"正しい"ことは強いこと――映画「リリィ・シュシュのすべて」と個人的経験を踏まえて――
あくまで個人の主観です。問題の性質上、このエッセイの内容についてはかなり意見が分かれると思います。
「リリィ・シュシュのすべて」という映画がある。
これから私が書くことはこの映画のネタバレを含むので、それが嫌な人は読むのをやめた方がよい。
といってもこの映画は、あらすじの面白さを楽しむタイプの映画ではないので――小説のジャンルに例えたら、純文学に当たるだろう――これを読んだからといって、観る価値がなくなるということはない。
前置きはこのくらいにして、本題に入ろう。
「リリィ・シュシュのすべて」の主人公は中学生の男子であり、物語の主軸は彼の交友関係や学校に在る。
主人公や、彼のクラスメイトたちが置かれている環境は過酷だ。クラスでは、かつては彼の友人だった少年の星野が覇権を握り、同級生の女子に援助交際でお金を稼がせたり、見ているこちらが絶句するような身体的・精神的な暴力を特定の生徒に課したりする。学校独特の閉鎖的で歪んだ空間で、誰も彼に逆らうことはできない。売春させられた女子生徒の津田詩織は自殺し、田んぼで泥だらけになりながら裸で犬かきをさせられた男子生徒の犬伏列哉は、不登校となる。
主人公も暴力を受けている以上、被害者には違いない。だが同時に負い目もある。彼は津田詩織を監視し、彼女の仕事が終わった後には、星野への上納金を彼女が稼いだお金から抜き取る役割だ。
これは主人公だけの話ではない。主要な登場人物のほとんどが、被害者であると同時に何らかの負い目を抱え、何らかの負い目を抱えながら被害者でもある。
しかしこの中で、1人だけ異彩を放つ人物がいる。
久野。主人公の片思い相手であり、星野率いる不良グループにレイプされる女の子。
彼女は非常に強い人間だ。強いという言葉では生ぬるいほどだ。レイプの翌日、少し遅れて登校してきた彼女の姿に同級生たちは驚愕する。普段と変わらぬポーカーフェイスで現れた彼女は、坊主頭になっていた。それは自分が受けた仕打ちに対する、言葉も暴力も介さない強烈な抵抗だった。レイプの主犯格たちが動揺し、その動揺を機に、星野の支配力に亀裂が走るほどに。
なぜ彼女はこれほどまでに強いのか。ここから先はあくまで、私の個人的な経験に基づく推測だ。
先ほど、久野は人物たちの中で異彩を放っていると書いた。被害者の側面もあるが、同時に何らかの罪や負い目を抱える人物たちの中で。
気づく人は、私の言わんとしていることにすでに気づいているだろう。
久野は、映画の人物たちの中でただ1人、負い目がないのだ。
彼女はいじめに加担していないし、売春もしていない。むしろ正しすぎてレイプのターゲットになったようなものだ。彼女は完全なる被害者であり、勇敢なる抵抗者であり、紛うことなき正義。この映画における唯一の”正しい者”。
彼女の強さは、この”正しさ”に由来するものではないかと、私は思う。
あくまで個人の経験則だが、自分が正しいと確信している人間は、強い。かつての私がそうだった。中学時代に私はいじめを受けていたのだが、当時の私には、「正しいのは自分だ」という確信があった。正義は私にある、私に負い目はない、間違っているのは嫌がらせをしてくるクズどもだ、という確信。その確信があったから、私は傷つかなかった。怖いものなんて何もなかった。本当に。私は何も怖れていなかった。
しかし高校時代、いろいろな出来事があって、私の”正しさ”は壊れた。それと同時に、周りの誰にも気づかれないまま、私の内部は壊れた。正直にいえば今もまだ、修復処理の途中だ。
“正しさ”を有する人間、もっと正確にいえば、自分は正しいと確信している人間は、強い。このときの"正しさ"をもっとわかりやすく言い換えれば、「信条」「主義」「倫理観」などとなるだろう。
このときの”正しさ”は、他者の承認を必要としない。承認者は自分自身だけで十分だ。”正しさ”を否定してくる人間がいても、関係ない。そんな奴は無視するか、ねじ伏せるかすればいいだけの話だ。
ただしこのような「自分は正しいという確信」はともすると、思想・行動を他者に押し付けることになりかねず、さらに個人の「自分は正しいという確信」を集団が信奉するようになれば、独裁体制が出来上がってしまう。かつてのヒトラーのように。
だからこの”正しさ”には、「自分のスタイルを他者に押し付けない」「防衛以外の目的で他者を傷つけてはならない」などの制限が必要になる。
しかしあまりにも律儀に制限を遵守することは、それはそれで社会にとって悪影響だ。たとえば、「差別はいけない」という思想を持つ人が差別の現場に居合わせたとき、彼または彼女は、「自分のスタイルを他者に押し付けない」という制限に従うべきだろうか?
誰もが制限を遵守して差別や暴力を黙認していたら、社会はいつまで経ってもよくならず、弱者は苦しみ続けるばかりだ。それにそのような状況の社会は、巡り巡って、私やあなた、もしくは身の回りの大切な人を踏みにじりかねない。
”正しさ”の所持やその制限の行使は、ケースバイケースの微妙なバランスの元に成り立つ。
そして、妥協や我慢、ときには勇気を以てこの微妙なバランスの保持に努め、 “正しさ”を有する人間は、強い。自分は一瞬一瞬を正しく生きている。負い目などない。そういう確信があるから。
強くなりたいのなら、”正しく”なればいい。
私が強さを取り戻すためには、”正しさ”を取り戻さねばならない。
強いとはどういうことか。この問題は本当にデリケートかつ悩ましいところで、数ヶ月後には私の考えが変わっている可能性もあります。また人によって考え方の差が激しいところでもあります。もしあなたが、「強さとは何か」「強いとはどういうことか」について真剣に悩んでいたら、このエッセイの感想欄や、他の人の意見を読んでみることをおすすめします。
「強さとは何か」という思想は多くの場合、「他者に押し付けてはいけない」という制限が付くものです。
また、多分本当なら、高校時代に何が起こって私の"正しさ"が壊れたのかも明記するべきだったのだと思います。しかし当時のことは私自身の記憶がぐちゃぐちゃであること、私にとってそれが大きな暗部でありまだ人目に晒すだけの感情の整理ができていないことを理由に、伏せさせていただきました。伏せた内容は、いずれ書くかもしれませんし、一生書けないかもしれません。
なお、この文章に着手したのは数週間前のことで、私自身は、中学時代のあの感覚――「自分は正しい」という感覚――を取り戻しつつあります。まだ完全ではありませんが。