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第17話 県大会の結果はいかに。

 ゴーグルを目に下ろす。しっかりと密着させて、暗い視界で揺らめく水面に目を向けた。

 そして次は右側の選手を。


 鷗ヶ岬高校の生徒は最終泳者だ。この八人の結果で、50M自由形の地区予選大会進出メンバーが決まる。

 幸運なことに、わたしと美波は中央に近いレーンだった。これでは波の影響を言い訳になんてできない。


 クラウチングスタートの構えをとる。全身に心臓の振動がはっきりと伝わっていた。


(こんなに緊張するタイプだっけ……?)


 右隣を盗み見る。

 美波はまっすぐ正面を見据えていて、わたしは無理やり現実に引き戻された。


(集中!)


「|take your marks《位置について》」


 機械の声がプール中に響き渡る。

 足の指先に力がこもった。


(──来る!)


──ピッ!


 それは美波が吹き鳴らしてきたものと、そっくりだった。

 聞きなれたホイッスルの音に、わたしはいつも通りの反応速度で膝を伸ばす。世界がゆっくりと沈んでいった。


 水面に映る自分の顔を捉える。それもつかの間、指先はきれいに着水していた。

 しなやかに体をくねらせ、水面近くまで上がる。はじめの呼吸で見えた美波はもうすでにかなり前を進んでいた。


 わたしの指先が美波の腹の位置。


 負けるものかと、意気込んで空気を目いっぱい吸った。そして指先にまで神経を行きわたらせる。


 美波の泳ぎが収録されたビデオが脳裏に浮かぶ。指先に力を込めて、掻く──!

 緊張していることは丸わかりだった。心臓から波紋が広がっているみたいだ。けれどそれは適度にわたしを高ぶらせていた。


 負けるわけにはいかない。


 絶対、勝たなければいけないのだ。


 美波のために?


(いや……自分のために!)


