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第2話 前途多難すぎる!

「入部します」


 水泳部の顧問こもんである若い女性教師は、美波の手に握られている紙を三度ほど見直してもなお、真偽を疑っていた。


汐田しおた美波みなみは水泳部に入部します」


 意味が通じていないと思ったのか、美波はもう一度丁寧に申し込む。わたしはその隣でもじもじとしながら縮こまっていた。


 昼休みのため、今いる教員室には教師がたくさん集まっていた。皆、地元のエースが競技に戻る瞬間が気になるようで、ちらちらと視線を寄越してくる。


「汐田さん、先々週に勧誘したときはすごく嫌がっていたわよね?」


 顧問は念を押して美波に尋ねた。

 そんなエピソード、わたしは知らない。けれど美波の表情をうかがうかぎり本当のことらしい。


「気が変わったんです」

「じゃあ、かもめヶ《が》さき高校の選手としてインターハイに……」

「いえ、それは」


 美波は顧問の言葉をさえぎって、わたしの肩を引き寄せた。顧問に突き付けられる格好になり、わたしはへらりと締まりのない笑みを浮かべるしかない。


「私はコーチとして、花筏はないかだゆいを《《全国大会》》へ連れて行きます」


「……」

「……」


「「ええ~~~~~~~~~~っ⁉」」


 しばらくの沈黙ののち、わたしと顧問の驚きの声が教員室中に響き渡った。


(全国大会なんて、初めて聞いたけど⁉)


 彼女の言う全国大会には支部予選、県大会、地区予選などの壁が立ちはだかっていて、それらを突破しなければ出場の権利は得られない。


「どうして花筏さんも驚いてるの?」

「わたしも全国大会なんて初めて聞いて……。美波選手、どういうことですかっ⁉」

「美波選手じゃなくて、美波《《コーチ》》でしょ」

いひゃい(いたい)いひゃい(いたい)れす(です)ごめんなひゃい(ごめんなさい)みにゃみ(みなみ)こーち(コーチ)


 美波に頬を強めにつねられて、慌てて訂正する。


 しかしわたしはすでに立ちくらみそうになっていた。昨日まで泳げなかった人間が全国大会なんて。

 けれど美波はどうやら本気のようだ。あの真剣なまなざしでは、でたらめを言っているとは思えない。


「つまり……花筏さんはマネージャーから選手に転向するってこと?」

「あー……はい、そうです」


 そして顧問はふうむ、と顎に手を添えてうつむいた。しばしのシンキングタイムに、わたしはそわそわしてしまう。

 なんだかとんでもない話になってきた。


 すると顧問は突然顔を上げて、名案とばかりに指を鳴らす。


「せっかくだから汐田さん、ほかの部員にも軽く指導してくれない?」

「えっ」


 わたしは思わず声を漏らしてしまった。美波を独り占めして練習できると思っていたのに。


「わかりました」

「えっ⁉」


(承諾しちゃうの⁉)


 わたしには春の寒いプールで泳がせたくせに。むっと頬を膨らませて隣の美波をにらみつけるが、彼女は依然として涼やかな表情でこちらに目もくれない。


「それじゃあ、この時間帯は部室に部員が集まってるはずだから」


 顧問は教員室にかけられた時計を見上げながら言う。


「挨拶してきてね」


 納得いかないが、美波はすんなりと頷いてしまった。







「そういうわけで今日からこの水泳部のコーチをやることになりました、汐田美波です。専門はクロールとバタフライ。JOC(ジュニアオリンピック)で複数回の優勝経験があります。よろしくお願いします」


 こういった功績を隠さない、それでいて飾らないところは選手時代からずっと好きなところだ。インタビューを受けても謙遜することなくまっすぐに答える。


 部員たちは突然現れた有名人に目を丸くして注目していた。この時期は泳げないので、特にすることもなく部室で談笑していたらしい。

 そんな彼女らを美波は鋭い目つきで見下ろすと、ごそごそとポケットの中から紙切れを取り出した。


(なんだろう)


 わたしは少しだけ体を傾けて紙をのぞき込む。そこにびっしりと書き込まれた文字に青ざめる。


(まさか)


「では、今日から始めるトレーニングメニューについて先に伝えておこうと思います」


 部室の空気が凍り付く。上級生の一部は眉をひそめていて、横入りしてきたガチ勢を鬱陶しそうに見上げていた。


 ああ、まずい。

 わたしが美波の肩を叩こうかと逡巡するうちに、心が決まっていた美波の方が先に口を開いてしまう。


「まず毎朝、学校からかもめ公園、かもめヶ《が》さき小学校を経由したルートでランニング。目標タイムは三十分。それから部室で腕立て、スクワット10回を二セット。昼は一階から四階まで階段ダッシュを二セット。放課後は朝と同じ腕立てとスクワットに加えた……」


「あの……」

「なに」


 ヒートアップした美波を止めたのは、物腰柔らかな上級生。この水泳部の部長だ。読み上げている途中でさえぎられたため、美波は顔をしかめて部長に嚙みついた。


「みんな、帰っちゃったみたい」


 部長の言葉に頷いて、わたしはためらいながらもほとんど空になった部室を指してみせる。美波は少し大げさに顔をしかめて、理解不能だという風に首を横に振った。


──ぴーんぽーんぱーんぽーん。


 そんな冷え切った室内に、間抜けなチャイムが鳴り響く。しかしその直後に鋭い機械音が耳を貫いた。

 皆して耳をふさぎ、室内の天井に取り付けられたスピーカーを見上げる。


「水泳部、汐田美波ッ! 今すぐ顧問のところまで、来なさぁいっ‼」


(やな予感……)


 美波はお怒りの呼び出しに、盛大な舌打ちを放った。

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