1節 塔の中の少年
ちゃんとしたファンタジーは初めてですが、がんばります。ぜひ宜しくお願いします。
~或る女の日記~
彼はそこにいた。
彼は、灼けるような苦しみの中で死に絶えた。
彼にとって、苦しみは苦しみでなかった。
彼にとって最も恐ろしかったのは、きっと人に忘れられることだったのだ。
忘れられれば、彼は消えてしまう。
だから彼は殺した。
人をたくさん殺した。仲間も殺した。
悪名でもいいから皆に知られたくて、皆の記憶に残りたくて、正気を失ってまで、殺したのに。
私をあんなにも、想ってくれていたのに。
涙が零れそうになる。
人々はもう、彼を忘れてしまったよ。
きっと彼自身も、もう覚えていないけれど。
でも、私は忘れないよ。
貴方のことを、私だけは。
他の誰もが忘れても、貴方はずっと私の記憶に生きる。
どんなにこの身が汚れても、きっと貴方を想い続ける。
絶対に。
(これが日記の最初のページで、何か水滴が垂れた跡がある。それ以降は何も書かれていない)
――
いつものように珈琲を淹れ、木椅子に腰掛けそれを啜る。
鳥の囀りも、小川の奏でる心地良いメロディーも、彼には無縁だ。無音の空間で、朝から今日三杯目の珈琲を再び淹れる。
豆には困らない。彼は魔法が使えるから、たかだかコーヒー豆程度なら幾らでも出すことが出来る。
彼は木机に珈琲のコップを置くと、手に力を込めて机にそっと当てた。手のひらを下に、引き上げるように机から手を離すと、いつも食べている簡素な朝食が生えてくる。
買い物に行けば、こんな些事に手を煩わす事なんてないのだろうが、生憎彼にそれは無理だった。
「彼」――名もなき少年は、外に行けない。塔に幽閉されているからだ。
生まれたときからそうだったのだ。誰に育てられるでもなく何故か言語は使えるし、何故か使えた魔法のおかげで食事には困らない。幼年時代の記憶は無いが、今生きているのだからうまくやっていたのだろう、と自分を納得させている。
自分は記憶喪失なのだ、と、彼は考えていた。
自分が生きた証である記憶だけがどこかに落ちて、常識や社会通念だけが残った。
でも生まれたときはちゃんと赤子だったから、たぶん、僕には前世があったんだろう。そんな身も蓋もない事を考えながら、特に気にするでもなく彼の退屈な日常は過ぎていった。
塔に幽閉されている事については、納得しようにもわけが分からないが。
この塔を出たい、なんていう感情は、彼の脳にはあまり湧いてこない。塔は広い。螺旋階段を通じて大量の階があるので、身体が鈍らない程度に運動する場所には困らないし、出口は無いものの、日光だって浴びられる。
一切なかったと言えば、それは勿論嘘になるが。
それにしたって、多少鍛えた程度で壊せるような硬さの壁じゃないし、少しだけ可能性がある攻撃魔法は覚えていない。覚える手段もない。
別にここを出なくたって生きていけるし、外も見られないことはないんだから、出る必要なんて無い。
そんな思考は常にあって、塔の外への好奇心も、自分をここに閉じ込めた人物に対する憎悪も、もう彼にはなかった。どこか、面倒くさい、という半ば諦めに近いものだったかも。
彼が自家製の柔らかパンを一切れ口に運んだ時、下の方から女の声が聞こえた。前代未聞だった。聞こえた音はそこまで大きくないとはいえ、この塔はかなり大きい。壁も在るし、下から発せられた声が聴こえるなんてありえないことだ。そもそも、隠蔽魔法がかけられている(らしい。彼が読んだ書物にはそう書いてあった)この塔の近くに人が来ることはあまりない。ただでさえ辺鄙な土地である事もあって。
彼は椅子から立ち上がり、階段を上がって、唯一周りを見渡せる展望台まで行った。といっても、魔道具で周りを見られるようになっているだけの閉鎖的空間だが。
望遠鏡で目を凝らすと、下には少女がいた。
長く伸ばされた綺麗な金髪を揺らしながら、彼の方に笑顔で大きく手を振っている。歳は彼と同じ、15ぐらいだろうか。整った顔は薄く紅潮し、その活発な雰囲気と相まって、彼女の美しさをより一層引き立てていた。
……なんぞ。
彼は思わず周りを見るが、自分の他には誰も居ない事を確認する。外にも居ない。
僕の姿は見えないはず。なんで? 隠蔽魔法は? あれが嘘だったとしても、壁に阻まれて人がいることなんて分からないはずなんだけど。
心の中で、彼はいきなりの事に混乱していた。
