窓越しの会話
30分後。
自宅に着き、床の上にカバンを置いて制服を脱ぎ捨て、キッチンから持ち出したお菓子を片手に、由一はさっそくさっきのメモ用紙に書かれていたURLにアクセスしてみることにする。
ファイルを開けた途端にウイルスが雪崩込んできてクラッシュする可能性も少しだけ考えてみたが、ポップアップバーを外すとページは正常に開かれた。
由一はアイスココアを一口飲み、ウィンドウ内をよく観察してみる。
変わったホームページだった。
画面全体がセピア色で、ほとんど何も書かれていない。
画面のあちらこちらに汚いシミのような模様が付いていたが、意味が分からなかった。
嫌がらせだろうか?
第一印象は『ザ・不愉快』である。
しかも、いくら待っても一向に何かが起こりそうな気配がない。
由一はなんだか嫌な予感がして、今日はそろそろこのくらいにしておこうと思う。
もう十分頑張った。
額の汗を拭いながらマウスを動かして、リセットボタンを押そうとする。
そのとき突然、カタカタと音がなって、ウィンドウ上にアルファベットが打ち出された。
同時に由一は画面全体が古い羊皮紙を表現しているのだということに気が付いた。
それほど重要なポイントでもない。
【ANNG5UH1、T5K4T1? N1N2K1UT2K5NND4M2T4】
メモ帳のヒントから察するに、「暗号は解けた? 何か打ち込んでみて」と言う意味なのだろう。
解けるも何も、オランウータンじゃあるまいし、あんなもの解けない人類はありえないだろう。
由一は馬鹿馬鹿しくなって、暗号化せずにそのままの文字で返事を打つことにする。
しかしどうした事か、どうやっても「かな文字入力」は受け付けられなかった。
どうやら、使用文字が全角英数のみにプログラムされているらしい。
考えつく全ての方法で試してみても、一切変換できないのである。
嫌がらせだろうか?
「手の込んだことを…」
由一はイライラしながらそう呟き、仕方なく暗号で「最近太ったね」と打つことにする。
先ほどと同じくカシャカシャというタイプライターの音が鳴り、すぐにその下の行に返事が打ち出された。
どうやらリアルタイムでチャットが出来る仕組みになっているらしい。
由一は首をかしげた。
ファイル共有か何かの仕組みなのだろうか?
由一はプログラムに関しては全くのド素人だった。
【ここのURLの存在は私たち二人意外には誰も知りません。あなたのインターネットはもちろん繋ぎたい放題よね? 】
【そう】
由一は全身の力を限界まで抜き、そっけない返事をする。
打つと、またすぐに返事があった。
【無駄話をするつもりは無いの。あなたには何か、ユーモアのセンスがあると思ったから、こうしてわざわざプログラムを組んだの。まあ、大した手間じゃなかったけど。だから、ここで何か楽しい会話をしましょう】
「…ふーん」
由一は考える。
これは非常に面倒くさいが、もしかしたら何か有益な関係を築けるのかもしれない。
誰も知らないホームページだという事を信用するわけにはいかないが(もしかしたらクラス全員がウマイ棒を食べながらニヤニヤしながら見ているかもしれないのだ)、調子に乗って自分の致命的秘密等を公開しなければ全く問題は無い。
楽しい会話…。
ユーモアのセンスを磨くには丁度良い環境を手に入れたと考えるべきだ。
早朝にこれをやれば、頭の体操にもなる。
由一はココアを飲みながら返事を打った。
【プログラミング得意なの? 】
【うん。パパがプログラマーなの】
由一は再び考えた。この二つのセリフのやり取りに続く何か面白いセリフはないものか…。
5秒以内に思いつかなければ会話のテンポを失う。
3秒考えたが、この時点で高次元の笑いを導くことは不可能に思えた。
由一にとっての佳苗の父親とは、見たことも無い、どこぞの見知らぬ中年男性なのだ。
ハゲているのかどうかすら知らない。
メガネかどうかも知らない。
知りたくもない。永遠に。
そんな抽象的な人物について、いきなりつっこむことは出来ない。
由一は会話を続けた。
なにか二人が共通して認知できるものを引き出さなくてはならない。
【暗号まで使ってるってことは、誰にも知られたくないってことだろ? 学校では今まで通りの、ただの無関心極まりないクラスメイト関係を保つわけかい? 】
【あなたがその方がいいと思ってね。なんとなく】
よく分かってるじゃないかと由一は思った。
【まあね。でも、このチャットは一日1時間以内にしてくれないか。それ以上は出来ないよ】
【いいよ】
【それから、出来れば朝の6時からか、夜の10時からかにしてくれ】
【いいよ】
【できれば朝の6時からがいいな】
【いいよ】
やけに素直だな、と由一は思った。
