期総督と言えどまだ子供で、同年代が一人もいないこのクルーズに、早くも物足りなさを感じているようだ。
「そうおっしゃらずに。 あなたは将来、この船に乗る全員を仕切る人間になるんです。お披露目は大切です」
五人の護衛の一人が、龍王に向かってそう言った。さすがに次期総督だけあり、そのガードは思ったより固いようだ。
「お披露目なら中国でも出来たのに。それに周りにいつもおまえらがいるから、ご機嫌取りの人間しか寄ってこないんだ」
そんな龍王と五人の護衛の前に、突如としてランの姿が映った。
「何ですか?」
護衛の男が、紳士的にそう尋ねる。しかしその目は鋭い。
「いえ、べつに……少し酔ったので、外の空気を吸いに行こうかと思いまして」
流暢な中国語で、ランは一同の前を横切ると、目の前のエレベーターのボタンを押す。そして扉が開いたのを確認したその時、ランは中央にいる龍王の腕を掴み、思い切り引っ張った。龍王は飛ばされるように、ランに掴まれたまま、エレベーター内へと引き込まれている。エレベーターはそのまま、ランと龍王だけを乗せ、屋上の甲板へと動き出した。
「な、なっ……」
言葉にならない様子で、口をぱくぱくさせながら、龍王はランを見つめている。ランは脇下に忍ばせた銃を手に取ると、鋭い目で龍王を見下ろした。
「この船はもうすぐ沈む。船と一緒に死にたいか?」
ランの問いかけに、龍王は大きく首を振った。
「そうか。だったら俺から離れるな」
ランはそう言うと、ヘッドセットの通信ボタンを押した。途端、トムの声が返ってくる。
『ラン? もうすぐ爆発するぞ!』
「ああ。今、エレベーターから甲板に向かっているところだ。もう出ろ。カウントダウンを頼む」
『わかった』
ランは通信を切ると、ゆっくりとしたエレベーターが、やっと甲板へと着いた。
「待て!」
その声にランが振り返ると、甲板から後方、二階建ての部分から、数十人が上下列をなして銃口をこちらに向けている。ゆっくりだったエレベーターの代わりに、階段でも十分追いつく早さだったようだ。階段からは、後から後から人が溢れ出してきており、ランと龍王は完全に囲まれていた。
「なんて余興だ。どう逃げるつもりだったか知らないが、甘い計画にもほどがある。何者だ」
振り返った先に、龍王の父親であるマフィアのボスがいる。
「父上!」
思わず龍王が叫ぶ。その時、ランのヘッドセットから、トムの声が聞こえた。
『カウントダウンだ。十、九、八……』
突如始まったカウントダウンに、ランは龍王の首筋を叩き、龍王を気絶させる。
「龍王! 貴様、何をするつもりだ。誰なんだ!」
そう言いつつも、龍王とともにいるランに手出しが出来ない連中に、ランは無言のまましゃがみ込んだ。そして自らの靴に仕掛けられた、手動式である滑り止めのスパイクを突き出す。ランの靴底からは、途端に太い針が突き出し、甲板の板に食い込んでいる。
「俺の名を聞いて、生き残ったやつはいないよ。俺はコードネーム……」
『三、二……』
「ラン」
その時、爆発音とともに突如として船が揺れ、空にヘリコプターが出現した。揺れと上空に気を取られた人間たちを尻目に、ランは龍王を肩に担ぎ、一目散に舳先へと走り出す。だが、一瞬にして折れ始めた船の中心に、甲板はどんどんと傾いていく。
自らの体と龍王の重さ、更には上り坂に傾く船に、ランにかかる重力は相当なものだった。
『ラン!』
ヘッドセットから聞こえるトムの声に耳を傾けながら、ランは無言のまま、ただ走って舳先を目指す。やっとランの手が舳先の手摺りに届いた時には、舳先は空を仰いでいた。
ふと下を見ると、筋書き通りの人の姿が見えた。突然の重力に逆らえず、折れ曲がった船の中心に吸い寄せられ、やがて海へ沈んでいく。ここにいるランも、一刻を争った。
ランは舳先の外側になんとか回り込むと、舳先の欄干へと立ち上がる。ヘリコプターは海風にかなり煽られていて、圭子の手によって下ろされたはずの梯子も、くねりながら何度もランの上空を通り過ぎていく。
『すごい風で、コントロールがきかない!』
トムの言葉を聞きながら、ランは持っていたロープで龍王を背中に縛りつけた。
「トム。全力を尽くしてくれればいい。ワンチャンスだ」
『オーケー……行くよ』
トムは冷や汗をかきながら、ヘリコプターから垂れ下がった梯子を、なんとかランへと近づけていく。その様子を、圭子は祈るように見つめている。しかし爆風はランをも直撃しながら、船を揺らしていた。
その時、ランの目に道筋が見えた。たった一瞬の判断で、ランはためらいもせず大きく梯子目指して飛ぶ。すでにその体の下は、深く真っ暗にうねった海しかない。
が、しかし、突如とした突風に煽られ、龍王の重さに耐え切れず、ランの手は梯子にかすっただけで、真っ逆さまに落ちていった。
『ラン!』
事態を察して、トムと圭子が叫ぶ。
ランのスーツは多少緩やかに風を捉えながら、船の縁を落ち、甲板横の欄干にとどまった。しかし、さっきのように船の天辺ではなく、すぐにでも海に呑みこまれてしまいそうな位置である。さすがのランも、いつもより険しい顔に見える。
「……ラストチャンスだ。出来るだけ低く飛んでくれ」
ランがそう言うと、トムはうめくように返事をして頷き、一刻の猶予もない船目掛けて、操縦桿を握った。