二話
晴香におでこの突起物を指摘されていると、突然、更衣室のドアが開いて弥生さんが入ってきた。
「ねえ、そろそろ社務所に入ってほしいんだけど」と言った。
晴香は、「はーい」と返事して社務所へ向かった。
弥生は奈津美に、「今日は事務所の方を手伝ってくれる⁉」と言った。
奈津美は、この夏に簿記検定二級をとったので、弥生は何かと当てにしている。
「なっちゃんがいてくれて、助かったわ」という。
母親と祖母は裏方を手伝っているんだが、事務仕事全般が弥生の仕事になっていて、一人じゃ手が回らないことも多い。
そこで、計算に強い奈津美を事務仕事に引っ張り込んだ。
そんな会話をしていると、宮司の直之さんがやってきて言った。
「ああ、ちょうどよかった、弥生となっちゃんに伝えとくことがあったんだよ」
直之さんの話とは、親戚の神職見習いを引き受けることになったという。
午前中には来るはずだから、着たら自宅の方へ案内してほしいといった。
「ふーん、こんな時期に移動とか…珍しいわね、侑兄さんみたいに転職かしら⁉」と弥生さんが言う。
神職になるには、大学で学んで資格を取り、見習い期間を得て神職に着く。
昔は、神社庁と言って国家公務員に該当したんだそうだ。
そんなわけで、中途半端な時期にやってくる見習いは、転職が多いのだという。
そして、侑一郎さんが後を継がなければ、弥生さんが婿を取る予定だったらしいが、弥生さんにはその気がなかったし、琢磨さんも海外から帰ってこない。
仕方なく長男で真面目な侑一郎さんが、転職する形で今の神主になったという。
まあね、この穏やかで清々しい神社には、侑一郎さんのような神主さんが似合うと思う。
弥生さんは、意思の強いキリっとした凛々しい宝塚の女優さんのような才女で、巫女さんにしておくのはもったいない。
しかも法学部で、将来は弁護士か検事になる人だし、昔から奈津美の憧れの女性だ。
そんな弥生と奈津美は、二人で事務所で黙々と仕事にとりかかった。
お昼休憩だと弥生の母、洋子が事務所に顔を出した。
「お母さん、新入りの見習くん、来た⁉」と聞く。
「いいえ、まだよ…午前中に来るって、聞いたんだけどねえ」という。
「ふーん、そう…なっちゃん、先にお昼いただきましょうか」
弥生は奈津美にそう声をかけ、二人して事務所を後にした。
「なっちゃん、今日もお弁当⁉」
「はい、持ってきました」
「じゃ、お弁当持って、家で一緒に食べない⁉」
弥生は、奈津美をそう言って誘った。
「あの…お邪魔じゃなければ」
奈津美も休憩室で、あの晴香と一緒に顔を突き合わせるのが、なぜか少々鬱陶しく思い弥生の誘いに乗った。
二人で境内を歩き、弥生の自宅へ向かって歩いていくと…御神木の大きなケヤキに佇む男性の姿が目に入る。
奈津美は『…誰だろう、参拝客かな⁉』と思いつつ、その男性が気になった。
「弥生さん、あの御神木のところにいる人…参拝客でしょうか⁉」
奈津美は、弥生の方に向き直って、声をかけた。
「えっ、どこにいる人って⁉」
「ええ、だから大欅のところです」と言いながら、奈津美は弥生に指さして教える。
でも、奈津美と弥生が二人で振り返ると、そこには誰もいなくて、その瞬間に風がふわっと吹き抜けた。
「誰もいないわよ⁉」
弥生がそういうと、奈津美は「あれ⁉…見間違いかなあ」とつぶやく。
そう、確かに誰かがいた気がしたのだが、奈津美が振り返ったときには、そこに人影はなく「気のせいよ」と弥生は言った。
弥生の家の居間で昼食を済ませ、母親の洋子がいれたお茶を奈津美は飲んでいた。
その時、自宅の玄関でインターフォンが鳴る。
洋子は、「はーい、今開けます」と言いながら玄関へ向かった。
玄関の戸を開けると、そこには男性が立っている。
