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第6話 これは何の兆候

 姉から借りたランニングポーチに手を伸ばす。体が異常なくらいに水分を欲していた。

 普段から走っている美波になんとか合わせたので、少し喉がひりひりとこすれたように痛い。


 美波は手慣れた様子でスポーツドリンクで満たされた水筒を手にすると、汗を滴らせながら煽った。


(あ、そういえば)


 間接キスだ。


 既視感のある光景に、昨日の炭酸ジュースを思い出す。

 友人とならなんとも思わないけれど、昨日の相手はこの汐田美波選手だ。憧れの人とペットボトルを共有したというのに、少しも心が踊っていない自分にがっかりだ。


「ゆい、何ぼうっとしてんの」

「あ、ごめんなさい」


 三叉路に向かって走り出した美波の背中を追いかける。汗で張り付いた薄手のシャツから張りのある僧帽筋が透けていた。


(わたしもあんな風に……あんな風、って?)


 美波は憧れの人だが、自分の理想像ではない。今から走ったところで到底追いつけるはずもなく、もちろん彼女はコーチだ。


 一度帰宅してシャワーで汗を流し、学校に向かう。

 朝の部室には部長を除いた三人が集まっていて、部長は時刻ぎりぎりにやってきた。それから正しいトレーニングを指導してもらう。


(こんな風になりたいの? いや、なんだか違う)


 朝礼のチャイムが鳴るとそれぞれの教室に戻って真面目に授業を受け……。


 その間ずっと、わたしは考え事をしていた。

 ずっと、ずっと、昼休みを告げるベルに気づかなかったくらいに。一人の生徒がわたしに呼び掛けてくれて、今が昼だということを教えてくれてやっと目が覚めた。

 昼には昼練がある。


 階段ダッシュとメニューにはあったが、どこの階段で行うのかは聞いていない。わたしはE組の扉をノックして、できるだけ音を立てないようにおそるおそる引いた。


「あの……汐田しおた美波みなみさんはいますか?」


 以前と同じように、教室にいる生徒の視線がわたしに集まる。しかし皆、あの時のことを忘れているのか、はたまた顔を覚えていないだけなのかすぐに自分たちの話題へと戻っていく。


 唯一話しかけてくれたのは、あの時と同じ優等生然とした女子生徒だった。


「美波? 呼んでくるね」

「あ、はい!」


 美波、と親しそうに呼ぶ彼女は、クラスでの美波の友人なのだろうか。


 窓際の席へと彼女は近づき、頬杖をついて窓の外を眺めていた生徒の肩を叩いた。前から四列目に腰かける生徒──美波は顔を上げると、わたしに視線を向ける。美波ははっとした顔を見せて、扉の方へやってきた。


「ごめん、ぼんやりしてたわ」

「いえ……あ、ご飯は」

「トレーニングの後に食べるんでしょ? お弁当持ってくる」


 朝から上の空だったせいで、すっかり聞き逃していた。そういう約束だったようだ。


「わたしも持ってきます。待っててください」


 自分の席へ戻ろうとする美波に声をかけ、C組へと引き返す。母親から持たされている弁当バックを手にすると急いで美波と合流する。


「そういえば、さっきの人と仲いいんですか?」


 手っ取り早い話題として、ボブヘアに正しい制服の着こなしという美波とは真逆の生徒について持ち掛ける。美波は、初対面の人が見れば、不良生徒くらいには思うだろう。髪の色や、窮屈なのか緩められたシャツの襟とネクタイは、到底優等生には見えない。


「『仲がいい』……? どうかしら、幼馴染みだからそういうのはよくわからないわ」


 幼馴染みには独特の距離感があるという。

 仲がいいとか悪いとかでは片づけられない距離感は、一定の兄弟姉妹にもある。わたしと姉はまさにそれだ。他人から見れば仲がよさそうに見えるらしいが、わたしたちにその自覚はない。


「あの子……璃子りこは、スイミングスクールの娘なのよ」

「そうなんですか⁉」

「……。昨日カウンターで話したおじさん、いるでしょ。あの人の娘よ」


 勢い余った反応に、美波は少し動揺を見せながら落ち着いて返してくれる。


 なんだか調子がおかしい。美波との接し方がから回っている気がする。

 その異変に美波も気づいたのだろう。

 美波はわたしの正面にまわると、両手を使ってわたしの頬を挟んできた。


「……にゃんでふか(なんですか)?」


 むぎゅ、と顔が圧迫されて活舌が悪くなる。


「ゆい、今日はなんだかおかしいわよ。寝不足?」


 ちゃんと寝たはずだ。身体にだるさもなく、朝のランニングも好調だった。

 ずっと考えている。憧れの人だった美波との関係が近くなって、ときめかなくなっている。こうやって頬を挟まれている今も美貌びぼうが迫っているというのに手汗をかいたりしない。

 それが嫌だった。


「今日はプールに入るの禁止」

「えっ⁉」

「プールは危険なの。ぼんやりしてる人を入れるわけにはいかないわ」


 ただでさえ遅れてるのに、それは困る。


「大丈夫よ」


 わたしは焦りを隠しきれていなかったのだろう。昼休み、人の行き交う廊下でぎゅっと抱きしめられる。

 けれどまったく胸がときめかない。それこそ、たくさんいる友人のうちの一人のように。


(なんだろう。自分が気持ち悪い)


「私も調子がよくない日は一日基礎トレしたわ」


 すっと前身のぬくもりが離れていく。


「だから、私を信じて」

「……はい」


 少し大きな手に握られて、わたしはうつむいた。


「こんな往来で何やってんの? キモいんですけど」


 後ろからかけられた声にわたしはびくりと振り返る。そこにはコンビニのビニール袋を片手にした夏月が、顔をしかめて立っていた。

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