五話
奈津美は、静かに社務所の引き戸を開け、中に入り「遅くなりました~」と言って、ぺこりと頭を下げた。
すると、そこに威吹鬼が一人で座っていた。
威吹鬼は、「大丈夫だ、午後の参拝客の出だしは遅い」と、奈津美の方に振り返って言った。
思わず威吹鬼の顔をじっと見つめる。
「なんだ、どうかしたのか⁉」と、威吹鬼は奈津美に問いかけた。
「い、いえ、なんでもありません」
奈津美は、戸惑いつつも、このデジャヴ感に、思わず威吹鬼の顔をじっと見つめて、さらに考え込んでいた。
そのまま先ほど座っていた場所に座りなおし、誰もいない境内を見つめながら『やっぱり、さっき私、ここに座っていたよね』と思う。
その時、ふわっと風が吹いた。
〈クスクス、ねえねえ、伊織姫様と一緒だね…〉
奈津美の耳に、誰かの話声が響く。
『ちょっと待って、今、私と威吹鬼さんだけだよね…誰の声⁉』
奈津美は、社務所内を見回すが、他に誰もいない。
『えっ…空耳⁉』
首を傾げつつ、奈津美は威吹鬼の方を何気に見た。
「うわっ…威吹鬼さん、なんですか、それ‼‼」
奈津美は、驚いて思わず後ろに後ずさった。
そう、威吹鬼の上半身に、巻き付く白い蛇のような影。
しかもその影は透けていて、シュルシュルと動いている。
「…はあ、見えるのか。不味ったな…そうか、仕方がない。嗚呼、こいつは管狐という妖の仲間だが、使役しているから悪さはしないぞ」
項垂れ、溜息を吐きつつ、威吹鬼はそう答えた。
「えっ、狐⁉…蛇みたいに見えるのに⁉」
奈津美は、初めて目にした管狐に、プチパニックになる。
「ああ、そうだが、こいつは普段は、細い筒の中で眠っているからな。実態は、ただの妖狐だ。姿かたちは、自由に変えられるんだ」
そういって、威吹鬼は管狐の頭を撫でた。
「…」
奈津美は無言で、その管狐とやらを凝視する。
「怖がらせるつもりはなかったんだが…済まない。できれば、皆には内緒にしてもらえると助かる」
威吹鬼は、奈津美に頭を下げた。
「ギン、夜まで筒の中で寝てろ。わかったな」
そう言った威吹鬼の目が、黒から紫になり、瞬間的に赤に変わったら、管狐は宙に消えた。
奈津美は、固まったままで、その光景をだまって見つめて、『目の瞳の色が、赤に変わるんだ…』と、ぼんやりと認識する。
その時、奈津美の記憶が蘇る。
『そうだ、さっきもこの赤い瞳を見たんだっけ』
奈津美は、転寝したわけじゃなく、この赤い瞳を見た後に気を失って、気が付いたら休憩室で寝ていた。
でも、その赤い瞳に見覚えがあると思った奈津美は、威吹鬼に聞いた。
「あの…威吹鬼さんと私、昔どこかであってますか⁉」
そう言った途端、威吹鬼の目の色が赤から紫に、そして元の黒目に戻る。
「俺は…」と威吹鬼が話し始めた時、ちょうど社務所の戸が開いて、侑一郎が入ってきた。
「んん⁉…二人とも、どうかしたの。何かあった⁉」と聞く。
侑一郎は、二人の間に流れる、緊張した空気感を感じ取った。
慌てた奈津美は、「あ、あの、ハチが入ってきて…その、威吹鬼さんが追い出してくれて」と、咄嗟に誤魔化した。
「ええっ⁉、それは怖かったね。怪我はしなかったかい⁉」
と、奈津美を気遣う侑一郎。
「は、はい…私は大丈夫です」と奈津美。
「どこか近くに、ハチの巣でもできたかなあ。とにかく、あとでよく注意しながら、境内を歩いてみるよ」
腕を組んで、顎に手を駆けながら、考え込む侑一郎。
「威吹鬼君の方は、ケガはなかったかい⁉」と、威吹鬼にも気遣いを見せ、手を組みなおす。
「俺は大丈夫だ」と一言返した威吹鬼。
「じゃあ、少し時間は早いんだが、三時を回ったら、社務所は閉めて構わないよ。威吹鬼君は、本殿の方へ来てくれるかい」と侑一郎は支持する。
どうやら、弥生たちはまだ帰ってきていないようで、事務所も洋子が母屋へ引き上げるので、早々に閉めるという。
弥生と直之親子は、渋滞に巻き込まれ、帰宅時間が未定らしい。
手が足りないので、社務所は早めに閉めようということになった。
境内には、まだ複数の参拝客がいたが、奈津美は侑一郎に言われたとおり、三時を回ったところで社務所を閉めた。
奈津美はカギをもって母屋へ向かい、洋子に社務所の鍵を渡す。
「なっちゃん、お疲れさま。今日はもう上がっていいわよ、バイト代は、いつも通り出るから心配しないでね」
