四話
須王神社は、湖を挟んだ山二つほど向こうにある、小さな滝つぼの傍に建つ神社で、龍王を奉っている。
この滝壺は伝説によると、あの御伽噺の龍宮に繋がっているというもので、弘原海神社の奥宮にあたるもの。
その須王神社の跡継ぎが威吹鬼だ。
でも、弥生は『須王神社に、琢兄と年の近い子供って、居たかなあ⁉』と首をかしげるが、自分が幼かったので、覚えていないだけだと思いなおした。
弥生は、奈津美に「そろそろ四時になるから、社務所を閉めましょうか」と声をかける。
奈津美は、「はい」と返事をして立ち上がり、御朱印帳やお守りなど並べてあるものを片付け始めた。
社務所は朝の九時から夕方四時までで、奈津美の勤務時間も同じで、時給は平時は一時間千円である。
例えば、毎月月初めの朔の日は行事があり、この時にバイトに入れば特別料金が出る。
他にも月例祭や夏の大祓など、一年を通して行われる行事の日があり、その日は参拝客も増えるため、アルバイトには特別料金が出る仕組み。
実は、奈津美は高3なので受験生なんだが、推薦入学が決まっているので、授業は単位習得のために消化するだけなのだ。
しかも中間試験前で授業もほぼないし、部活は文科系でなければもう行く必要もないし。
暇な奈津美は、バイトのシフトを試験日以外は入れている。
巫女のバイトって、意外と割が良く、他人に譲る気もなかったし、これからも続けたいと思っていた。
奈津美が着替えて更衣室を出ると、ちょうど侑一郎さんが廊下を歩いていて、「なっちゃん、お疲れさま。明日もよろしく」と、笑顔で声をかけた。
「はい、お疲れさまでした。明日もお願いします」
奈津美はそう言って、頭をぺこりと下げ、侑一郎とあいさつを交わす。
そして、境内から鳥居をくぐり、下の駐車場を目指して駆け降りる。
でも、奈津美が鳥居をくぐるとき、ぶわっとつむじ風が舞い、周囲を吹き抜けた。
「わーっ、風だ」
思わず立ち止まって、後ろを振り返ると…大欅のたもとには、あの須王威吹鬼が立っていて、こちらを見ている。
不思議に思いながらも、奈津美はそのまま参道を駆け下りた。
翌朝、いつも通りに社務所を覗くと…侑一郎ではなく、威吹鬼が座って準備をしていた。
「おはようございまーす」と声をかけると、威吹鬼は顔を上げ、奈津美を見て「おはようございます」とそっけなく返す。
『うーん、なんつーか…イケメンなだけに、クールさが際立つなあ』
そんなことを思いながら、更衣室へ向かった。
晴香がシフトの日は、いつも先に来ていることが多い。
でも、今日は誰もいない。
『あれ…珍しいな、お休みかな』
朝から鬱陶しい晴香と、わざわざ顔を突き合せなくて済み、ちょっとご機嫌気味な奈津美。
着替えが済んだ奈津美は、事務所へと向かった。
すると、そこには洋子がいて、「おはよう奈津美ちゃん。悪いんだけど、今日は弥生は急用があって、お父さんと出かけているのよ」という。
午後には戻って来る予定だが、それまでいつも通りの業務をしていてほしいと頼まれた。
「途中、私も侑一郎も様子を見に来るから、お願いね」といい、洋子は母屋の方へ行ってしまう。
まあ、仕方がない。
そんな日もあるか…と思い、事務所の掃除から始めた。
奈津美は、洋子に言われたとおり、黙々と作業に取り掛かった。
普段から、奈津美は弥生や洋子と一緒に、事務所で裏方の作業をすることが多い。
昨今、御朱印ブームもあってか、多い日は平均すると100人ほど求められることがあり、社務所で一人一人受け付けていては回せなくなっていた。
なので、御朱印を貼って渡す、書置きタイプに切り替えたのである。
御朱印帳は、普通サイズは文庫本ほどの大きさで、大判の物はB6サイズとなっていて、ほぼこの二つの大きさになる。
これならば、御朱印帳を持参するのを忘れた場合でも、参拝客にお渡しできる。
その御朱印帳は、参拝客が好みのものを持参することが多く、大判サイズのものが好まれていた。
