ユーモア理論?
翌朝、由一は鳴り響く目覚まし時計を左手で静かに止めた。
ゾンビのような動作でベッドから這い出て部屋のカーテンを開け、あくびをしながら背伸びをして制服に着替え、いつもの動作で洗面所へと向かう。
奇妙な事に、なんだか体が軽い感じがした。
洗顔を済ませてリビングルームへ行く。
由一の両親はもう既に身支度を整え、お互い忙しくニュースを交代で見て教えあっている。
最後に天気予報を確認し、それから二人は互いの荷物をチェックしあい、それぞれ由一に
「おはよう。行ってくる」
「今日はきっと夕飯作るわね」
と言って、あわただしくそれぞれの職場へと出かけていった。
由一は玄関の鍵を閉めながら、小さくため息をつく。
キッチンでトーストを焼きながら、洗面所で一応生えている髭をそり、スプーンで紅茶を混ぜながらテレビのニュースを10分間ほど眺めると、時刻は6時5分となった。
由一はトーストとミルクティーを持って自分の部屋に戻り、抜いておいたコンセントをタコ足に差し込んでパソコンの電源を入れる。
新たにページを開くと、昨日までの文章は消えていた。そして驚いたことに、もう新しい文が打ち込まれている。
【おはよ。早起きね】
これでもしも僕が返事をしなかったらどうなるのだろうか…と、由一は一瞬そう思いながら返事を打つ。
それにしても、まるでドラマか何かのヒロインの台詞のようだ。
寝ぼけているのだろうか。
一度言ってみたかったのだろうか。
【俺はいつも通りだけど。で、どうするんだい? 完全に昨日の続きから始めるのかい? 】
【昨日って、なに話してたっけ? 】
佳苗の返事を見て由一は思う。
やはり佳苗は少し寝ぼけているようだ。
あの傑作を忘れるとは。
【ピエールが自転車かっぱらった話】
【ああ、あれね。別に? 笑えれば何でもいいと思うけど。面白ければ勝ちよ】
「別に?」 の ?マーク が、由一の心の琴線にやさしく触れた。
同時に由一は悟った。
やっぱり本は正しい。
佳苗は由一のことを、目覚めに一発のお笑いアトラクションか何かの一種だと認識しているようだ。
由一は思わず笑みがこぼれた。
いい機会だから実験してみるとしよう。
人は笑い過ぎて呼吸困難に陥り、失神してしまうことがあるのかどうか。
由一は少し乗り気になってきている自分に気が付いた。
これは一種の攻防戦なのだ。
とりあえずアゴでも外してやろう。
【じゃあ、君の笑いのツボを教えてくれないか。
君は一体どういうものに対してユーモアを感じるんだ?
具体的な状況を挙げながら何がどう面白く感じるのか、詳しく書き出してくれ。
今までの人生で一番笑えた事はどんなことだった?
別に少しくらい倫理に反していても構わないよ。
笑いなんて、大体そんなもんだから。恥ずかしがらずに言ってごらん】
まずこの質問から始めるべきだったのだ。
どうせ笑わせるのだったら狙い撃ちできるほうが楽しいし、その方が効率的だ。
【そんなこと言われても、急には分からないわ。
笑いのツボって言われても、そんなの言葉で説明できるの? 】
由一は真剣に考えた。
とにかく佳苗のツボが分かればいいのだ。
自分で分からないのなら、炙り出せばいい。
【じゃあ、テレビの大災害ニュースを見ていて、大笑いしてしまった経験はあるかい】
【あるわけ無いでしょ】
【一番好きなギャグ漫画は何? 】
【漫画は読まないの】
【クラスメイトの中で、一番面白い顔をしていると思うのは誰? 】
【言えないわ。その子と仲いいから】
この返事には、由一のほうが笑ってしまった。
【今から3年以内に顔に落書きをされたことはある? 】
【あるわ。去年、額に『殺』って描かれた。ルリに】
ここまでは単なる時間稼ぎだった。
これからの質問が本番だ。
由一は頭の中でまとめた質問を、しっかりと確かめながら打ち込んでいく。
【じゃあ次の4つのうち、どれが一番面白いか5秒以内に答えてくれ。
1、卒業式の日に、クラス全員で黒縁メガネをかけて、髪形を七三わけに統一(仕草、表情なども統一)して足を跳ね上げて歩く軍隊式歩行で入場。
2、みんなが徹夜で作ったドミノ倒しに、悪ガキが横からヘッドスライディングをかます0.2秒前の静止画像。
3、回転しながら起立、着席する頭の悪そうな生徒。
4、ハワイに旅行している間に、台風で家が飛ばされて跡形も無くなった、気の毒な親戚のおじさん。
さあどれ? 】
【文章的には3ね。でも、実際にやってみて一番笑えるのは1か2ね】
佳苗は即答した。
由一はもしや、佳苗は実は相当頭が良いのではないかと思った。
それとも単に笑いに対して厳しいだけなのだろうか。
【次のうち、18歳の誕生日に貰って一番笑えるものは?
