お月さまになったお父さん
命日は悲しい日というけれど、私のお父さんの命日は、私にとって永遠の歴史書に刻み込みたいほど、特別な日だ。
窓越しからしんしんと降り落ちる粉雪に背を向けて、二月十五日の日めくりカレンダーの数字をゆっくりとなぞった。ふと、やりどころの失ったかじかんだ指先が、ストン、と棚の上の写真の縁に添えられる。
歯の欠けた口で笑う幼い私と、私と同じアヒルの形をした唇を開いて破顔するお父さん。
確か、乳歯が抜けた恥ずかしさのあまり頑なに口を開こうとしなかった私に、お父さんが芸人顔負けの変顔を連発してくるものだから、思わずどっと吹き出してお母さんに狙われてしまった不本意なシャッターチャンス。だけど、お父さんに似た笑い方ね、とお母さんに言われてから、いつの日か黒歴史から私の秘蔵の宝物となった。
「お父さん。今日はお月さま、綺麗に見えるかな」
見えるに決まってんだろ。
写真のお父さんのアヒル形の口から、笑いと共に囁かれたような気がした。
今夜も夜空を見上げよう。
それがお父さんとの、お父さんが死んだ日の、約束だ。
朝起きたら、世界が変わっていた。月並みのような表現しか当時六歳だった私には浮かばなかったけど、確かにその鮮烈な光景を前にして、私は呆然と胸の中にそう呟くしかできなかった。
離れた地方に住むおじいちゃんとおばあちゃんが何の連絡もなしに我が家に来ていて、お母さんも、叔父さんも、叔母さんも、みんな、黒い服を身に纏っている。やっぱり服は赤が好き、黒なんて着たくないわって、お母さん、あんなに言ってたのに。
あれ、と異変に気付いてしまって、私は口に出したのだ。
「お父さん、どこ?」
それが残酷な言葉だとも理解できない私は、つい凍てつくような無表情のお母さんに問いかけた。
刹那、氷が溶けた。
お母さんのブラウンの丸い瞳から、蛇口を捻ったみたいに大量のしずくが零れて、雨になって、嵐になって、お母さんは子供みたいに泣きじゃくった。
その瞬間、子供ながら悟った。
スーパーマンみたいにたくましかったお父さんが、たった一夜でお空にさらわれてしまったのだと。
くも膜下出血。誰もが予想しなかった、急死だったという。
その後の記憶も、鮮明だった。
葬式場に着くや今、家では泣きじゃくっていたお母さんも、目を真っ赤に腫らして震える指先をこっそり包み込みながらも、親戚や友人たちに慎ましやかに挨拶をしていた。私もお母さんのところへ寄り添おうとしたが、ここで座ってなさい、と促され、とこぢんまりとしたベンチに一人軽く腰をかけていた。
いつもにこやかなおじいちゃんとおばあちゃんが弱々しくすすり泣いているのを、叔父さんと叔母さんが涙ぐみながら肩に手を添えている。
まだお若いのにお可哀想に。
娘さんも小さいから分からないでしょうね。
周囲からの囁き声に、思わずムスッと不貞腐れた。
分かるもん。知ってるもん。
お父さんは病気のせいで、お空に飛んでっちゃったんだ。
いじわるな神様に、さらわれちゃったんだ。
でも、みんなこそ知らない。
お父さんはスーパーマンなんだ。そう言ってたんだもん。
だから、きっと、きっと、きっと、きっと、
ぐちゃぐちゃな顔の私の涙を拭いに、戻ってきてくれる。
いじわるな神様をやっつけて、お空もこえて、ただいまって、大きな声で、帰ってくるんだ。
ねえ、そうでしょ、お父さん。
本当はね、怖いよ。寒いよ。痛いよ。苦しいよ。
私が辛い時は、真っ先に助けてやるって、言ってくれたよね。嘘ついたら、針千本のますって指切りしたよね。ねえお父さん、どうしてあんな箱の中で横になってるの。力の強いお父さんなら、拳一つで突き破ってみせるでしょ。
ねえお父さん、早く起きて。
みんなの涙を、止めに来てよ。
何度も何度も祈っても、箱は動かなかった。
箱は、動かなかった。
最後のお別れよ。
お母さんのそんな潤み声も、ぼうっ、と夜の闇に霧がかかるみたいに、頭の奥底へ沈んでしまった。
箱の中で仰向けになるお父さんは、蝋燭みたいに真っ白な顔で眠っている。いつもはほっぺたが赤味がかっていて、お風呂上がりにお父さんまっかかー、とからかっては頭をクシャクシャに撫でられたのに。
菊のお花を添えましょう、そう周囲の大人に促され、有無も言う前に白い菊を小さな手に握らされてしまった。
なんで、と私は胸に呟いた。
なんで、こんな寂しいお花なの。
お父さんの好きなお花は、真っ赤なバラなのに。
お母さんにプロポーズした時に、百本のバラをプレゼントしたって、そんなドラマみたいな実話が話題に出るたびに照れくさそうに、でも熱のこもった眼差しではにかんでいたのに。
どうしてバラをあげちゃいけないの。
どうしてお父さんを箱から出しちゃいけないの。
どうしてみんな泣いてばかりで、スーパーマンを信じないの。
もやもやと浮かぶ疑問の言葉が口に出そうになったけれど、お母さんが私の肩に添えた手があまりに冷たく震えているものだから、何だか私が悪いことをした気分になったのだ。しぶしぶ出かかった言葉を喉奥に押しやって、ちくちく痛むけど飲み込んで、私はぎこちない動きでお父さんの顔の横に菊を添えた。
素直にありがとうって言える子が好きだぞ、なんて言ってたくせに。
お父さん、どうしてずっと黙ってるの。
寂しいお花は、嫌だった?
