117話・回想その5「格好悪いプロポーズ」
絵具にパレット、筆などが…血だらけの床に散乱し。
冷え切ったアトリエ(作業部屋)にて。
傷ついた叶が、たった独りで倒れていた。
この現実こそが、悠人にとっての地獄であり。
真たる恐怖が、彼の思考を凍りつかせる。
?!ッ………
言葉が出ない…
生温い汗が、滝のように溢れ。
絶望の淵の味が、口の中に広がった。
悠人は、ボロボロの手を震わせながら…
無我夢中、死に物狂いで、彼女の元へ駆け寄った。
しかし、反応も返って来ず。
そこにあるのは、冷たい静寂と、広がる血痕のみ。
この男(悠人)は、頭が良くないから。
次に行うべき「適切な行動」など分からず、ただ固まっているだけ。
「はる…と…?」
彼女は呼んだ…ちっぽけなヒーローの名を。
この男は、きっと無力で「役立たず」かもしれないけれど。
叶にとっては…
「お人好し」で「優しい」かけがえのないヒーローだった。
傷ついた手で、叶の肩を掴む。
そして…
傷ついた彼女を、力一杯に抱きしめた。
ギュッ…
もし、離してしまったら。
大切な人が、遠くにいってしまいそうで…
この男には、哀れに縋るしか出来なかった。
自分は、こんなにも役立たずなのに。
叶は微笑み、いつだって受け入れてくれた。
「ありが…とう……」
その叶の表情は…
初めて公園で出会った時と同じ、穏やかな笑顔だった。
血だらけの手で、王子さまの腕に触れる。
「もういい…もう、いいんだよ…」
彼女は言う、私は「過去」なのだ…と。
君の行く未来(冒険)に、過去(自分)はいらないのだ…と。
でも、それでも。
悠人は、過去を失いたくなかった。
温かく尊い「過去」に、哀れにしがみついた。
「まもる…君を守る」
つよく、強く抱きしめる。
「ダメだよ…」
その思いを、彼女は拒む。
「ずっと、一緒にいる」
「ダメなの…だって…わたしは」
叶の運命が、彼女の結末が、如何なるモノであっても。
彼女の傍にいると…心に誓ったのだ。
「僕と…」
「結婚してください」
この夜…
狭く、汚れた、このアトリエで…一人の凡人が…
カッコ悪くて冴えない「プロポーズ」をした。
そして、どうしてだか。
窓から見えた夜空にて、虹色の光彩が広がっていた。
もう、時間は、残されていないけれど。
彼女もまた「鈴木叶」として、悠人を見守ろうと誓った。