第4話 はじめての計測
勝手知ったる顔でずんずんとカウンターへ向かう美波の陰に隠れる。
不特定多数の人間をターゲットにしたような場所は少し苦手だ。
けれどどこからか漂ってくる塩素の匂いに、幼いころを思い出した。姉と同じようにスイミングスクールに通っていたときのことだ。結局水面に浮かぶこともできず、辞めたわけだけど。
「おじさん。今日から毎日、端の二レーンを貸してくれない?」
美波は馴れ馴れしく、カウンターの男性に話しかけた。
「おう、久しぶりだなぁ美波ちゃん。何時から何時までがいい」
男性は中年、わたしの父親と歳が変わらないように見える。
美波は部長を振り返って、鴎ヶ《が》岬高校の部活動時間を尋ねた。部長は少し視線を外すと、すぐに顔を正面に戻して「四時から七時までかな」と答える。
「じゃあ、四時から八時までで」
(なんで聞いたの?)
部長の答えとは異なる時間でカウンターに告げる美波に心中で突っ込んでしまう。
そして美波は鞄から何かを取り出しながら、壁から下がっている赤い更衣室のマークを指さした。
「先に着替えてきて。プールサイド集合ね」
昨日慌てて乾かした水着を引っ張り出す。更衣室には三人だけで換気扇の音だけが響いていた。意外だったのは部長も夏月も水着を持ってきていたことだ。
わたしは昨日と比べて少しだけ縮んだ水着に足を通しながら考え事をする。それから備え付けの鏡を借りて水泳帽をかぶる。耳の横から髪の毛がはみ出て仕方ないが、ある程度収めることが出来たら諦めてゴーグルを手にした。
鏡越しに夏月がプールサイドへ出ていくのを目にする。
わたしは彼女を追いかけながら、ゴーグルを一度装着して額に持ち上げた。
「夏月ちゃん、着替えるの早いね」
「ちゃん?」
「……。夏月、着替えるの早いんだね」
呼び変えてみたが、そっけない言葉すら返って来ない。
夏月は黙ってシャワーのボタンを押した。わたしはつられて上を見上げてしまって、頭上から降り注ぐぬるい水で顔面がびしょぬれになってしまう。
「あんた、それでも水泳オタク?」
先にシャワーを潜り抜けた夏月は薄い胸を張って腕を組んで言った。
「えっと、まあ? 見るのが好きだっただけで、実際にプールで泳ぐなんて久しぶりで……」
スイミングの経験がそれなりにある人は、わたしみたいにシャワーを見上げて顔面を濡らすなんて失態を犯さないのだろう。申し訳ないやら恥ずかしいやらで、苦笑いをして答える。
「なに言ってんの? 話通じてないんですけど」
理不尽だ。なぜ突然キレられなくちゃいけない。
夏月は顔の水滴を拭うと、さっさとプールサイドに立つ。そしてしっかりとストレッチを始めた。プールにはすでに人が入っていて、スイミングスクールとしてきちんと機能していることを知る。
(わたしもストレッチしないと)
あとから部長もやってきて、三人横並びになって体を伸ばす。怪我をしないために、これは重要なことだ。
そこへジャージに着替えた美波が現れた。なんだかまとっている空気が違う気がする。引き締まったような──一触即発というわけではないが──形式ばったような、そんな空気。
美波も同じように軽く足の筋を伸ばすと、それじゃあと手を叩いた。
「みんなの専門は何か教えてもらいます。大会に出るなら、種目を把握しておかないといけないから」
そういって美波はわたしをちらりと一瞥する。
「ゆいは練習時間も足りないし、ターンもできないから50Mの自由形だとして」
ぐさ、と躊躇なくわたしの心を刺してくるが、間違ったことは何一つ言っていない。それが余計に刺さるところもあるが。
「部長は何を泳ぐんですか? よかったら水泳の歴も」
「私は200Mの平泳ぎ。小学校の間はスイミングスクールの選手クラスにいたんだけど……それからはちゃんとした指導を受けてないの」
