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第3話 全国大会への道

「どういうことよっ」


 顧問こもんはたくさんの退部届を広げて美波に突きつけた。


「みんな汐田しおたさんが原因だって言ってたわよ?」


 美波みなみはつんと澄まし顔で、怒っている顧問を見下ろしている。

 どうして張本人でないわたしの方が肩身狭く説教を聞かなければいかないんだろう。


「あの程度で逃げ出すなんて、はじめから競泳をやる気なんてないんです」


 けれど美波の率直な言葉に、わたしは思わず頷きそうになった。


 入部して間もないころ、インターハイに向けて全力でサポートすると自己紹介をしたら、小馬鹿にしたように笑われたのだ。ここは水泳部じゃなくて水遊び部なんだ、と落胆したのも記憶に新しい。


「ゆいは?」


 意識の外から質問を投げかけられて、はっと顔を上げる。


「ゆいはあのメニュー、どう思った?」

「……」


(どうって……そんなの)


「……すごくハードで、到底こなせそうにないと思いました」


 美波が腕を組む。わたしはびくびくとしながらも続きを口にした。


「でも、美波コーチが言うなら間違いじゃないのかなって。はじめから完璧にはできないと思うけど、できるだけ頑張ろうって……思いました」


 わたしは言葉尻が弱々しくなりながらも、美波の表情をうかがう。美波の硬かった表情にふっと笑みが差した。


(あ、その顔……)


 トロフィーを手にしているときですら見せなかった、希望を含んだ笑顔はとても素敵だ。わたしのコーチになる、と言ってくれた時と同じ表情。


 もっと見たい。


「ゆいはこう言ってますけど」

「……はぁ。あのね、部活は四人切ったら廃部なの」


 顧問は無数の退部届をデスクの中に収めると、頭が痛むのか額を抑えた。


「四人いなかったら、部員を集めることになるわよ」


 すごすごとわたしたちは教員室を後にした。きっと教師たちの中では問題児のレッテルが貼られていることだろう。


 わたしは記憶をたどりながら、部室にいた人数を指折り数える。部長は残ってくれそうだし、あともう一人、わたしが入部したときと同じように浮いていた同学年の生徒があの部屋にいたはず。


「はぁ」


 四本目の指を折りたたんだところで、隣から呆れたようなため息が聞こえてくる。美波は塩素で色落ちした茶髪をがしがしと掻いて、もう一度深い息を吐いた。


「なんで私がやってきたトレーニング内容を言っただけで、あんなふうに言われなきゃいけないの?」


 わたしは美波のぼやきに思わず目を瞠る。


「美波コーチがやってたメニューなんですか?」

「当たり前でしょ。自分ができないことを人にさせるつもりはないわ」


 自然と頬が緩んでしまう。憧れの人のトレーニングメニューをさせてもらえるなんて。


 わたしはすっかり締まりがなくなった表情で、部室のドアノブをひねる。室内には予想通り二人。

 二たす二で四。ずいぶん減ってしまったが廃部は免れそうだと思う反面、こめかみから汗を流している部長の姿に驚いた。いったい何を。


「汐田さん、とりあえず言ってた腕立てとスクワットやってみたの。一セットだけだけど……結構大変ね。でもやり遂げられるようになったら、必要な筋肉がついてるんだろうなって思う」


 美波も例外ではなく、わたしと同じように目を見開いている。

 その奥にはいる中学生にでも間違えそうなほど小柄な女子も、丁寧に腕立てを続けていて。


「私は三年部長の春川はるかわ梓紗あずさ。もう一度本気で水泳をやりたくて……」


 部長は美波に手を差し出すと、しっかりと握手を交わした。


「引退の夏までだけど、よろしくお願いします、コーチさん」

「……よろしくお願いします」


 美波は戸惑いながらも、沈んでいた感情を少し取り戻したように表情を柔らかくする。


「それで……そっちのちびっこいのは?」


 質問は誰ともつかず投げかけられた。美波も、部屋の隅で不愛想にも黙々と腕立てする彼女が気になったのだろう。しかし同学年ではあるが、クラスが違うので名前をよく覚えていない。