 たし、と指先がつるりとした壁に触れる。壁ではない。タイムを感知する機械だ。


「ぷはっ」


 顔を上げた先には、すでに水泳帽を外して高い位置にある表示盤を見上げている美波がいた。

 視線を追う。


──二着、レーン4


 わたしは思わず飛び込み台の番号を確認した。おまけにレーン数まで指さしで数える。


「……28秒24」


 最高記録更新。

 けれどその上には、憧れの名前があった。

 表示が切り替わる。全選手分のタイム表示だ。


「……っ、ゆい!」


 美波がコースロープから腕を出して、わたしの首を引き寄せた。姿勢を崩しかけたが、その体は厚みのある体に抱き留められる。

 わたしはしばらく呆然としてその表示を見上げていた。


 六位。

 県大会突破だ。


 しかし、その上に鎮座する圧倒的なタイムから、わたしは目が離せなかった。


 プールの水が波打つ音、美波の涙ぐんだような歓喜の声、鷗ヶ岬の応援席から聞こえてくる驚き、すべてが遠のいていく。


「ゆい?」


 はっと、わたしは意識をその場に戻した。

 いつの間にか美波はプールから上がっていて、手を差し伸べてくれている。


 わたしはぐっと表情をゆがめて、その手を取ることができなかった。







 がつん、と額をタイルに打ち付ける。会場に備え付けられているシャワー室の壁に。


「……っ」


 そしてそのままずるずるとしゃがみこんだ。じんじんと後頭部にまで響く痛みは今の感情を収めるには足りない。

 シャワーの水流に紛れてしまって、自分が今泣いているのかすらわからない。


「ゆい?」


 美波がわたしを呼んでいる。

 なんで今探しに来るの? 始まる前に探していた時は、どれだけ呼んでも出てこなかったくせに。

 わたしは六位。ギリギリ県大会突破だった。

 県大会通ったんだから喜べって言われても。


「……喜べるわけないじゃん」


 美波はわたしのコーチをやりながら泳いでいた。そのうえ、わたしたちの前ではクロールを泳ぐ姿を見せたことはなかった。

 だというのに、美波は当然のように一位をもぎ取っていった。

 二位と大差をつけて、膝のハンデとブランクをものともしない頂点に君臨するそのタイムを見せつけながら。


 わがままを言っているのはわかっている。わたしは始めて一ヶ月で県大会を乗り越えたわけだ。インタビュアーに囲まれてもいいと思う。

 でも。


「ゆい、ここにいるの?」


 カーテンの向こう側から声が聞こえてくる。細い足が下から覗いていた。シャワーを使っているのはわたしだけなので、尋ねながらも確信しているはずだ。


「どっかいって」


 大人げないのはわかっている。

 でも、こっちの気持ちもわかってよ。


「ゆい──」

「どっかに行ってよ!」


 しゃっ、と小気味いい音ともに明かりが差し込む。

 個室を仕切るカーテンにぶつかっていた荒い水の粒は着地点をタイルに変えて、破裂音のようだった音が軽い音に変わる。


「通過したじゃない。もっと喜びなさいよ」


 美波の鋭い言葉が後頭部に降りかかった。しゃがむわたしを乗り越えて、美波はシャワーの蛇口を止めてしまう。


「あんたの下には何十と届かなかった人がいるのよ」

「じゃあ、美波もわかってよ!」


 わたしは勢いづいて立ち上がった。美波のジャージに覆われた肩をがしっと掴んで詰め寄る。


「わたしは美波に負けたんだよっ。六位がなに⁉ わたしは春からずっと練習してきた。美波は最近思い出したように練習を始めたんだ、でも二位とあんなにタイム差をつけて一位になったんだよ!」


 思い出したように視界がにじむ。ぽろり、と大粒の雫が目から零れ落ちた。

 やっぱり泣いていたんだ。


「こっちの気持ちもわかってよ!」


 でも美波は私の意に反して口元が緩んでいた。


「なんでこんな時に笑うの⁉」


 カチンときて肩を揺さぶる。

 子供みたいにぼろぼろと泣いて、うつむいた。

 自分だって短期間でカナヅチからこの成績を叩き出せた自分をほめてやりたい。でも自分が許さないのだ。美波に負けているという事実を。


「ねえ、ゆいはいつの間にそんな高慢になったの?」


 美波の指先がわたしの顎に触れる。そしてそのままくい、と持ち上げさせられた。

 美波はすごくうれしそうだ。


「たかだか始めて一ヶ月程度で、私に負けたことが悔しいって?」


 わたしは閉口する。


「嬉しいじゃない。あんたは私に出会った日『憧れだ』って言ったのよ」


 ぴくり、と眉が震えた。

 そうだ。わたしにとって美波は憧れの存在だった。手の届かない場所できらめく星。

 いつからだろう。わたしはいつの間にか地球を飛び立って星を捕まえようとしていた。


「……」

「自分に厳しいことを悪いとは思わない。でも自分を褒めてくれる言葉は受け取っておかないと、言ってくれる人はどんどん減っていくものよ」


 美波は破顔する。

 褒めてと言ったのはわたしじゃないか。まったくもって矛盾してる。


「あーあ、なんか泳ぎ足りなくない?」


 美波が大きく伸びをしながら言った。ジャージの隙間から濡れた水着が覗いている。

 にや、と向けられた笑みに、わたしはつられて頬が緩んだ。


「リレーも負けられないもの」

「……部長と夏月は?」

「二人とも明日なんだし、すぐにでも泳ぎに来るわよ」


 200M背泳ぎと100M自由形の二種目は明日行われる。それからメドレーリレーも。

 わたしは乱暴に目元を拭うと、美波の胸上を手のひらで強くたたいてシャワー室を出た。

 いたっ、と声が聞こえてくるが、この声はすぐに笑い声に変わってわたしの背中を追いかけてくる。そして背中に同じ痛みが響いた。

 わたしは思わず吹き出して笑う。


「ねえ、ゆい」

「なに」

「水泳、楽しいでしょ?」

「うん。……ねえ、美波」

「なによ」

「水泳、楽しいよね?」

「もちろんよ」


 まだ県大会。乗り越えるべき壁はまだまだある。

 わたしと美波の水泳一色の高校生活は始まったばかりだ。

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