真っ赤なバラをあげたら、お父さんはまた頬を染めて笑ってくれるかな?
悶々としている私は、気付いたらお母さんとリンクしたみたいに、体が震えていたのだ。
唇をきゅうっと噛み締める。そうじゃないと、悲しい感情の渦が巻いて口から泣き叫んでしまいそうだったのだ。
泣いちゃだめ、泣いちゃだめ、呪文のように心に唱えて、ちくちく刺さるような胸の痛みに知らないふりをした。
嫌な汗をワンピースの裾にすり付けて、見ないふりをした。
お父さん、スーパーマンでしょう。
ねえ、早く悪を倒して帰ってきてよ。
そんな悲痛な祈りも虚しく、お父さんの箱に、長い蓋がかざされた。
お父さんが真っ白い顔のまま、眠ってばかりのスーパーマンのまま、その寝顔に影がかかる。
お父さんが──見えなくなる!!
「いやだぁっ!!」
噛み締めた唇を解くと、私の口からガラスを割るような金切り声が飛び出た。
「返してえっ!! お父さんを返してぇっ!!」
叫びと同時に眼底がじわりと熱くなって、大粒の涙が溢れ出た。
「おどうざぁんっ!! おどうざぁぁんっ!! いがないでぇっ!! うぁぁぁぁぁぁ〜!!」
駄々っ子みたいに泣きじゃくりながら、手足をもがいてあがいて、遠ざかる箱の方へ手を伸ばしそうとするが、お母さんに取り押さえられてしまった。
されどもお母さんの腕を振り払い駆け出そうと足を踏み出すが、今度は叔父さんに抱き上げられる。宙に手足が浮きながらも、あがいて、あがいて、あがきまくって、空を殴りまくって、私は獣みたいに癇癪を上げて泣き叫んだ。
泣きながら、また、残酷なことを悟ってしまった。
スーパーマンなんて、いないんだ。
お空にさらわれたら、帰ってこれないんだ。
お父さんのばか、嘘つき。
さらさらとした冷風に額をくすぐられ、私は瞳を開けた。
視界一面に広がる、深緑色の森。
甘く冷えた空気を吸い込み、短い草むらの上を裸足で歩いた。
天を仰ぐと、黒い夜の色に金の星の光が散らばっていて、思わず綺麗だな、と呟いた。
夜空を眺めながら視界を一周すると、私は目を見開いて、視線を一点に止めた。
ぼんやりとした雲がゆっくりと晴れ渡った先に────お父さんが、浮かんでいる。
まん丸い顔のお父さんが、囲まれた星よりもずっと大きいお父さんが、夜空に浮かんで微笑んでいる。
刹那、私は駆けた。
まん丸のお父さんに目がけて、夜の森を裸足で駆けた。
冷たい風に頬を打たれながらも、足がよろめいて転びそうになっても、無我夢中に駆けた。
お父さんがいる! お父さんに会える!
