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ダーナはそこまで話すと温くなった紅茶に口をつけた。喉はカラカラであったのに心地よい香りが鼻を抜けると気持ちが幾分落ち着く。
「貴女はローランドに騙されたのね。
友達二人と貴女は自分の事を調べ上げてそれが分かった」
「はい。ローランドは恐らくティナと元々結婚したかったのだと思います。
だけど借金が凄かったからヒルズ伯爵が許してくれなかった。
そこで我が家の顧客リストです。
ティナの実家が急に顧客を沢山得たのでおかしいと思って調べたら、モンカードからの顧客が大半でした。
リストを使って外商に出たのでしょう。
メイフラワー伯爵はローランドにリストを盗ませ、受け取ったからヒルズ伯爵に資金を融資したに違いありません。彼らはお金の問題が解決したのでこの度婚約に至ったという訳です」
ダーナは悔しそうに膝の上に置いた手を強く握りしめた。そうなのだ。二人は今週婚約式を派手に挙げたばかりで有る。
本来ならば婚約を解消したばかりの人間が一月も経たないうちに再度婚約するなど非常識にも程がある。
しかしティナ・メイフラワーは皆に言って回った。
『傷心のローランドを慰めていたら結婚を申し込まれたの。モンカード家から金で婚約をしてくれと言われたときはとても辛かった。だけど君が僕を救い出してくれた。ってね』
とんでも無い虚偽で有る。
しかし、派手なグループの女生徒達は大袈裟に騒ぎ立てた。
『大人しい顔をして遊び歩いていた女より、真実の愛が優ったのね』
フェリシアはこれを聞くと、怒髪天を衝くといった具合に怒り狂いニコラスはローランドに決闘を申し込もうとした。
『ガリガリのニコラス兄様じゃ返り討ちよ!』
ダーナは何とか宥めたが二人の思いが涙が出るほど嬉しかった。
しかし、そんなダーナにさらなる悲劇が襲う。
微熱が続いたり、吐き気があったりと精神的に追い込まれたからずっと体調が悪いのだと思っていた。
「そして……………私はこの前妊娠が判りました。父親はローランドです。
だけど彼は子供を認知することは無いでしょうし、私は両親に言い出せずにいます。勿論親友二人にも。
無力な私に出来ることは、子供を堕して裕福な男の元に嫁ぐことくらい。美人とは言えませんが派手な噂の出回った私です。後妻に貰いたいという奇特なお金持ちの男性が数人いらっしゃいます。でも身籠っていては嫁げません」
ハンカチは既に涙で重たくなっているが、目から溢れるものは止まらない。
「お願い致します。私に薬を売ってください。もう両親にこれ以上迷惑をかけるわけにはいかないのです」
ダーナは再び頭を下げた。
「そう。話はわかったわ。沢山話してくれてありがとう。
ところで、モンカードで有名なサファイアはどこから手に入れているの?」
そう言うと女生徒は仮面を顔から外した。
「あ!!!貴女は!!
あ、あの、すす、すみませんっ」ダーナは驚きで思わず吃る。
だが、その顔を見て深呼吸すると再び話し始めた。
「マカラ山脈側に、実は親戚の地質学者が居ます。
あそこは量は採れないのですが、大粒で良質なサファイアがあるんです。
採掘権利を学者の家族が持っている為、他の人から知られてないんです。我が家はそれを買い取り続けて今の販路を獲得しました。
宝石が採れる採掘場所は大抵宝石業者がその採掘権を握っていますから」
ダーナはその女生徒の顔を見ながら【喋ってはいけないこと】をポロポロと話した。
家業の絶対に明かしてはいけないその話を、彼女なら【守ってくれる】そう何故か確信したのだ。
マンダリンガーネットの瞳が嬉しそうに細められる。
「貴女の話はとても興味深かったわ。
分かりました。悪いようにはしないわ。
そして、そのお金持ちの方に嫁ぐとかいう話。もう少し待ちなさい。私に良い心当たりが有るのです。
ダーナは卒業後は本当はどんな道を進みたかったの?」
淡い赤髪が真っ白な頬に掛かるのを鬱陶しそうにかき分けながら女生徒は煙草に火をつけた。
その慣れた仕草にダーナは吃驚したが自分の思いを打ち明ける。
「…………。もし、もし……ローランドと婚約の話が出ていなければ隣のラビリア王国でピアノを更に学びたいと思っていました。女性でも学べる音楽学校が彼方には有るので。
もう、こんな体じゃその夢も断たれましたけど…」そっと未だ目立たない腹を撫でながらダーナは俯きながら夢を語る。
巻き戻りたい。
婚約前に……
そう何度思ったことか。
ニコラスも行くはずのラビリア王国で音楽を学び宮廷楽師や、ピアノの家庭教師を目指すのも良いかと思っていたあの頃。