本などによる一般的な情報によると、この年頃の女子は好きな男に対して以外は、ズボラでガサツで図々しいという恐ろしいイメージが強かったのだが…。
まあ、たまには例外もいるということだ。
【それに、ド○えもんのポケットみたいに何かポンポン楽しいお話が飛び出してくるみたいな幸せな期待をしているようだけど、しばらくは無理だと思うからそのつもりでいてね。このややこしい形式なら尚更。「笑い」って言うのは、お互いに認識できる何らかの一般的な状況(べつにカツラが吹っ飛ぶとか、前の席の奴の背中に応募シールが5枚くらい張り付いているとかといった、特殊な状況でなくて良い)を何気なく共有することが、まず最低限の必要条件だからね。今のところ、君と俺が共有している事といったら、あのコマイヌだけだけど、同じ事を二回以上繰り返すのは、ひつこさを強調して、それにタイミングよく突っ込む形でしか笑いを得る要素は有り得ないから。しかもそれは第三者に対してであり、一対一でやっても寂しさがこみあげるだけだ。君が頑張って一人二役するなら、まあ話は別だけど。OK? 】
由一は一気にこれだけ打ち、ココアをポッキーでかき混ぜながら、しばらくぼんやりと返信が来るのを待った。
これであのコマイヌ倶楽部の話は、もう二度と出てこないだろうな、などと考えながら。
しかしそれから数分間、佳苗からの応答は無かった。
少しイライラし始め、由一は宿題をやりながら待つことにしようと、学校の鞄からノートと筆箱を取り出した。
まず手始めに軽く数2の復習をしようと教科書のページをめくった所で、ようやくカタカタと音が鳴り、少し興奮気味の爽やかなお返事が表示され始める。
【やっぱり、あなたって天才よ。もう既にめちゃくちゃ面白いじゃない。よくこんな何も無いところから面白い文章を引き出してこれるね。すごい才能よ。どうして今まで誰とも話さなかったの? こういう風に】
由一は急いでマウスを動かして、先ほどの自分の文書をもう一度注意深く読み直してみる。しかし、何がそんなに面白いのか、全く理解できなかった。
たしかに少し皮肉った文体に仕上げたつもりではあったが、そこまで笑わせようと思って書いたものではない。
何が面白かったのだろうか?
まあ、このセリフを小学4年生くらいの生意気そうなメガネ少年が、ペンギンか何かの動物系着ぐるみをかぶって、メガネを中指で押し上げながらぺらぺらペラペラ喋り始めたとしたら少しは面白いのかもしれないが…。
由一は思った。
…ということは吉村佳苗にとって、俺はこういう身の丈以上の知識と雰囲気を持った、インテリぶったクソ生意気な天然オタク少年なのだろうか?
確かに女性のほうが男性よりも精神の成熟は早いらしいが…もしかして「かわいい」とか、そういう風に受け取られているのだろうか? まあ別にいいけど。
【そりゃどうも。でもこんな文章がパッと書けるのはいつも本を読んでるからだ。友達と遊び倒していると、こうはならないだろう。人生、そう上手くは行かないさ】
【確かに。あなたっていつも本読んでるよね。さっき思い出したけど、一年の避難訓練の時にも本を読みながら避難してて没収されてたよね】
そういえばそんな事もあったな、と由一は少し懐かしい気持ちで思い返した。
実を言うと、あれは緻密な計算に基づいた計画的な犯行だった。
優等生(中学時代は今よりももっと成績が良かった)がいつも一人でいると、回りから何かと顰蹙を買う恐れがある。
そこで、たまにこうして規則や教師に堂々とボケて逆らうことで、意外にちょっと抜けてる奴なんだ、と思わせ、皆を安心させておく必要があったのだ。
思えば、けなげな努力をしていたものだ。
由一は全く存在しないであろうありえない本の名前を即興で作り、チャットに打ち込む。
【ああ、あれね。よく憶えてるね。丁度あの時読んでた本も災害がテーマだったんだ。まあタイトルは『カリスマ火事場泥棒とカリスマ主婦によるベンジャミン・フランクリン解読』だったけど】
【よく考えれば、あなたって実はあの時から天然ぽくって、結構面白かったんだよね。そういえば、埃を吸い込んで先生の顔面にフルーツジュース吹きかけたりもしてたし・・。教室でいつも一人で難しい本読んでるから、気付くのは不可能だったけど】
【君のほうこそ、こんなプログラムを作ったり、そんな積極的な奴だったなんて知らなかったよ。爽やかなだけじゃなかったんだね。何クラブだったっけ? 生徒会?】
【いいえ。どこにも入ってないわ。勉強に忙しくて帰宅部よ】
由一は『一緒に帰ろ? 』というキャッチコピーで一人の文科系女子高生(真横から撮影。うつむき加減。微笑)が儚げに映っている帰宅部のポスターが一瞬だけ脳裏に浮かんですぐ消えた。今のは一体なんだったんだろうか?
