☆第二十話 古風
今の時代、凧揚げに駒回しetc.は、およそお呼びがかからない子供の玩具である。ところが、僕の住む界隈では、どうしてどうして、これらに人気があるのだ。いわば、一種の隔離された昭和の佇まいが残る地域、とでも言えるだろうか。開発は都会のようにされないが、かといって今の時代にとり残されている訳でもない。現に、父さんの書斎にはパソコンがあるし、僕だってゲームソフトは知っている。しかし、気分が馴染まないのだ。じいちゃんという師匠の影響も少しはあるのだろうが、長閑な生活が合い、現代風は似合わないのだ。古風を悪く言えば、時代遅れである。この感覚を持った人を時代遅れというのなら、僕はそれで結構だ、と言いたい。そして逆に、あなた方は進歩したんですか? と問いたいくらいのものだ。確かに文明は進歩したようだが、人は進歩したのだろうか? と思えることも、しばしばだ。テレビで流れる、おぞましいニュースを知るにつけ、愛奈のようにオギャ~! と泣いて洩らすお人の方が偉いと思える。無邪気で罪がない…とは上手く言ったものだ。こんなことを思う僕だが、少しずつ世の汚れに染まって悪くなっていくのだろうか? …考えるだけでも、ああ嫌だ。じいちゃんの寒稽古は、そんな僕を戒めるのに役立っている。父さんは滝に打たれるようにじいちゃんの雷を忍んで邪気を払う。母さんは頭の秀でたキレ味で邪気を遠ざける。じいちゃんは一刀のもとに斬り捨てる気合いで近づけない。僕もじいちゃんに頼らない誓願を立てて神様や如来様を目指そうと思う。…これは生きてるうちは無理そうだが。いや、いやいやいや、その心構えで古風に生きていく人間がいたとしても、いいように思える。いや、いいに違いない。とかなんとか言ってるうちに、大きくなった愛奈に、『お兄ちゃんって、時代遅れね…』と笑われるかも知れない。しかしまあ、その古風な発想が理に叶っているなら、それもいいだろう。逆に、『お前は、世に染まり過ぎだ!』と、じいちゃんのように一喝できる人間になりたいと思っている。
第二十話 完