実家の家業が自分の所為で傾き始めている今、金持ちの男に嫁いで貢いでもらうしか道は無い。
母や父を助けられる唯一の手段は自分の若さを売ることだと分かっている。
「そう。貴女は歌も上手だったけれど、ピアノも上手だったのね」煙草を深く吸い込むと赤毛の女生徒はニマリと笑い『それは益々都合がいい』と小さな声で呟いた。
「いい。助けてあげるわ。だけどそれは貴女の思った形では無いかもしれない、でも悪いようにはしないわ。悪阻はどう?」
マンダリンガーネットの瞳がダーナを射すくめる。
「今のところ飴を口に含んでいると吐き気はありません。多分悪阻が軽い方なのだと思います。
お腹も今は目立っていませんし今のうちに全てを終わらせないと………」
そう言いかけると女生徒はハッとなったようにダーナに声を上げた。
「あ!ごめんなさい!大事な体なのに私ったらタバコ吸っちゃって!!本当ウッカリしてた!!」
そう言うとパッと立ち上がり窓を思いっきり大きく開けた。
理科の研究科棟の最上階。
人はもちろん居らず陽は沈みかけていた。
「今日のことは誰にも話さないで。私がここにいる事もね。でも、貴女が本気で人生を投げ出しても良いから助けたいと思う人間には二人までこの場所を教えていいわ。この部屋に私を呼びたいときは紳士物のハンカチをテーラー『オコス』で買うこと。買ったハンカチにMのイニシャルを入れてもらう事を忘れないで。そのハンカチのラッピングを取りに行くときに日にちと時間を教えてもらうのだと伝えなさい。
今日はこの研究棟で会ったけれど、場所が変わる時もあるわ。
ダーナ・モンカード。全ての指示はフェリシアを通すから貴女とお喋りするのは今日ここでが最初で最後かもしれないわね。聞いておきたいことはある?」
「あの…貴女は見返りは何も要らないのですか?私が薬をタダで貰うのは………」
「あぁ、この事は私は誰にも言わないわ。この秘密は一生共有しましょう。
でも貴女が気が咎めると言うならば貴女のお父様の自慢のサファイアを原価で一度だけ売って頂戴。
その時持っている、一番高品質で一番大きな物をね」
「そんなことで宜しいのですか?いえ、我が家にはその力がその時残っているかは分かりませんが勿論ミランダ様のご希望通りにっ!
………すみません。お名前をつい呼んでしまって…………」ダーナは泡くって謝罪する。
目の前の女生徒。
それはこの学園で王太子殿下や第二王女殿下に次いで有名な女生徒である。
名前はミランダ・ポルトゥナート伯爵令嬢。
マンダリンガーネットの煌めくような瞳は王家の人間が引き継ぐ魅惑の色。そして淡い赤髪。
王弟バイデロン公爵家の当主しか持たないその淡い赤髪はどこに行っても当主一人しか持っていない珍しい色だ。
だが、この女生徒はその色彩をそのまま受け継いでいる。
それ即ち王弟殿下の落とし胤という事である。
どのような経緯があったのか下々の貴族である自分達は知らないが、彼女が王弟の色彩で生まれたのにも関わらずポルトゥナート伯爵家の娘として育てられているのなら其れを追求することは叶わない。
一番有名な女生徒は先程までの硬質な笑みではなく人好きするような明るい笑顔をダーナに見せた。
「人生これからなのだから、そんなつまらない男で転んだ傷を一生舐めてても仕方ないわ。結婚が人生の全てじゃないって私は思うの。だからフェリシアからの指示を楽しみに待っててね」
ダーナは薄暗い部屋で鬘を被り直すと研究棟を後にした。
行きは緊張で吐き気もピークであったのにも関わらず、何故かミランダの言葉が心を熱くする。
(つまんない男のせいで一生を棒に振って堪るものですか!)
彼女の強い言葉がダーナの意識を変えた。
『楽しみに待ってて』とはどう言う意味なのか?首を傾げながらもダーナはその日久しぶりに寝台でぐっすりと眠りについた。
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10日後。
モンカード男爵の経営する宝飾店はサファイアを求める貴族達でごった返していた。
通常では貴族向けの個室サロンで対応するのだが、それだけでは追いつかず夫人まで駆り出されている。
「頼む!!大ぶりでなくてもいいから品の良い指輪を見せてくれ!」
「こっちが先だ!ブレスレットを注文したい。良いか?絶対にいつものクオリティーで作ってくれ!」
モンカード男爵も夫人も訳がわからない。
しかし、従業員達が総動員で接客に当たるも人の波が途切れない。
ダーナは勿論、夫人も駆り出され老若男女への接客に追われる。
一体何が起こっているの???