ふむふむ、と美波は相槌を打つ。
「じゃあ、そっちの……小鹿は?」
「……」
「100M自由形?」
ぶすくれて答えない夏月の代わりに、美波が言う。夏月は少し癪に障ったのか眉間にしわを寄せた。
その種目は完全に選手時代の美波とかぶっている。
「あんた、さっきから私に敵意むき出しよね。それで思い出したの」
美波は腕を組むと、軽く片足を伸ばして貧乏ゆすりを始める。
「小鹿夏月。去年のJOCの春季大会のリレーで自由形を泳いでた選手ね?」
「……だから何」
「まだ噛みつくつもり?」
夏月の狂犬っぷりに、美波はため息を吐いた。
空気が急激に冷え込んでいく。
わたしは過去に見た動画に、確かに夏月の姿があったことを思い出す。たしかその春季大会で惜しくもトロフィーに一歩届かなかったはずだ。そのうえ試合後のインタビューで、不勉強な記者に小学生と勘違いされてキレていた。
「よかったじゃない。私が引退したからやっと個人で泳げるわね」
夏月は美波の挑発的な言葉に顔を真っ赤にする。つかつかと美波に迫ると彼女のジャージを掴み上げた。
「あんたなんかの指導を受けなくても、あたしは優勝できる」
「私のタイム超えてから言ってくれない?」
美波はポケットからストップウォッチを取り出すと、夏月の目の前にかざす。
「思い上がりも甚だしいわ」
そしてスタート台を指さした。夏月は美波の指先を追って、苛立ちを隠さずそこに足を掛ける。
切り替えを促すように、美波はもう一度手を叩いた。
「というわけで、今からみんなのタイムを計ります。大会に出場する種目で泳いでもらうので……小鹿、」
「早くはじめろっての」
「あんたは今から100Mのフリーを泳いで。それでどちらが上か、すぐにわかるわ」
夏月は顔をしかめると、クラウチングスタートの姿勢をとる。台の前方にひっかけている右足の指先がぐっと丸まった。
きちんと見ていなかったので気づかなかったが、夏月もすごく引き締まったアスリートの身体をしている。背中の筋肉のつき方が普通ではない。身長が伸びなかったのはそのせいか、と考えているうちにホイッスルを持った美波がサイドに立った。
部長と二人、緊張した空間で合図を待つ。
「|take your marks《位置について》」
──ピッ!
ホイッスルの音に合わせて、夏月はきれいな軌道を描いてプールに飛び込む。水しぶきが上がって、サイドにいたわたしの顔に跳ねた。しばらく夏月の身体が沈んでいるうちは、水面が規則正しく揺れている。
かと思うと、すぐに顔が飛び出し力強いストロークが始まった。
(美波コーチに認知されてるだけあって、すごく速い……!)
息をするのすら忘れてしまう。性格から荒々しい泳ぎなのかと思いきや、すごく繊細でスタイリッシュだ。
50M地点にたどり着くと、身体をしなやかにくねらせてターンに入った。
わたしは無意識に身を乗り出してしまう。
そして泳ぎも終盤。姿勢のぐらつきが少し感じられてきたところで、ストップウォッチのストップボタンが押された。
「56秒92」
顔を上げた夏月はゴーグル姿のまま拳を水面に叩きつける。下唇を強く嚙み締めていて、悔しさが伝わってくる。
「55秒台に持っていけたらいいわね」
たしか美波の最高記録は54秒87だ。夏月でも十分早いのだが、美波はその上を行く。夏月はプールに気持ちが引きずられているのか、プールサイドへ上がるのに少しもたついた。
次は部長だ。スタート台に手をかけ壁に足をつく、グラブスタートの姿勢を作る。
そして今度もホイッスルに合わせて計測が始まった。夏月ほどではないが、長年の蓄積を感じさせる安定感のある背泳ぎだ。
200Mはターンが三回も必要になる。さすが重要性は身に染みているのか、まるで魚のようにくるりと素早く体を翻し、その上キック力もある。