 しどろもどろしていると、奥の小柄がむくりと体を起こした。彼女はいつ着替えたのか初めから着替えていたのか体操服姿で、シャツで首の汗を拭っている。


「三セット目に入ろうとしたところ」

「違うわよ。名前よ、名前」


 くせ毛の小柄は唇を尖らせて名乗るのを少し渋った。しかし、あきらめたのか小さく名前を呟く。


小鹿おが夏月なつき。一年B組」

「おが?」

「小さい鹿。バンビって呼んだら殺すから」


 美波の聞き返しにうんざりとした調子で漢字まで教えてくれる。

 バンビとは誰もそんなことを思っていないが、嫌な過去があるのだろうかと思っていると、美波は何かを感じたのか「ふうん」と余韻を残したような返事をした。


(もしかして知り合い?)


 わたしが気づいていないだけで、美波に並ぶような選手だったのかもしれない。


 考え事のせいでぼんやりと立ち尽くしていると、美波に強く肩を叩かれて現実に戻ってくる。


「え、どこかに行くんですか?」


 気づけば部長も夏月もせいかばんに荷物を詰めている。


「学外にね。ゆいも荷物持ってきて。水着、忘れてないでしょうね」


 美波に訊かれて、わたしは今朝かばんの中に洗った水着を入れてきたことを思い出した。水泳帽とゴーグルも忘れていないはず。それと替えの下着も。


「十分後、校門前に集合ね。遅れたら承知しないから」







 校門にやってくると、美波は屈伸をして待っていた。先に着いていた部長も美波の様子をうかがいながら同じようにアキレス腱を伸ばしている。


(何かそういう儀式?)


 わたしはとりあえず理由を聞かずに部長の隣で足を伸ばした。肩を回したり足首を回したり、軽い準備運動のようなものをする。


 最後にやってきたのは夏月で、着替えていたので仕方ないのだが、十分を過ぎていた。けれど美波は少しだけ睨むと、黙ってその場で駆け足を始める。


「えっと、何をするつもりなの?」


 部長は戸惑いを見せながら美波に尋ねた。


「走ります」

「え?」

「目的地まで走ります」


 簡潔に言うと、美波はすぐに走り出す。

 美波は驚くほど速かった。水の中だけじゃなくて、陸でも早いなんて。


 わたしたちも慌てて後ろを追いかける。

 目的地がどこかすら知らないのに、見失ってしまったらはぐれてしまう。

 その焦りだけが、三人の足を動かさせていた。


 住宅街を抜け、商店街の入り口が見えたかと思うと直角に曲がる。背負っているリュックが背中で跳ねていつもよりも疲れを感じた。


(まだ走るの⁉)


 そこからマンション群を過ぎると再び住宅街らしき場所に出る。しかしそこは学校の周辺と違って、そこそこ大きな一軒家が立ち並んでいる。高級住宅街ほどではないが、そういった地区だ。

 困ったことに上り坂続きだ。なけなしの体力で足を奮い立たせる。


 その中にぽっかりした空間を見つけて、ふとその中央に佇む建物を見上げた。

 一階建てのそれはずいぶんと大きく、公民館のような質素な造りをしている。けれど階段や石畳がやけにきれいだ。建物の前には広い空間があって、いこいの場にでもなりそうな雰囲気があった。建物に沿うようにドリンクの自動販売機と……。


「……アイスの自動販売機?」


 美波は駆け足を止めると、敷地の入り口になる階段を上る。三人も続いて息を切らしながら上がった。

 建物にまっすぐと向かっていくので、黙って後ろをついて歩く。

 そして建物に張り付けられた金属プレートの文字で、やっとここがどこなのかを理解した。


「スイミングスクール⁉」

「ここなら温水、室内、シャワーもなんでも完備。夏以外でも快適に泳げるでしょ?」


 美波はサブバッグを肩に回して、迷いない足取りで建物の中に入っていった。

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