【一日どれくらい勉強してる? 】
由一は死ぬほどどうでもいい事を質問してみた。
【私は塾に行ってるんだけど、平均すると一日6時間ね。学校を除いて。あなたは? 】
由一は普通に驚いた。
本当に一日6時間も勉強している学生がこの日本に存在するのか、と。
由一は本ばかり読んでいて、実際に学校の勉強などほとんどしていなかった。
学校の勉強とは、授業を真面目に聞き、宿題を昼休みに済ませ、予習復習をバスの中でし、後は適当に気が向いたときに単語帳を見たり、眠れない夜に教育テレビの再放送を見たり(意外と分かり易い)、そんな風に気軽に行うべきだと思っていた。
第一、あんなものはそれで十分だ。
学勉なんて退屈極まりないものに本気で付き合っていたら、それこそ本当に気が狂うだろう。
何かを学ぶとは、本当はとても楽しい行為なのだ。
だから読書は素晴らしいのだ。
由一は強くそう思い、さっそくその事をズラズラ書き連ねてやろうと、キーボードに向かった。
しかし、完成した800字程度の小論文をもう一度冷静に読み返してみて、由一は思わず冷や汗をかいた。
昨日初めて口を利いたクラスメイト吉本佳苗に対して、何故いきなりこんなマニアックな重い説教を垂れなくてはならないのか…?
由一は急いでデリートキーを連打し、改めてあたりさわりの無い文章を打ち直し、エンターキーを押した。
【宿題と予習復習を出来るだけ素早く済ませるだけだから、授業を除けば1時間くらいかな。計ったことないから分からないけど。でも、俺は6時間なんて絶対ムリだな。ロープで椅子に縛りつけられて拷問されてもムリだ】
【たしかに。勉強って、なんでこんなに疲れるのかな? 】
【まあ、興味が無い人間にとっては知的拷問以外の何モノでもないよ。好きなことなら、時間を忘れて打ち込めるだろ? 】
【でも、やらなきゃいけないもんね。脳みそに直接インストールできればいいのにね。相加相乗平均の定理とか】
【ああ。本当に素晴らしいよな。一体どうやったらX軸を中心に秒速コサインZで回転する半径3の円Pの軌跡を求めなければいけない状況に出くわすんだか。フラダンスを数学的に踊る時かな? それともシンプルに宇宙開発か? 年間、一体どれだけの人間が宇宙開発に携わるんだろうな。なぜテレビ局はこんな疑問をほったらかしにして、住宅街に迷い込んだサルの子供なんかを追い回していられるんだろうな。あれ見てたらムカつくのは僕だけなのかな? 次もどうせペンギンか何かが脱走するんだろ? 短い足をフル回転させて逃げる後ろ姿とスタジオのコメンテイターの微笑が目に浮かぶよまったく。ほんと、可愛いよな。
撃ち殺してやろうか】
【ほんと不思議よね。へロンの公式とか、どうしてもそれが必要なときだけ教えて欲しいよねー。必要なときなら記憶にも残るだろうしさあ。第一、人の名前なんて関係ないと思うのよね。アボガドロ係数だろうがアボガド係数だろうが、知ったこっちゃないよね。なんでそんなに細かく覚えて欲しいわけ? 物理だって、ややこしい公式は撤去して、まず概念だけを教えてくれればいいのに。重力加速度が9.8なんて数字で書かれても、ピンとこないしね。抽象的にもほどがあるよね。計算するときにはそりゃあ便利だけど。まあ私は全部覚えたけど】
【重力加速度とか、微分積分とか、大砲の弾道計算をするときに大いに役立ったそうだ。…大砲。ドカーン。ふーん。この先、大砲の弾道予測をする機会に恵まれる幸運な日本人が何人いるかな? でも、海の底より暗い気分になるから、この話題はそろそろ変えよう。何か最近、楽しい事なかったかい? 】
由一は話の流れを、無理やり直角に変えた。
【楽しいことね…。お小遣いが1500円アップッしたわ。この間の中間テスト、3教科100点だったから。…それくらいね。悲惨な話なら山ほどあるけど】
100点?