部長は美波や夏月を比べて、肉付きのいい体をしている。大きすぎるというほどでもないが、胸にも尻にも存在感があるのだ。だというのに、水はするすると部長の体を避けるように流れている。ちょっとした錯覚かと疑った。
(……これって)
わたしはその場にしゃがみこんで頭を抱えた。
(素人レベルなの、わたしだけなんじゃあ……)
小学校の頃選手クラスにいたと語っていたが、ここまでだとは思っていなかった。皮膚が厚いのかわかりづらかったが、その下にはしっかりとした基礎的な筋肉がついていると思われる。
わたしはおそるおそる自分の太ももをつねってみた。一般的な女子高校生よりは、体力はある方だと自負しているがこれは。
「次、ゆい」
いつの間にか、部長の計測が終わっていた。タイムは聞き逃してしまったが、きっと全国大会の標準タイムには引っかかりそうな速さだったのだろう。部長の表情がそれを物語っている。
「あ、あの美波コーチ」
わたしは水の中に入りながら、ストップウォッチを構えている美波を見上げた。
「昨日のシミュレーション、してもいいですか?」
「いいわよ」
すんなりと許可を得て、わたしはうつ伏せの状態でプールに浮かびあがった。
美波に触れられたへそより少し上に力を入れて、軸はまっすぐに。手を上で揃えたら……息継ぎのやり方も思い返しながら実践する。
「そこからかよ」
夏月の呆れた声が聞こえた。けれどすぐに冷静な美波の声が降ってくる。
「あんたは水泳を始めて一日でここまで泳げたの?」
「は? 一日……って」
「ゆいちゃん、今日が二日目なの……?」
夏月に続いて、部長までもが驚きの反応を示す。
わたしは水面から顔を上げるとスタート台に手を掛けた。
「じゃあいくわよ。ホイッスルで泳ぎ始めて、向こうにタッチしたらタイマーストップ」
わたしは頷く。
美波はホイッスルを構えると前二人と同じように掛け声を口にした。
ホイッスルの音がプール室に響くのと同時に、わたしは壁を蹴ってクロールの基本姿勢に落ち着いた。ホイッスルの反響音が水に潜ったことでぷつりと遮断される。
(大丈夫。さっきと同じことをやればいいの)
水中から指先が飛び出したことに気づくと、足を交互に小さくばたつかせてストロークを始める。
きっとわたしの泳ぎはすごく不格好なんだろう。でも今は向こう側を目指すだけだ。
水面から顔を上げる。なぜか昨日よりも速度が出ている気がする。
(あ、こうすれば)
わたしは掻く手を、水を後ろへ押しやるように動かした。ぐん、と前に進む力が大きくなる。
思わずこぽ、と口の端から空気が漏れた。
(いけない、気を引き締めなくちゃ)
喜びで緩んでしまった口元を引き締めて、また空中へ空気を求めて顔を出す。力んでいるのか体力の減りが早い。そのうえ体を押しつぶすような水圧に呼吸が苦しくなる。
そうだ。昨日泳いだのは25M。今泳いでいるのはその二倍だ。
上手く泳げないことがすごくもどかしいが、一心不乱にゴールを追い求める。
そしてひたすら手足を動かしているうちに、搔いていた右手が壁にぶつかった。
「っは!」
水中から出した顔から、ぽたぽたと水がしたたり落ちてゆく。
そこには向こうのスタート地点にいたはずの美波が、しゃがみこんで私の顔をのぞき込んでいた。美貌に見つめられて、わたしは少しだけドキドキしながらグーグルを外して顔を拭う。
そして美波はタイムで止められたストップウォッチの画面をこちらに向けてきた。
「37秒98よ」
それが一般的な女子高生のうちで早いのか、遅いのかわたしにはわからない。少なくともわたしにわかるのは、そのタイムでは地区大会進出すら難しいということ。
そして──。
夏月と部長の驚いた顔、美波の満足げな表情から、どうやらカナヅチ卒業二日目にしてはよくやったらしい、ということだった。




