第9話
異世界の朝は早い。
康大が起こされた時間は現実世界で言えばだいたい6時前で、朝食が6時30頃、昼食は12時前。まだ太陽は真南にあった。
――そう、この世界は時間経過のサイクルが現実世界とほとんど同じだった。
大分落ち着いてきた康大は、昼食の合間を見て瞼を閉じ、ミーレにそのことを聞く。すべて頭の中の出来事なので、実際に口にせずとも思うだけで会話は成立していた。
今から職場を抜け出し、例の白い衣から私服に着替えてランチに出かけようとしていたミーレによると、
《確かにアンタの想像通り、その世界の現実の世界の時間の流れは寸分違わず同じよ》
とのことだった。
しかもそれだけではなく。
《そこもいちおう地球だし》
映画なら最後で分かるような衝撃的事実を、2日目に見た目が衝撃的なラーメンを食べながら平然と話した。
その店には同じような姿をした他の女神の姿もちらちら見え、かなり異様な光景だったが、その時の康大には周囲の景色など全く目に入らなかった。
「マジかよ!?」
《マジよ。その世界は大昔にあった、それこそ小石が10センチ横にずれていた程度の小さな分岐から別れた、別の次元の地球なの。アタシ達は空間と時間軸はそのままで、次元軸をずらしてアンタらを転送させたって事》
「信じられない話だな……。つまり一歩間違えたら、俺の住んでいる世界もこうなっていた可能性があった訳か。何か猿の○星みたいだ」
《アンタその歳で良くそんな昔の映画知ってたわね》
「まあこういうのはネット見てたら嫌でも入ってくる知識だから」
《ま、確かにアンタからすれば映画みたいな話でしょうね。ふ、私も見たなあ、猿の惑星: 聖戦○。確かに言い得て妙かもね……》
「相変わらず○の位置がおかしいし、そのシリーズは今回のケースと全然関係ない!」
「ん、どうしたのかな?」
思わず声を出して突っ込んでしまったため、フォックスバードが不思議そうに康大を見た。
康大は目を開き、「なんでもないです……」と、消え入りそうな小さな声で答えた。
(とりあえず時間の流れは同じだから、ミーレに現在時刻を聞けばこっちでもほぼ時計は使える状況か。まあ俺だけしか分からないから、あんま意味ないけど。あとラーメン美味そうだったなあ。でも女神があんなカロリー高そうなもん食べて良いのか。スープまで全部すすってたぞあのなんちゃって女神)
本当に久しぶりに現実の世界が懐かしくなる。
しかし、今の現実世界はラーメンすらまともに食べられない地獄絵図。色々している内にその気持ちも薄れ、いよいよ出発の時間となった。
ミーレと話すこともなく景色の時計だけ確認すると、時刻は1時を少し過ぎた頃だった。元いた日時が春分を少し過ぎた頃なので、日没まであと5時間ぐらいか。
(行って帰って日帰りで戻れる距離らしいけど、帰るのは日付が変わる頃だろうな……)
康大はざっとそう予定を見積もった。
一方で時計のない世界の住人達はそんな些細なことに縛られない。
「まあ色々決めていたが、私達が力を合わせれば今日中に全部終わるだろう」
「そうっスね」
「お前らちゃんと計画通りに動けよ……」
頭脳労働は自分一人なんだなと、康大は痛感させられる。
「というか、なんでハイアサースまで来る気満々なんだ。突然死ぬ可能性もあるし戦力にはならないし、残ってた方がいいだろ」
「なにぃ!」
「まあ康大君がそう言いたくなる気持ちも分かるけど、君もそろそろ彼女を認めてあげたらどうだい。回復魔法に関しては僕より彼女の方が上手だよ」
「フォックスバードさんより? 買いかぶりを通り越して皮肉にさえ聞こえます」
「言ったなコータ! 確かに私は剣術では多少後れを取っているかもしれないが、回復魔法なら村で誰にも負けない自信がある!」
「うわ、早くも期待薄の分母……」
「康大くんがそこまで言うなら、ハイアサース君は実際に自分自身に回復魔法をかけてみたらどうだい? 百聞は一見にしかず、その効果を見れば彼だって納得するはずさ」
「しかし、自分の身体で見た目以外おかしいと思える点がない以上、どこを治せば良いのか分からない。見た目を変える回復魔法など存在しないからな」
「それなら――」
フォックスバードはハイアサースに色々と説明を始める。その内容はあまりに康大の知らない専門用語ばかりだったので、ぎりぎり回復魔法について話していることしか理解出来なかった。
しかし、本当に回復魔法に関しては知識も耐性もあるのか、ハイアサースは折を見て頷き、質問さえ挟んで話を聞いていた。他の少し難しい話だったら、腕を組み自信に満ちあふれた顔でそのまま寝てしまうというのに。
これまでたいてい話の中心にいた康大が、この時ばかりは完全に取り残される。
「――というわけだ」
「それなら容易い」
その言葉は剣術に関するただの思い込みと違い、実力に裏打ちされた冷静な分析だった。