洋子は、こちら側の都合で早引けになったので、バイト代はきちんと出すという旨を伝え、奈津美に帰ってもらうこととなった。
「はい、ありがとうございます。お疲れさまでした」
奈津美は挨拶をして、帰り支度をするため、更衣室に向かった。
〈ガタッ〉
奈津美が、更衣室で帰り支度をしていると、レストルームの方で物音。
『弥生さんは、まだ帰ってないはずだし、晴香さんはお休み…誰だろう⁉』
不思議に思った奈津美は、「誰かいますか⁉」と、レストルームに向かって、歩きながら声をかけた。
更衣室は畳敷きで、入って正面がロッカー室、右手にシャワー室とトイレコーナー、壁面が全面鏡の洗面コーナーがある。
大人数で使用できる広さがあり、中央にテーブルと椅子が置いてアリ、年末年始の初詣シーズンに雇う臨時バイト巫女に対応。
この更衣室は、表からは隠れたところにあり、参拝客からは見えない。
屋根のある渡り廊下で、母屋に続いている場所にあって、更衣室を挟んで反対側には事務所と社務所がある。
プライベートゾーンなので、関係者しか入ってこない。
誰もいないレストルーム。
なのに、なぜか誰かがいた気配がする。
その時、誰かの残り香が鼻先を衝いた。
「…この匂いは…晴香さん⁉」
晴香の甘い香水の残り香がする。
奈津美がつぶやくと、物陰の影が動いて、晴香が突然現れた。
「は、晴香さん…居たんですか。」と、驚いた奈津美。
「うん、ごめんね。驚かすつもりは、なかったんだけど…」という晴香。
奈津美は、「今日、お休みじゃなかったんですか⁉」と尋ねる。
晴香は、奈津美に話があるのだという。
「なんの話ですか⁉」と聞くと、「聞いてくれる⁉」といい、話始めた。
そもそも晴香は、どこから現れたのだろうか。
隠れる場所などないレストルーム。
なのに、突然物陰が揺れて、現れた晴香。
『晴香さんって何者なの⁉』
奈津美は、晴香に身構えつつ、話に耳を傾けた。
「実は私、巫女のバイトを辞めるのよ」という。
奈津美は、「えっ、突然ですね。どうしてですか⁉」と聞いた。
それを今から話すと晴香は言い、「驚かないで聞いてほしい」というのである。
晴香は、自分のことを淫魔なのだといい、生まれた時は普通の人間だったといった。
両親はもちろん人間であり、自分は初潮を迎えるころ、淫魔として目覚めてしまう。
その理由は、母親の夢枕に夢魔が現れて、その子供を身籠ってしまったからだった。
そのせいで、自分は淫魔となってしまったが、決して母親は浮気したわけではない。
夢魔は、その能力を持って、人間の女性を孕ますことができ、生まれた子供は成長すると淫魔になる。
淫魔として目覚めた晴香は、体臭が甘い香水のような匂いを放ち、その匂いに引き寄せられた男性の精気を取り込むようになった。
繰り返し精気をとられた男性は、徐々に弱ってやがて死を迎える。
それは、まるでラフレシアの華のようだと、晴香は言う。
けれど、定期的に精気をとらなければ、晴香のフェロモンは強くなり、無意識に暴走する。
だから、時々バイトを早退して、相手を探して行為を繰りかえしていたのだ。
だが、もうそれも続けられなくなり、辞めて別のところへ引っ越すという。
「それと、ココは居心地がよかったのよ。なぜかこの神社の宮司や神主には、私自身の淫魔の力が効かなくてね、安心できたってわけ」
この弘原海神社は、天界を追放され、龍宮に幽閉された乙姫のために建てられたもの。
乙姫は、下界で人間と夫婦になり、子をもうけた罪で、龍宮へ今も幽閉されている。
それが弘原海神社の由来だ。
その弘原海神社が、淫魔の晴香が人間らしく過ごせる唯一の場所。
「でもね、ややこしい相手が来ちゃったし、消されたくないから…行くわ」と晴香が言った。
「晴香さんが、消されるんですか…誰に⁉」
奈津美の問いかけに晴香は答えず、ただ「奈津美ちゃん、アナタ気をつけなさい。もうすぐ目覚めの時が来るから」という。
「…目覚め⁉」
奈津美は、意味が分からず問い返す。
「フフッ、アナタ、自分が何者か、気づいてないのね。アナタが目覚めるのを待ってる人がいるのよ、目覚めたら…何が起きるかわからないわ」
そう言い残して、時間だからといい、晴香は消えた。