そこで、予め御朱印をB6サイズの物を用意しておいて、社務所で受け付けて、事務所で貼って参拝客に返却するという流れ。
もちろん、御朱印の文字は侑一郎や洋子、弥生が書くのだが、奈津美は朱印を押して仕上がったものを文箱にしまう作業をしていた。
奈津美は、今日の御朱印の分を在庫確認し、足りなければ洋子に準備してもらえるよう用意していると、事務所のドアが開いて威吹鬼が入ってきた。
「すまないが、御朱印を求める参拝客が来ているのだが…」と言った。
「はい、では御朱印帳をお預かりして、事務所へ持ってきていただけますか。もし、御朱印帳をお忘れでしたら、書置きをお渡しできますので、お伺いしてください」と答えた。
「わかった」といい、威吹鬼は社務所へと戻っていく。
そして、事務所へ戻ってきた威吹鬼の手には、お預かりした御朱印帳が束になって、お盆に乗っかっている。
普段あまり見ない光景に、奈津美は絶句した。
「えっと…それ、もしかして皆さん女性の方…でしょうか」
奈津美は、驚きのあまり、ぽつりぽつりと言葉をつなげて尋ねた。
「ああ、そうだが…数が多いので、少し時間がかかると伝えてある。もちろん、俺も手伝うので、頼めるだろうか」と威吹鬼。
奈津美は、「作業は私一人でもできますが、社務所の方をお願いできますか。出来上がったら、届けますので」と、威吹鬼に伝えた。
威吹鬼は、「わかった」といい、社務所へ戻っていく。
奈津美は、作業台いっぱいに御朱印帳を並べて、一つ一つ丁寧に御朱印を貼り付けていった。
特殊な糊で糊付けし、貼り付けた後はきちんと乾いたのを確認して、御朱印帳をお盆に並べて、順番に出来上がったものを社務所へ運んだ。
御朱印は、初穂料と言って、大体300円ぐらいが相場である。
また、書置き専用の御朱印符フォルダーというのもあり、わざわざ御朱印符でいただく参拝客もいる。
そんな感じで、午前中は忙しく時間が過ぎていった。
午後になり、奈津美は威吹鬼と社務所に詰める。
なんとなく、おしゃべりする雰囲気ではなく、奈津美はポケーっと境内を眺めていた。
午前中、参拝に押しかけていた、おば様方の団体客も帰ったようで、境内は静かに時を刻む。
風が凪がれ、さわさわと木々が揺れていた。
『あー、気持ちいいな。』
奈津美は、風の音を聞きながら、ついウトウトと座ったままで転寝をしてしまう。
「…ちゃん、なっちゃん、奈津美ちゃん、大丈夫かい。」
奈津美は、侑一郎に呼ばれて目を覚ます。
気が付くと、奈津美は休憩室のソファーで寝ていた。
「なっちゃん、お昼休憩もそろそろ終わるから、午後は社務所の方を頼めるかな」と、そう侑一郎は言った。
『えっ、お昼休憩って⁉…私、確か午後から社務所にいたはずなんだけど…』
そう思って、奈津美は壁にかけてある時計を見上げた。
すると、まだ一時五分前。
『あ、あれ⁉…おかしいな、夢でも見たっけか…確かに、威吹鬼さんと社務所にいたと思ったんだけどな』
奈津美は慌てて起き上がり、「すみません、ウッカリ寝てしまったみたい。すぐに顔を洗ってきますね」と答える。
「うん、慌てなくていいから。午前中は忙しかったようだし、午後はおふくろも事務所へ入るから、任せておいて大丈夫だよ」
侑一郎は、奈津美にそう言って、午前中の忙しさを労う。
奈津美は、顔を洗いに更衣室内のレストルームへ向かった。
顔を洗い、タオルで拭いながら、奈津美は考え込む。
『夢…にしては、リアルな感覚が残っているし、でも、時間がずれている。しかも記憶がおぼろげ⁉』
そう、社務所で転寝したところまでの記憶しかないんだが、そもそも今まで暇すぎても、滅多に仕事中に転寝なんてしたことがない。
『なんだろう…この感覚、記憶が飛んでるみたいな感じ。』
ふと顔を上げると、鏡に映った時計の針が、一時五分過ぎを指している。
「わっ、ヤバ。遅れちゃった」
奈津美は、タオルをロッカーに突っ込んで、慌てて社務所へ向かう。