回想 ―佳苗編―
今まで、吉村佳苗にとっての名取 由一とは、単なる影の薄い穏やかな男子生徒以外の何者でもなかった。
どうにも記憶に残っていなかったので、佳苗は昨日の晩、中学の頃のアルバムを開いて、じっくりと覗き込んで再確認してみることにした。
すると驚いたことに、中一、中三と、由一と佳苗は同じクラスだったのだ。
しかも写真の中の由一は、黒縁の度のきつそうなメガネをかけている。
いつの間にコンタクトに変えたのだろうか?
佳苗は頭をフル回転させ、大脳新皮質から記憶をひねり出そうと努力してみたが、全く思い出すことができなかった。
実質3年以上も同じクラスにいながらパッと思い出せる事と言えば、クラス中が笑った由一の失敗的行動の2,3回くらい(その頃には既にコンタクトになっていた)と、三日前のコマイヌ事件だけだった。
佳苗は内心、信じられない気持ちでいた。
こんなにも変質的センスのある人間なら、クラスでも頭角を現していて当然である。
楽に人気者になれただろうに。
何か理由があるのだろうか?
聞いてみてもいいのだろうか?
それとも、人気や目立つことにあまり興味がないのかもしれない。
なんだかそんな気がする。
よく考えてみると、由一はどうもわざと自分の影を薄くしているような、そういう節も見うけられる。
佳苗は3つ手前に座っている由一の猫背を眺めながら、5時間目の保健の授業中、ぼんやりとそんな事を考えていた。
「そういう性格か…」
「何が? 」
隣の席に座っている幼馴染の田中瑠璃に聞かれ、佳苗は我に返った。
思わず声に出てしまっていたのだ。
「いや、なんでも。うちのグッピーが…ね? 」
佳苗はとっさにそう誤魔化した。
「グッピー飼ってた? 」
「うん…この間、買ったのよ」
「へえ。今度見せてよ」
「あ、いいよ」
佳苗は笑顔で喋りながら、近くにペットショップがあったかどうか考える。
しかし瑠璃の記憶力を考慮すると、それほど心配する必要も無いと思った。
瑠璃の脳みそは、授業中に起こった出来事すべてを、チャイムと共に完全に消去する性質があるのだ。
便利なのか哀れなのかは、まあ、本人の考えかた次第である。
今日は水曜日で、佳苗にとっては一週間で最も平和な時間割が組まれた日だった。
水曜と木曜は塾もなく、佳苗はこの二日間のことを親しみを込めて『台風の目』とよんでいる。
「ね、帰りにマック寄らない? 」
6時間目終了のチャイムと共に、瑠璃がひそひそ声でそう言ってきた。
(この学校では、下校中に遊ぶことは禁止されている。
発覚した場合、その生徒は自分が最も苦手とする教科の教科書を丸々一冊、手書きで写し取らなければならない。
しかし、生活指導室がはりきっている割に、検挙率は5%未満だった。
それに万が一見つかったとしても、塾への腹ごしらえとでも言っておけば、楽にクリアできたのだ)
佳苗は快くOKした。
佳苗は今日、二時間目の休み時間中、トイレから出て来たところで由一とパチッと目が合った。
半径7メートル以内には誰の気配もなかったので、佳苗はにっこりして話しかけようとした。
しかし由一は目をそらし、意味不明の念仏のようなひとり言をぶつぶつ言いながら通り過ぎ、男子トイレの中へと吸い込まれていった。
そして二度と出てくる事はなかった。
(教室に戻ると、普通に着席していた)
パソコンでの会話を始めて今日で三日目となったが、佳苗から見て、由一の学校での態度に変化は全く見られなかった。
由一は常に一人で、常に猫背で、常にどこか遠くのほうを見ている。
しかし佳苗の方はというと、由一との会話が楽しくて仕方がなかった。
たった三日間で、このクラスで将来最も大物になるのは由一なのかもしれないと思うまでなっていた。
それどころか実際、高校在学中に世界中の科学者達を出し抜いて、人間の「笑い」についての完全な法則を発見し、「ユーモア理論」なるものをどこぞの学会に発表するのではないかと、佳苗は密かに期待していた。
それほど由一の繰り出す文章は佳苗のツボに来ていたのだ。
毎回ページを立ち上げるたびに、佳苗は腹筋が割れる思いだった。
今朝の文章も相変わらずの業物だった。
笑いすぎて、今でも少しわき腹が痛い程に。
【(前略) で、あるからして、君は以上の18個のワラ技(人を笑わす技法)に対して、満遍なく笑うことができる。
どのワラ技が好き、という問題ではないのだ。つまり重要なのはテクニック、すなわち組み合わせ方と表現方法だということ。
この二つによって、笑いは多様化していくと言える。
まず、何の変哲もない状況を想定して、そこにワラ技をいくつか当てはめていく。
例えば、「誰かが学校の廊下を歩いている」というごく普通の状況を想定する。
これだけなら、誰でも何個でも思いつくことが出来る。
この『誰か』は、誰でもいい。
本当に誰でもいいんだ…。
そして次にその状況にワラ技を当てはめていく。
これは最初は適当でいいと思う。
今回は試しに、外し、強調、重ね、反復の4つをアトランダムに使うことにする。
まだ僕は君を笑わせる文章を考えついているわけじゃない。
今から文章を打ちながら考えるんだよ。
まず「外し」からだが、この意味は言うまでも無く常識を外すという意味だから、例えば登山用スパイクを履いて摺り足で歩いているとか、前方5メートル地点の曲がり角の死角にジャガイモが転がっているとか、学校の廊下というものから見て非常識でいて、かつ、それが起こる可能性が0%ではないものを候補として挙げる。(ジャガイモは理科の実験に用いるので、ちゃんと校内に存在している)
次に「強調」だが、これには数多くの選択肢があるだろう。
一体何を強調するのかで結果は千差万別だ。
スパイクの場合なら、摺り足をしているのが一人ではなく登山部員25名全員だとか、あるいはその歩いている姿勢を思い切り猫背の蟹股にして、腕を大きく振って行進しているなどにしても良い。
何か奇声を叫ばしてもいいな。
学校の廊下という条件自体を、もっと傷つきやすい法隆寺の板の間(国宝)などに変えてしまえば、被害の強調になる。
ジャガイモの方なら、廊下一面をイモで埋め尽くしたり、転び方をスピーディーにアクロバティックにしたり、カツラを装着中の校長(PTA会長も可)を転倒させたり、書類を山ほど抱えて急いでいる新米教師を低空飛行させてもいい。
残念ながら、「重ね」と「反復」は今回はあまり役に立たないな。
強いて言うなら、誰か(3人以上)が同時にイモを踏んで飛ぶんだろうが、これははっきり言って幼稚園児レベルのユーモアだと思う。
かわりに「未知との遭遇」を使おう。
基本的に言って、「外し」、「ボケ」と「未知との遭遇」は、相性がいい。両者共に『不可解』を共有しているからな。
「なんでこんな所にお芋さんが? 」
という風に真剣に考えている通りすがりの一年の女子なんてどうかな?