1、コケシ。
2、そろばん。
3、牛乳瓶のふた200枚。
4、ひまわりの種。
5、ハチミツ】
【5のハチミツね。コケシも捨てがたいけど。3と4は笑う前に本気で怒ると思うわ】
由一は微笑んだ。
さてと、どうやって昇天させてやろうか。
由一はワードを立ち上げ、そこに暗号で次のようにメモを打った。
『吉村佳苗のツボ……シンプルで、わざとらしくない、さりげないイボのような物に対して、ユーモアを感じる。
常に真剣さ(よく考えること)を忘れないバカ正直な性格も使える。
基本的に、直接笑わせようとするよりも、一度何かを経由して間接的に狙うほうが効果的である。
シンプル系反射型のツボの持ち主。
さらに幸いなことに、本人自身も笑いに対してかなり積極的。
頭はいいけど実はバカという残念なタイプ』
【最後の質問。君の部屋には何が置いてあるか、出来る限り詳しく説明して欲しい】
しばらく間が空いた。
その間に由一はトーストを食べ終え、食器を片付け、学校へ行く準備にとりかかる。
約5分後、セピア色のディスプレイに長い文章が打ち出された。
【家は2階建てで、二階にある私の部屋は洋室で、広さは5畳半。
形は長方形で、一方の長いほうの辺の中央に窓があって、その窓にはブラインドをかけてある。
机はその窓の右側、ドアから最も離れた場所。
床はフローリングで、天井と壁紙の色は白。
机の上にはパソコンと本棚とスタンド、時計、プリンター、あとは小物。机の後ろにはベッドがあるわ。ドアを開けるとベッドの裾からはみ出したかけ布団がドアに巻き込まれて捲りあがる。
机から見てドアの右には棚と、その前に小さなテーブルが置いてあって、テーブルの上にはミニコンポが置いてある。
あとはクーラーがあって、クローゼットがあって、ゴミ箱と鞄が3つにクッションが2つ床に放置されているわ。
人形の趣味は無いけど、シルバー系の飾りがいくつかあるわ。そのくらい。引き出しの中身も知りたい? 】
ほぼ由一の予想通りだった。
小物とクッションが余計だが、それを除けばほとんど男子の部屋だ。
昨日の会話から考えても、佳苗は少し男っぽい。
背も高いし、女子にモテるタイプだろう。
しかし上品だ。
おそらくプログラマーの父親が遺伝的にきれい好きなのだろう。
由一は先ほどのメモの最後に、こう書き加えた。
『下ネタは敬遠。しかし、もし言ったとしても、おそらく皮肉的な表現が返ってくる程度である』
由一は書いたメモをもう一度見直し、ふと思った。
佳苗とはいい友達になれるのかもしれない と。
佳苗は常にプラス思考の出来る人間だ。
この人種と友達になってトラブルに巻き込まれる確率は非常に少ないと言える。
こちらがあまりにも破天荒な態度をとらない限りは、友好的に楽しく過ごせるだろう。
【わかった。出来るだけ楽しく会話できるように努力するよ。
でも、教室で俺の顔を見て、いきなり吹き出したりしないでくれよ】
【約束するわ。で、考えたんだけど、何か「お題」を決めない?
