兄ちゃん
兄ちゃんが、三日前に消えた。
バスケットボールが得意で、勉強もできて、まさに文武両道の模範のような存在だった。短く切った髪はさらさらで、風が吹けばゆらりと波のように揺らめく。アーモンド型の瞳の輝きは常に絶えず、いつも楽しそうな笑みを浮かべていた。自慢の、兄だった。
何で兄ちゃんは、突然消えてしまったのだろう。母さんにも、父さんにも、弟である俺にも言わずにどこかへ行ってしまった。家出をするようなそぶりなんてなかったし、兄ちゃんの部屋からなくなっていた物は財布とスマートフォンだけだった。
「警察に、連絡した方が良いのかしら。三日も帰ってこないなんて…」
疲れたような声で、リビングルームにいる母さんが父さんと話している声が聞こえた。
話し合ってる時間があるなら、さっさと電話してしまえば良いのにと、俺はため息をついた。兄ちゃんがいなくなるなんて、今まで一度もなかったのだから。
「電話には出ないのか?メールとか、友達の家にも連絡してみたらどうだ」
「もうしたわよ、そんなの。でも、誰もあの子から連絡はもらっていないって」
見ていて、とても不毛だった。
心配しているのだろうけど、動かなければただの傍観者じゃないか。こんな会話を繰り返して、もう何度目になるのだろう。
見ているのもばかばかしくなって、俺は自分の部屋に戻った。
突如として、スマートフォンの、バイブ音が聞こえた。
「兄ちゃん…?」
俺は慌てて机の上に置いてあったスマートフォンに飛びついた。兄ちゃんから、一件のボイスメッセージが入っていた。2分ほどの短いメッセージだった。
すぐにスマートフォンのロックを解除し、ボイスメッセージの内容を確かめた。
〈…ヒカル。急に出て行ったりしてごめんな。心配、してるかな…〉
兄ちゃんの、声だ…!
〈コレが届く頃には、俺が家を出て…どれぐらいたつんだろう。三日後か?まあ、それぐらいかな。直接、電話してやれなくて、本当にごめん〉
残り、1分20秒。スピーカーのボタンを押して、表示された画面に映し出された。
〈お前にコレを送った理由は、えっと、まあ…謝るためでもあるんだけど、それ以外にも、お前の誤解を解いておき、たく、て…〉
兄ちゃんの声が、震えている。
〈俺な…バスケ、そんなにうまくないんだよ。べ、勉強だって、そんなに出来る訳じゃないんだ。両方とも、頑張ろうって思ってたんだけど、な…もう、限界みたいなんだ。好きで始めたバスケも、大会とか、出るようになって練習も厳しくなって、友達とプレーできるのは楽しかったけど、周りの期待がだんだん大きくなるのが、すごくプレッシャーで。そのうち、バスケしててもミスばかり目立ってきて、先輩とか先生に怒られて…。本当に、好きだったのになあ…〉
言葉を止めて、兄ちゃんは少し黙り込んだ。残り50秒。
〈好きなものを、嫌いになる瞬間って、すごく…痛いよ〉
痛い。そういった兄ちゃんの言葉に、悲しみがこもっていた。
〈心の底から嫌いかどうかなんてわからないけど、もう、なんか…燃え尽き症候群、みたいな。はは、馬鹿だなあ、俺。どうしようもない小心者だ。バスケのことで、勉強も身に入らなくなって、もう、何もかも終わり、みたいな、アホみたいななこと考えちまったんだよなあ。今が全てじゃないって、わかってるはずなのに…。ああ、悪い。全然まとまりのない話になっちまって。お前には、知っていてほしかったんだ。俺が家族の前で見せていた姿は幻想にすぎなくて、今までお前をだましていたようなものだからさ。本当の俺は、こんなに弱くて、弱くて…〉
だんだんと声が小さくなる。
〈ごめん。こんな兄貴で、ごめん。弱い兄貴で、ごめん。今更こんなこと言ったって仕方ないし、何も解決しないいって、わかってるんだ、俺も。お前には、俺みたいにはなってほしくないなんて、言えた立場じゃないからさ。だから…〉
残り20秒。兄ちゃんが、大きく息を吸い込むのがわかった。
〈お前は、後悔するな。俺には無理だったけど、お前には後悔してほしくないからさ〉
〈……本当は、誰かにこうやって話を聞いてほしかっただけなんだ、きっと。ただ、俺のことを、俺の存在を、想いを、全てを許してほしかっただけなんだ〉
〈ああ、もう時間がない。こんな短い時間しかとれなくて本当にごめん。父さんと、母さんはきっと俺を探しているんだろう。二人には、俺は大丈夫だと、そう伝えてくれ〉
〈…ヒカル。大丈夫、また、会えるよ〉
その一言で、ボイスメッセージは終わった。
俺は、頭の中が真っ白になった。この後、兄ちゃんが何をしようとしているのか、頭の中で考えたくもないような悪い考えがぐるぐると巡っている。
父さんと、母さんに、話すべきだ。そう思っても、身体が動かなかった。
乾いた空気が、口から漏れる。
「……兄ちゃん…」
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鍋山 きのこ