少女が何やら言っている。興奮して一生懸命口を動かしているようだが、呆然と見守る彼は読唇術は学んでいなかった。
とは言え、このままにするのも良くないだろう。彼はそう考えた。
「サモン」
彼は固有の魔法を唱える。そうすると、魔法陣が宙に浮き出、小さなドラゴンが出てきた。
「ぎゃう?」
「君の身体に会話機を取り付けるから、この塔の下にいる女の子に渡すんだ。いいね?」
首を傾げた小ドラゴンに指示をし、その首に小さな会話機をひもでかけた。相手の声を聞き、こちらの子機で相手に言葉を伝える事ができるすぐれものだ。
小ドラゴンはぎゃう、と元気に返事をし、魔法陣を生み出してそこに入っていく。
このドラゴンは、彼の使い魔。彼が作り出したのは、使い魔を呼び出し使役する魔法だ。
召喚された使い魔はテレポートの魔法を使えるようになることが特徴だが、彼から一定距離離れると消えてしまうらしい。なので、召喚に応じてくれた使い魔は基本、彼と暮らすことになる。餌とかも彼が用意する。
とはいえ、この小さきトカゲは彼がこの魔法を作り出した時のテストで呼び出した使い魔。それ以外は誰も居ないので、今の所特に困ってなかった。
『ぎゃう!』
「あー、あー。聞こえますか、お嬢さん」
『これに話せばいいの? ……やっぱり! 私の予想通りだわ、人が居たのね』
「小ドラ、よくやった。自由にしていいよ。……それで、お嬢さんは何の御用で?」
『……あなた、ここから出られないの? 私が生まれるずっと前からここにある塔、その中に住まう人。あなたと会って、話がしてみたいの』
出られるのであれば、もちろんとっくに出ている。彼は心の中でため息を吐いた。
「前に僕も努力してはみたけど、出られないと思う。ごめんね」
彼の言葉に、彼女は言葉を詰まらせた。
望遠鏡越しに見る彼女の顔は、先程までと打って変わって陰があるように見えた。
彼女は振り切るように首をふると、きょろきょろと周囲を見渡し、一点を見て視線を留めた。
そして、望遠鏡の死界に入る。
『……あれ? ちゃんとドアがあるじゃない。なんでここから出ないの? ……ちゃんと開くし』
「えっ?」
ドア?
記憶になかった。
僕も15年はこの塔に籠もっている都合上、塔の構造はばっちり把握しているつもりだ。見落としはないと思うが……。
彼女が冗談を言っているのかと思ったが、螺旋階段を降り最下層まで降りるとその考えは砕かれた。
「は……?」
塔の扉無き正面玄関に、前までなかった筈の扉があった。
彼は思わず駆け寄る。ドアノブに手をかけると、回った。
勢いのままドアを開け放つと、森のスズメたちが一斉に飛び立つ。大きな木が一本こちらを見下ろし、他の木々は一つの森を形成している。
彼の心にあるのは嬉しさよりも、混乱だった。何故ここにドアが? 他人が気づくことが条件の魔道具か?
驚きを飲み込めず立ち尽くしていると、少女が話しかけてきた。
「何よ、やっぱり出られるんじゃない。さては、私が面倒くさそうな女だからって嫌がったねー?」
「い、いや。そんな事無いよ。ほら、君は可愛いし」
顔は関係ないのに。彼が混乱しながらそう言うと、少女は顔を背ける。
「う、うん。そう。そりゃあ、ね、私は可愛いよね。周りにもよく言われる」
「え、あ、そう」
「……ていうか、顔以外は面倒くさそうな女だってこと? 高度な嫌味?」
そういうところじゃないか?
と言いたくなるのをこらえ、彼は少女に言った。
「それで、ただ話すことだけが目的じゃないんだろ?」
「……御名答」
「この謎の塔の中に居た僕を捕まえて、生体実験でもするのかな? 別にいいよ。楽しいこともないしね」
「……まあ、あなたが珍しい存在なのは事実だし、一緒に来てもらいたいのもまた事実なのだけど。用件は別。あなたのスカウト」
スカウト?
彼は別にそんなことをされるような大層な人材ではないと自覚していた。それに奴隷とかそういった方向のスカウトだとしても、彼は体力がないから務まらない。
少女は何故か悲しそうな表情を浮かべていたが、直ぐに元の笑顔に戻った。
「簡潔に言うわ。宮廷魔道士として。私、シエラ・オスルニアの部下として、貴方を迎えたいのよ」
……これが、『塔』に住まう名もなき少年と、ある少女の出会いだった。
これから描かれる物語は、如何なるものか。
そんな事を気にすることもなく、太陽は元気に皆を照らし続けていた。
難しい。