ダーナは動揺を隠せないまま久しぶりに来店してくれた同級生の母親を接客する。
「ケイト夫人ご来店有難うございます。
今日は何をお求めでしょうか?」
「まぁ、ダーナちゃんお久しぶりね。
元気そうでよかったわ。お願い!ドルッセンと同じクラスのよしみよ。サファイアがついた気の利いた商品を見せて頂戴」
「勿論です。ですが一体如何して皆様サファイアをお求めにいらっしゃったのですか?
今日はそのオーダーばかりで…………製品化したものは実は残りが少なくなって来ておりますの。ルースの状態でしたら良いものがご紹介出来ますよ?」
そう言うとケイト夫人はパッと笑顔を見せた。
「やっぱり無理してでもこちらに来てよかったわ。ダーナちゃんは『誕生石』ってご存知?」
「はい。
ラビリア王国では生まれた月によってその人に贈る宝石が有るのです。我が国ではあまり馴染みのない習慣ですが、宝石の意味も含めてその人柄を応援するプレゼントの仕方はとても素晴らしい習慣だと思います。
それが何か?」
ダーナは父親からその昔ダイアモンドのピアスを贈られている。
モンカード男爵の知識によれば4月の誕生石だそうだ。
「フフフ。実はねラビリア王国の王太后がこの度夜会に参加されたのだけどそれは見事なサファイアのネックレスを着けられていたの。だけどその王太后様がバイデロン公爵夫人のサファイアの指輪を見て是非ネックレスと取り替えてほしい!と騒いでちょっとした事件になったのよ」
ケイト夫人は少しだけ声を潜めてニコニコと笑う。
「一粒指輪と沢山のサファイアがついたネックレスよ?当然直ぐに王太后の仰る通りに従うと思われたのだけどバイデロン公爵夫人は其れを辞退したのよ。『こちらはモンカード店の一点もので値段がすでに付けられない物なのです。申し訳ありません』ってね!
そこからは更に大騒ぎ。自分の誕生石のサファイアを王太后は何が何でも手に入れたいと躍起になって。最後は王宮で深夜まで交渉が続いたそうよ」
「まあ!そんな出来事が!?」
「流石モンカード宝飾店よね。バイデロン公爵夫人がお金を積まれても手放さない逸品を提供するなんて。そしてもうすぐ9月。誕生日をお祝いするならこの逸話を聞いて必ず、サファイアをこちらのお店に求めに来るはずだわ。我が家は第三王女の九月の誕生会には呼ばれていないけれど、兄の家は招待されているの。それで実家の為に今日はここに買いに来たと言うわけ。ダーナちゃん今月は目も回るくらい忙しくなるわよ?」
バイデロン公爵家に持参した指輪は覚えている。
『深海deep sea』と名付けられたその大粒でクオリティの高い石は大粒のまま生かせないかと試行錯誤して研磨デザインしたモンカード家の自信作。今のところ同等の物は採掘されていない程の石で有る。
男爵はこれ程の石は今後出ないかもしれないと販売先をかなり考え込んでいたが最終的には公爵家三家を回りバイデロン公に買い上げて貰ったのだ。
『9月の誕生石がサファイア………そんなことすっかり忘れていたわ。これを切っ掛けに我が家にお客様が戻ってきてくださると良いのだけれど………』笑顔を貼り付けながら頭の中は目まぐるしく九月の戦略を組み立てる。今頃父や母も同じことを考えているだろうことは分かっているが。
結局ケイト夫人は予算内で確り素敵なネックレスをオーダーし満足気に帰っていった。
勿論、顧客名簿を新たに作り直して。
こうして『サファイアと言えばモンカード宝飾店』という信用を確り利用して再び商売は運気を取り戻す。
誕生月に宝石を贈り物とする習慣もその後モンカードは利用して販売戦略を練り、新たな顧客の獲得に勤しんだ。
そして最終的には一年余で以前と変わらないリストを手にするのであった。
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ダーナは実家の手伝いの為授業は午前中で切り上げ午後は家業のために早退する毎日を繰り返していた。
「フェリシア、御免なさい。今月だけは如何してもカフェに行く時間が作れそうにないわ」
ダーナが頭を下げるとフェリシアは嬉しそうに首を振る。