「どなたかしら⁉」
「はい、今日からお世話になります、須王威吹鬼です。」
男性は、そう言ってぺこりと頭を下げた。
そう、先ほど奈津美がケヤキの木の下で見かけた男性である。
「ああ、今日から見習いで来られる方ね」と洋子は声をかける。
洋子は、須王に「さあ、上がってちょうだい」といい、弥生に「お父さんを呼んできて、お願いね」と言った。
奈津美は居間のテーブルを片付け、キッチンの脇にある勝手口から弥生と一緒に社務所へ向かう。
「なっちゃん、悪いけど先に事務所へ行ってくれる⁉ 私、お父さんを呼びに御社の方へ行くから」
弥生は、奈津美にそう言って、本殿のある方へ向かって歩いて行った。
奈津美は、空になった弁当箱を更衣室のロッカーへしまうと、そのまま事務所へ向かおうと廊下へ出る。
すると、ちょうど社務所から晴香が出てきた。
「あら、奈津美ちゃん、お昼済んだの⁉」と声をかけてきた。
「はい、お先にいただきました」
奈津美は、晴香にぺこりと頭を下げて答える。
「悪いけど、私用があって早退するのよ。だから、侑一郎さんがお昼から戻るまで、社務所の留守番をお願いできるかしら⁉」
と晴香がいう。
「えっ、またですか」
奈津美は、この晴香のわがままにいつも振り回される。
この人、巫女のバイトをなめていて、結構いつも勝手気ままに早退とかしてくれる。
まあ、別に顔を突き合せたくはないので、早退でも何でもしてくれてかまわないのだけど、よくこれで劇団の女優が務まるよね。
第一、劇団女優と言っても主役じゃないし、メジャーでもないので、この先目が出るかどうか。
掛け持ちのバイトだって、居酒屋とかの夜だし、付き合っている特定の彼氏もいないみたいだし…正直、どうでもいいので、いつ辞めてもいいと思っていた。
奈津美は、「わかりました」といい、社務所に入った。
しばらくすると、弥生がやってきて「なっちゃん、一人なの⁉」と声をかけた。
「はい、晴香さんが私用があるとかで…午後は早退だそうです。」と、奈津美は振り返り応えた。
「えーまたなの‼ 本当、あの人って自分勝手よね。」と、弥生はぷんすかと怒り始める。
「でも、その割にお父さんや侑兄さんには、媚びって愛想がいいから、いつも「いいよ、大丈夫」で済まされちゃうのよね。」と、さらに不満を言った。
あはは、その気持ちはよくわかる。
こっちはしがない高校生のアルバイトだ。
平日は、学校があってシフトに入らないことが多いし、週末とお休み期間限定だからな、あまり彼女には文句が言えないんだよ。
巫女なのに化粧が濃くてケバイとかさ、ナントカって甘い香りの香水の匂いつけてて、近づくと臭いとか…思ってても言えない。
まあ、学校にもそういうタイプの派手で騒がしいJKはいるんだけど、人種が違うっていうか…タイプが異なるので、奈津美はそりが合わない。
他人に意地悪とかする気もないし、マウンティングとか、異性との交遊とかまったく興味がない。
だから、その彼女たちと同類の晴香は、初対面の時から苦手だし、しいて言えば…まるで淫魔のようで嫌いだった。
でも、侑一郎さんは、なぜか晴香に靡く様子もなく、いつも変わらない態度なのでホッとしている。
弥生は、「はっきり言って、彼女ってウチのバイトに不釣り合いだと思うのよね」と言い出した。
でも、仕事はしてるし、参拝客に不評かってるわけじゃないし、たまに早退しちゃう以外、問題を起こすわけでもない。
「あれかな、バイトの掛け持ちしてるらしいから、何かの都合があるんだろうけど…ウチって舐められてるわよ」と、弥生は愚痴る。
「事務所の仕事は急がないから、侑兄さんが戻るまで、一緒に留守番しましょう」と、弥生は奈津美に言った。