いくらあなたが変態でも、普通の会話だけだと限度があると思うのよね。
どうかな? 】
変態って言われた…と、由一は思った。
しかしそのまま流すことにした。
【お題って、笑点やトーク番組みたいに? 】
【いや、もっと具体的な方が良いと思うわ】
由一はパソコンの前で首をかしげた。
彼女は何が言いたのだろうか?
【例えば? 】
【例えば、いきなり「夏」とかをお題にして面白い話をするのは、かえって難しいと思うの。
由一君、昨日言ってたでしょ?
ユーモアはお互いに認識できる状況をさり気なく共有することが最低限の必要条件だって。
つまり、笑いの果実を収穫するフィールドが必要なわけよ。
そのフィールドに二人で立って、話をするの。
で、単純に考えてそのフィールドは一つよりも、二つ三つのほうが収穫量は増えるでしょ?
だから、お題という名の状況設定をするのよ。
「センター試験の前日にボーリング場で合コン」とか、
「夕日のまぶしい屋上で一人考え事をしている誰かの後ろをわざと通り過ぎる」とか。
できるだけ複雑な状況のほうが良いと思うんだけど。どうかしら? 】
由一は考えてみた。
そして、これにはかなりの状況把握力と想像力が必要になるだろうと思った。
「センター試験前日にボーリング場で合コン」の場合ならば、これは親か教師の立場から呆然と彼らを見ている誰かを、さらに一歩後ろから第三者の立場で眺める必要がある。このとき、その親か教師の表情をリアルに想像できるかどうかがミソだ。
「夕日のまぶしい屋上で~」の場合ならば、考え事をしているのは世の中を理解している思慮深い人間でなくてはならない。
少なくとも、通りすがりの誰かに見られたことを恥ずかしく感じられなければ、まったく話にならないだろう。
吉村佳苗はどこまで把握しているのだろうか?
いや、この二つの状況を例として設定してきたことで、少なくとも「把握」までは完全に出来ていると言える。
それを分析する能力があるか無いかは、現時点ではまだ分からないが…。
そこまで真剣に考えたところで、由一は自分自身に対して吹き出してしまった。
…僕は一体何をしているのだろうか? こんな朝から。
それは誰にも分からない問題だった。
机の前の窓からは清々しい真っ白な朝日が差し込んでいる。
今日も快晴だ。
【言いたいことは良く分かったよ。ただ、考え方がまだまだ甘いね。
どうせなら、「笑いそのものを分析する」という姿勢で話を進めるべきじゃないかな。
そのほうが効率的だ。
自分だけじゃなくて、他人の笑いの思考も統括的に考えるんだ。
なぜ一つのギャグで、笑う人と、大笑いする人と、全く無反応な人が出るのか。
しかし、100人中99人が笑ってしまうパーフェクトなユーモアも確かに存在する。一体なぜか。
それを詳しく分析する。そして実験として、君の言うタイトルつかみ的なフィールドを設定し、活用する。
まず仮説を作って、フィールドで検証していくんだ】
由一は冷静に戻ってそう打ち込んだ。
【なるほど。難しそうだけど面白そうね。さっそくやりましょう。
えー、まず何から始めればいいのかしら?
ユーモア理論の仮説作成? 】
すぐさま反応がある。
由一はなんだか面白くなってきて、どんどん話を前に進める事にする。
【いや、現時点でそれは不可能だろ。まずは現存する技の分析だな。
例えば、「ボケ」と「つっこみ」。
他にも命名はされては無いけど、そうだな。この際、適当に仮定しとこうか。
「チェケラッチョ」「重ね」「反復」「強調」「未知との遭遇」「冷静」「間隔」「極度」「擬態」「特徴」「ワープ」「素」「例題」「言い換え」などなど、名付けられそうなものは他にも沢山ある。
こいつらを分析して一つでも多くの事例を挙げ、全ての「笑い要素」を種類別に把握できるように分類するんだ。
で、関係を洗っていき、法則を抽出する】
しばらく間があった。
おそらく「チェケラッチョ」「反復」「擬態」などの意味を真剣な顔で考えているのだろう。
由一は適当に命名したこれらが、果たして伝わるのだろうかと思った。
この文章がどの程度伝わるかによって、今後の会話のテンポが大きく変わってくる。
とは言っても、そんなに深く考える必要は全く無いが。
呆れるほどに。
【擬態は「激似さん」とかモノマネのことでしょ?