それだけの思考に染まって、友達との鬼ごっこの時よりも、運動会のかけっこの時よりも、ずっとずっと速い足取りで駆けたのだ。
だけど、いくら走っても、一緒についてくるようで、お父さんは遠くに浮かんでるだけ。
相変わらず笑いながら浮かんでるお父さんを見上げて、駆け足を少し止めて、ゆっくりと歩き出した。するとお父さんの動きも緩やかになって、まるで歩幅を合わせているようだった。
森の中を一周して、ふと、何かに類似したように思えた。
お月さまだ。お父さんは、お月さまになったんだ。
「お父さん、お月さまになっちゃうの?」
空を向いて問いかけると、お父さんはにかーっ、と歯を見せて笑って、
『そうだ、里帆。お父さん、お月さまになるんだぞ』
その得意げな笑みが、声が、あまりにお父さんらしかったから、さまよう暗闇の中でやっと光を見つけたような、そんな高揚感が湧き上がった。
「もうお父さんには会えないの?」
『ごめんな。昔みたいには会えないよ』
むぐ、と下唇をかじった。
『でもな』
と、お父さんは天高いところで言葉を紡いだ。
『日が暮れて、暗くなって、夜になったら、お父さんはお月さまになって、お前を見に行くよ』
優しい声で、紡いだ。
『辛い夜になった時は、夜空を見上げて、お父さんを探してくれ。例え探してくれなくたって、お父さんはずっとずっと見守ってるぞ! 里帆に忘れられたって、お父さんは里帆を照らしてやるからな!』
溌剌な声で、紡いだ。
私は目から涙の雨を降らしながら、そんな眩しいお父さんを見つめ続けた。
「忘れないよ」
みっともない涙声で叫んだ。
「絶対に忘れないよ。探してあげるよ。一番星より先に、お父さんを見つけるよ。ねえ、約束だよ。お父さん、お月さまのまんまでいてね。見えないところにいかないでね。ねえお父さん、約束だよっ」
ああ、とお父さんは夜空の中でゆっくりと頷いた。
そんなお父さんの溶けてしまいそうな笑顔から、流れ星が降るようなキラキラとした煌めきが瞬いた。
金色の光に包まれて、お父さんは幸せそうだ。
眩しくて眩しくて、思わず瞳を閉じた。
いかないで。会いたいよ。もっともっと、会いたいよ。あの笑顔が見たいよ。あの声が聞きたいよ。手を伸ばしてだっこしてほしいよ。高く高くおんぶしてほしいよ。眠る前にキスをしてほしいよ。
だけど────さよならしなくちゃ。
お父さんは、お月さまになったんだから。
スーパーマンから、お月さまに昇格したんだから。
私以外のたくさんの人たちも、照らしてあげなくちゃいけないんだから。
だからお父さん、さようなら。
まん丸のお父さん、さようなら。
また夜空の中で、一番に私を見つけてね。
今度こそ、約束なんだから。
「──里帆、里帆」
何度も耳元に囁かれる声に、私は目を覚ました。
温かい人肌に包まれているかと思ったら、お母さんの膝の上で抱きしめられていた。
ガタンゴトンと電車に揺られている。
どうやら、お葬式は終わったらしい。
私は泣き疲れて、いつのまにか眠ってしまったようだ。
「里帆、お母さんがいるからね。これからお母さんと、頑張ろうね」
お母さんの声は相変わらず潤み声だけれど、どこか芯の強さを感じさせた。
私はうん、と頷いて、ありがとう、と微笑を漏らした。
するとお母さんは、細い眉を下げて少し苦笑を浮かべていた。
「里帆。辛かったら、泣いていいのよ。我慢しなくていいのよ」
お母さんの優しさは、胸に沁みるほど温かくて、いつも乗る電車なのに、もう三人じゃないんだ。そんな現実も重なって、また目の縁から涙が溢れてきそうになったけど、ゴシゴシと袖で顔を拭って、大丈夫、と首を横に振った。
電車の窓から見える、まん丸いお父さんが、見てるから。もう泣いてばかりじゃ恥ずかしいよ。
見ててね、お父さん。
お母さんと一緒に、頑張るから。
だって私は、お月さまの子になるんだよ。
スーパーマンよりも、もっともっとすごい、誇らしい、私は、とっても強い子なんだよ。
そんなことを胸中に呟いているうちに、またうとうととまどろみに包まれて、私はお母さんの胸に抱きつくように寄り添った。そんな私の上から、お母さんのくすりとした笑い声が降ってきた。
命日は悲しい日というけれど、私のお父さんの命日は、新しい希望を見つけた特別な日でもあったのだ。
あれから十四年、私は教育大学に入学して、キャンパスの近くの寮に住んでいる。
この頃はバイトやらレポートやらで忙しくて、お母さんと会うのは一ヶ月ぶりだ。
「もう、あんな高級なお花買ったのなら言ってよぉ、お母さんだけホームセンターの安いもの買って恥ずかしいじゃないっ」
お墓参りの帰り道に、お母さんがこの上ない困り顔で言うものだから、私は吹き出してしまった。
「いいじゃん、要は気持ちが大事なんだから。それにお父さんもお母さんのケチなところ分かってるでしょ」
「もうっ! 里帆っ!」
軽い叱咤が飛んで、いたずらっ子みたいにくすくすと笑った。
すっかり外は暗くなって、足元には少し深い雪が積もっている。お墓参りに行ったのは朝だったが、久しぶりに会えたお母さんがはしゃいだあまり洋食屋さんでお昼を食べたあとに、ちょっとオシャレな喫茶店まで入って優雅なティータイムを過ごした。
いつからだろう、命日にも笑って過ごせるようになったのは。考えても分からないから、私はただ夜空を見上げた。
今夜は綺麗な満月だ。あの日に見た、まん丸の形と同じ。
ねえお父さん、私は元気だよ。お母さんは元気すぎるくらい。
悲しい時もあったよ。苦しい時もあったよ。
でも、毎晩夜空を見上げていたから。
欠けていくお父さんも、半分になったお父さんも、今日みたいなまん丸のお父さんも、全部が、光だったから。
明日も、明後日も、明明後日も、ずっと、ずっと、夜空を見上げるよ。
ねえお父さん、いつも私を照らしてくれて、ありがとう。
あなたはいつまでも消えることのない、私の希望の光。
お読みいただきありがとうございます。
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