フォックスバードでさえ詠唱したというのに、ハイアサースは胸に手を当てただけで自らの身体を瞬時に変える。
「……と。とりあえずやってみたが、果たしてこれで何か変わったのか?」
ハイアサース自身は自分の身体の変化に、まだ気付いていないようだった。土気色の死人の肌から生きた人間の白い肌に変わったことに。
「この手鏡で見るといい」
「すまない。……おお、確かに元に戻ってるな」
この後すぐゾンビに戻ることを理解していたためか、それともよっぽど自分の回復魔法に自信があったのか、ハイアサースは鏡を見てもたいして喜びも驚きもしなかった。
「とりあえずこれで彼女の実力を理解してもらえたかな?」
「はい。どうやら過小評価していたみたいです」
ハイアサースの自信満々な表情に腹は立ったが、康大は素直に自分の間違いを認めた。
考えてみればあの死に損ないの蛮族を回復させた腕も大したものだった。何もせずとも数分で死ぬだけだった人間が、1時間以上地獄の苦しみを味わいながら死ぬ羽目になったのだから。
こんなすごい回復魔法を使える仲間は、大きなアドバンテージだ。中々死なないというのはそれだけで相手に大きな驚異になる。
今までゾンビを相手にしてきた康大にはそれが良く理解出来た。
「しかし、いくつか問題がある」
とはいえ、フォックスバードはただハイアサースを持ち上げるだけではなかった。
彼の言葉は常に冷静で客観的で平等である。
「まずゾンビから元に戻るというのは、必ずしもいいことばかりじゃない。康大君達の話を聞いたところ、ゾンビ状態ではモンスターに襲われないらしいからね。無駄な戦闘を避けるためにゾンビで居続けるというのも悪い選択肢じゃないさ」
「確かにそうですね」
モンスターから無視……というか風景の一部のようにみなされるのは、かなり都合が良い能力だ。あの恩恵がなければ、康大とハイアサースは村に着くまえに他の異邦人同様死んでいただろう。今回のミッションには優秀な戦士でもあるダイランドがいるとはいえ、戦いは無いにこしたことはない。
康大が納得する一方、限界まで伸びたハイアサースの鼻が次第に傾いていく。自分の立場が悪くなりつつあることは、彼女にも理解出来た。
フォックスバードはそこからさらに極めつけの一言を放つ。
「そしてこれが一番重要なんだが、康大君に回復魔法は効かないと判断せざるをえない」
「な、なして!?」
自分の能力を一から否定され、ハイアサースは思わず声を上げた。
慌てるハイアサースとは対照的に、康大はすぐにその理由に思い当たった。
「俺が特殊なゾンビなのがその理由ですね」
「その通り。君は切られた場所がすぐに治るのではなく、別の物質に変換されると言っていた。実際に見た傷痕は、確かにそうとしか形容できないものだった。そんな君に回復魔法なんて使ったところで、果たしてちゃんと人間の皮膚が形成されるかどうか……。知的好奇心は刺激されるが、それを実行するにはあまりに危険が伴うだろう」
「俺もなるべく怪我しないようにして、万が一怪我してもゾンビ的自己再生に任せるべきだと思います」
「うう、私の威厳が……」
せっかく上がった株が一瞬で大暴落し、ハイアサースガックリと肩を落とす。
だが、それはあくまで康大に限った話。
康大もハイアサースの能力を否定する気は無かった。
「でもまあ、あんな回復魔法を使えるって言うのは正直予想外だった。聖職者としては充分有能だと思う」
「な――」
せっかく褒めてやったのに、ハイアサースは喜ぶどころか不審そうな表情をした。
「なんだよそれ」
「いや、お前が素直に褒めるなんてきっと何か裏があると思って……」
「あのなあ。俺だってそういうこともあるぞ、たまにはだけど」
「しかしコータは性根がひどく歪んでいるから……」
「おっとイベントバトル始まっちゃったかな? 言っておくが俺は相手が女でも、平均的な成人女性よりも運動能力が劣るからグーで殴れる自信があるし、捕まる心配がないからおっぱいを好きなだけ揉む自信もある」
「お前本当に最低だな!」
ハイアサースは咄嗟に鎧に覆われた胸を隠す。今回は危険が伴うため、誰の忠告も受けてないのに自分から鎧を着込んでいた。もちろん鎧を着たからと言って戦力になるわけではない。
「さあさあ、いつまでもそんなことしていたらラチが開かないよ。とっとと出発すべきじゃないかな。到着時間はかなり早くなるだろうけど、すんなり目的に地に着けるとも思えないしね」
「そうですね。それじゃあ――」
「出発、だ!」
ハイアサースが声を上げ、豪快に扉を開ける。――いや開けようとしたが予想以上に扉が重く、ナメクジが這いずるようなスピードでゆっくりとだけ動く。
「あの、俺が開けましょうか?」
「助力は無用!」
扉を開け終えたハイアサースは、まだ家から一歩も出ていないというのに、いきなり疲労した状態に陥る。
こうして3人のミッションはしまらないままスタートした……。