それから反復は繰り返し。間隔、特徴、強調、言い換え、・・・それに「冷静」もなんとなく分かるけど、それ以外は分からないわ。
「極度」って何?
「重ね」は? 】
佳苗の質問に対して、由一は例を挙げて説明することにする。
まずは最低限これらを大体理解してもらう必要があるのだ。
【まず「重ね」って言うのは、同時にかぶること。
どこか静かな空間で、突然2人が全く同じタイミングでくしゃみをしたらちょっと笑えるだろ?
「極度」っていうのは「いやいやいやいやっ」って空中で往復ビンタを素振りしながら叫びたくなるようなことだ。織田信長を落とし穴にハメるとか、朝礼中に校長先生のズボンをずり下ろすとかかな。強いて言えばね。
「素」は「天然」、あるいは「不意打ち」かな。
それから「未知との遭遇」は、「完全に理解できないこと」だ。
幼稚園児に微分積分を教えているところを想像してみたまえ。頭の上にクエスチョンマークが飛んでいるのが見えるだろ?
「ワープ」は、流れを一瞬で変えることだ。これは口では説明しづらい。
強いて言うなら、会話でも態度でも何でもかんでも、一定の流れのあるものは緊急方向転換をしたら面白い場合があるってことだ。
「例題」は、主に文章中でのテクニックだな。真面目な政治経済などの話の中で、「たとえば、君の兄が下着マニアだとして、好みのパンツの種類を中心極限定理に掛けると、色とボーダーラインの相対性が極限値を求めて発散してコンパイルするから…」などといった楽しい例題を設定する。
ただそれだけのことだ。
「チェケラッチョ」は単純におちょくってるって意味だ。
大体分かった?
こんなのテキトーでいいんだよ。
僕も真剣に考えたわけじゃないし】
【なんとなく分かったわ。で、さっそく考えたんだけど、「断定」ってどうかな? 】
由一はしばらく考えた。
断定…断定…
ズバリそうでしょう…。
【残念。「断定」は「強調」の一種だね】
【あ、そっか。じゃあ、「並列」は? 】
並列?
由一は首をかしげた。
【なにそれ? 】
【たとえば、何かの隣に有り得ないものを…って、それは「極度」っていうのか。
ごめん。今のナシ】
全然面白くないノリつっこみが炸裂した。
由一は時計に目をやった。
時刻は6時55分。
あと5分で学校に行く時間となる。
これより早く出てもバス停で待たされる事になるし、これ以上遅く出ても、バス停までの残り10メートルほどを小走りで駆け抜ける事になる。
由一にとってはどちらも不快なことだった。
由一はバス停までは普通にゆっくり歩いて、そのまま歩みを止めることなく、並んでいる人たち(約12名)が歩き出すその流れに沿って、バスのドアをスムーズにくぐり抜けることに命を懸けていたからだ。
バスはいつも、等速直線運動で歩いてくる名取由一を乗せた0,5秒後にドアを閉め、由一が座席に着くと同時にブルルンと発進していた。
由一にとっては、この背もたれにもたれかかった瞬間のブルルンが毎朝の楽しみの一つだったのだ。
【今日はこれで終わりにしよう。また明日】
【分かった。じゃあね】
再び画面が砂嵐になった。
由一は今度、この不吉な締めくくり方をやめてくれるように言おうと思った。
2回やられると腹が立つ。
というか、一体どういうセンスしてるんだろうか?
本人はおそらく、『やったった』みたいな顔してるんだろうが。
由一はパソコンを閉じて上着を羽織り、学校へ向かった。