由一は再び少し懐かしい気持ちになった。
由一が最後に100点を取ったのは、中学一年一学期の英語の中間テストだった。
ディス イズ ア ペン.
アイ アム ジョンソン.
センキュー ベリーマッチ.
キル ユー?
【僕も悲惨な話なら沢山あるよ。例えば、去年の夏休みは3日間だけしか外出しなかった。全国高校生クイズの開会式を見たときには、ちょっと涙がでた。崩れ落ちそうになったんだ。親戚の叔母さんにはニートだと思われたし、9月1日の始業式には一度も話したことの無いクラスメイトに突然肩をたたかれて「奇跡の白さだね」って言われた】
【そう言えばあなた一人だけ、蛍光灯並みに白かったよね。今年もまた太陽の光は浴びない予定なの? 】
【たぶんね。明るい話は? 】
【私、塾へは自転車通学だったんだけど、昨日、見事に盗まれたわ。5万円もして、まだ2回くらいしか乗ってないのに。しかも今朝、親に怒られたわ。なんにも悪くない私が。しっかりしなさいって】
暗くなる一方だった。
【遠隔操作で自爆させられればいいのにな】
【あ、それいいかも。私、昨日の夜は、盗んだ奴のことばっかり考えてたわ。あなたのことも考えてたけどね。どんな顔だったのか、どんな服装だったのか、年齢はどれくらいで、趣味は何なのかって】
由一は暗黒魔界の森で、奇跡的にもランプを入手することに成功した。
この素晴らしい会話の流れから察するに、おそらく佳苗は自転車なんて盗まれてはいないのだろう。
ただこの話に上手く繋げろといっているのだ。
つまり、これはネタである可能性が極めて高いと言える。
由一は瞬時にそう判断した。
佳苗は楽しい会話をしたいと言っていたが、まさかネタフリまでしてくれとは、由一は夢にも思っていなかった。
ここまで素材がそろっているなんて、直接わき腹をくすぐるのと大差ないではないか。
【きっと、身長は150センチくらいの小男で、動きがすばしこい。色黒で、木登りと鉄棒が上手い】
由一はスラスラ打ったが、ふと、あまりピンとくるものが無いことに気が付いた。
はっきり言って、それほど面白くないような気がする…。
ツボにはまれば笑えるだろうが…
ポッキーを嘗めながら、由一は初めて、少し不安な気持ちで返事を待つことになった。
しかしそれから約2分後、佳苗からの英語の長文問題よりも長い、鬼のような返信が来るのを見て、由一はそんな心配は全く無用だったと思い知らされた。
カタカタカタカタと鳴り続けるタイプライターの擬音がうるさかったので、由一はマウスを動かしてパソコンの音量レベルを1に設定する。
【身長はもっと強調しなきゃだめよ。102センチってとこね。幼稚園の年少さん並み。で、その小男には2メートルの相棒がいるの。名前はカタカナでピエール=ハットリ。ピエールは普段は動きが遅いんだけど、ピアノで「ネコ踏んじゃった」を引くときだけは誰よりも早いわ。何故そうなのかは本人にも分からない。バカだから。短気な小男はピエールにはいつも偉そうな態度をとるの。でもピエールは素直に小男に従ってるの。そんなピエールも、一回だけ小男を窓から投げ飛ばしたことがあるわ。ピエールは見ているテレビの前を3回連続で横切られると、ぶちキレる性格なの。小男は飛びながら思ったわ。先に言えよって。で、その2日後に私の自転車を盗んでくれたの。チェーンロックをボルトクリッパーでちょん切るなんて、ほんと最高よね。二人はとてもいいコンビよ。折りたたみの地図を全開にして、道に迷って立ち尽くしているアホ満点を演じるピエール(本当は演じるまでも無いけどね)の影で、小男はテキパキと動き回るの。犯行時間は5秒足らずね】
もしかして佳苗は本当に自転車を盗まれているんじゃないか、と由一は密かにそう思った。
そうとう頭にきていないと、こんな文章はパッと書けないだろう。怨念のようなものを感じるのだ。この文字列からは。
由一は慰みの文章を打つことにした。
しかしその時…
【ごめん。エミから電話かかってきちゃった。今から軽く1時間は付き合わされるわ。また明日。ちなみに今日の君との会話で、私たぶん400キロカロリーは消費したと思うわ。笑いすぎて。じゃあ次は明日の朝6時。 起きれたらだけど。じゃあね】
最後にカシャカシャと音が鳴り、to be continued という文字が右下に流れ、しばらくして画面が砂嵐になった。
嫌がらせだろうか?
「…テンション高いよ」
由一はそう呟いて、少し呆れながらザーザー鳴っているパソコンの電源を落とした。