生活指導の教師が廊下の床に無数の傷跡を見つけて、しゃがみ込んで不思議そうに指でなぞっている姿なんてのも、吹き出しそうになりながら、彼ら(登山部員)の行進の後ろ姿を指差して教えてやりたくなるはずだ。
きっと教師はまず目をこすり、しばらくして状況を把握して固まるだろう。
(ここでは「間隔」が使える)
さらにここから「ジャガイモ」に繋げるのもいいだろう。
何連鎖できるか試してみるのも面白そうだ。
近代マスメディアを代表するギャグはほとんどが単発か、せいぜい2連鎖だからな】
佳苗は今朝この文章を読み終えたとき、危うく食べていたコーンフレークをキーボードの上に全部噴射しそうになった。
今でも注意していないと、クラス中に響き渡る声で大笑いしてしまいそうで、まだまだ気を緩めるわけにはいかない。
佳苗の学校でのキャラは、爽やかで上品で親切で歯の白いスーパー優等生だったので、自分の部屋に一人でいる調子で、転げまわって笑うことだけは死んでもできなかったのだ。
もし佳苗が授業中に突然そんな行動に出れば、急性盲腸炎にかかったのだと勘違いされて、5分後には駆けつけてきた救急隊の人達に、深く謝罪しているだろう。
そしてその次の日から、佳苗は鳥取か島根の学校に転校する事になるだろう。
「どうしたの? ニヤニヤして。そう言えば最近、佳苗って元気だよね。いつも元気だけど、今週に入ってから特に。中間テストが近いから? 」
瑠璃は鞄に教科書を詰め込みながら、佳苗の楽しそうな横顔を見てそう言う。
佳苗は内心ドキッとしたが、顔には一切出さなかった。
「さては、ようやく彼氏でも出来たか? 」
瑠璃は佳苗の顔を覗き込みながら言った。
大きな両目が興味深深で佳苗を見ている。
佳苗はもう一度ドキッとした。
「んな訳ないじゃん。でも、メル友なら出来たわ」
佳苗はあわててそう言った。
そして表情をごまかすために、鞄から取り出した紙パックのフルーツ・オレをストローで飲んだ。
「へえー、佳苗もそーゆうことするんだ? 相手どんな奴? 年上? 」
「ちょっと変態なんだけど、話が合うのよ。便宜上「彼」って呼んでるけど、彼には感謝してるわ。いつか、直接会って話してみたいかも」
佳苗はすぐ前にいる由一にわざと聞こえるような声でそう言って、鞄を肩にかける。そして瑠璃と一緒に教室を出る際、まだ席に座ったままの由一を何気なく見やった。
由一は背筋をピンと伸ばして静かに椅子に座っていた。
それはめずらしいことだった。
その後姿からは、姿勢を正されるような、「凛」とした空気が感じられた。
肩越しに見える机の上には真っ白なノート開かれており、そこには筆ペンでなにやら太い四文字熟語が一つだけ書かれていた。
硬く握り締められた由一の両手の拳の間に、その文字はあった。
砂嵐禁止。
由一の隣の席の松本恵那(身長152センチ)が、「きれいな字だね」と褒めながら、「どういう意味? 」と首をかしげている。
気付いた時には、佳苗は口に含んでいたフルーツ・オレを、一滴残らずルリの顔に向かって吹きかけていた。
だって仕方なかったんだもん。
佳苗はルリに首を絞められながら心の中で弁解した。
これは無理だよ。
すごい筆圧で書かれたことが一目で分かるその文字からは、
「いい加減にしてくれ」
という怒りのオーラがダイレクトに伝わってきたのだから。
そして最後の“。”には、波動砲クラスの問答無用さが込められていたのだから。
「ここではなにも聞かない事がチームプレイだ」
首をかしげている松本にそう言い残して、由一は窒息しかけている佳苗の横を悠々と通り過ぎて帰っていった。