「良いのよ。実家の宝飾店が思いっきり繁盛するなんて素晴らしいことよ!モンカード男爵も夫人もこの前の夜会では沢山の人に囲まれて大変だったとお聞きしたわ」
「そうなの。バイデロン公爵夫人のお陰で我が家は大騒ぎ。それに……」
ダーナが後ろを振り返ると幾人かの生徒がダーナに話しかけたそうにモジモジとしているのが見える。
「あの子達この前まで貴女の悪口を言ってた子よ?それでもサファイア売ってあげるの?」フェリシアは呆れたように彼らを睨みつける。
すると生徒達は気不味そうにサッと目を逸らすが立ち去ることはしないらしい。
「良いのよ。だってお金になるんだもの。でも値引きはしてあげないかな?」
ダーナは以前より強かになった笑顔をフェリシアに見せる。
フェリシアはそんなダーナを見て少しだけ胸を撫で下ろす。
「でも私との時間もとって欲しいの。今週末家に泊まりに行っても良いかしら?」
フェリシアは気を遣いながらもダーナとの時間を確保したいと瞳に訴えた。
「勿論。夜は空いてるもの、私も嬉しいわ」
ダーナの笑みにフェリシアは嬉しそうに微笑んだ。
「約束ね!その日じゃないと私も時間が取れないから」
そして二人は教室の前で別れた。
ダーナが教室に入ると先ほどから様子を窺っていたゴールドスタイン伯爵家のスミスが苦笑いをしながら近寄ってきた。
「ごめんね。ちょっと良いかな?言わなくてもわかってるって感じだろうけどサファイアを売って欲しいんだ」
彼はこの前までローランドと一緒にダーナの悪口を言っていたグループの一人だ。
『清楚に見えて遊んでる女なんて最高じゃん。俺も誘って良いってことかな?』そう言ってダーナを揶揄ったのは一月前。
婚約を解消したばかりで心が弱っており、あの時は恐ろしくて思わず涙を零してしまった。
スミスはその様子に慌ててハンカチを差し出し
『まさか泣くなんて思わなかった』と焦っていた。
不良ぶってはいるが女が泣くくらいで慌てるような人間だ。ダーナは話だけは聞いてあげるわ、と返事をした。
学園ではティナとローランドが流した噂を信じる一派と、そんな馬鹿げた話ある訳ないと真っ向から否定する生徒達でキッパリと分かれている。
『ダーナは清楚に見えて裏では淫らで遊んでいる』とローランド達は噂を流したが、普段遊んでいる不良と呼ばれた貴族のグループの数人は首を傾げた。
『ダーナなんて夜会や遊技場で一度も見たことないけど?』と。
それにピアノ教室の生徒達が証言したのだ。
『ダーナ様にそんな時間は無かったのでは?彼女はレッスン時間が人の2倍で音楽室からいつもピアノの音が響いていましたよ?』
違う生徒が弾いていたんじゃないか?とローランドが反論すると彼女は真面目な顔でそれを否定した。
「貴方は音楽の知識は蟻ほども持ち合わせていないのね?あの難曲を学生で弾けるのはダーナ様お一人だけよ?貴女の婚約者であるティナ様なんて一生掛かっても無理だわ」
侯爵家の次女で同じ師を仰ぐだけの関係かと思っていた彼女が思わぬところでダーナを援護したのだ。
ローランドは悔しさで真っ赤な顔のまま彼女の前を立ち去ったと言う。
ダーナが侯爵令嬢にお礼を言うと
『正しいと思ったことを口にしないで目を瞑っていると、その後一生その棘が心から抜けないのよ。私はダーナ様のピアノの才能を好きだから』と頬を上気させて微笑んだ。
婚約解消後は『もう死ぬしかないかも…』とまで落ち込んだダーナであったが学園でのこのような一つ一つの出来事に最近はとても勇気を貰う。
以前から彼らは手を差し伸べてくれていたのかもしれないが、気がついていなかったのだろう。
父の仕事が再び芽吹き始めると僅かだが余裕が生まれ笑顔も取り戻せた。
しかしこの慌ただしい毎日の中でもお腹の赤ちゃんは少しずつ成長している。
始めはローランドの子供を孕ってしまったことに死にたくなる程辛いと思っていたダーナだが、最近は少しだけふっくらした腹の感触が愛おしいと思ってしまう時がある。
『どうしよう……学園を諦めてこの子供を産む未来もあるのかしら……』
週末にフェリシアが訪れたら子供のことを告白し、相談しようとダーナはため息を吐いた。