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第16話 いざきたる、県大会!

 そして、大会前日。

 美波の指がストップウォッチの頭を押す。向けられた画面には最高記録が刻まれていた。見間違いではないことを信じてゴーグルを外してもう一度。


「28秒67よ」


 美波が差し出してきた手のひらに、わたしはハイタッチをする。


「これだったら……!」

「県大会通過は視野に入ってきたわね」


 30秒を切っただけではなく、昨年度の県大会通過最低ラインを超えた。まさかここまで上達するとも思ってもみなかった。これなら全国大会も夢じゃないかもしれない。


(美波を信じてよかった)


 美波も出る四人でのリレーもそれなりに順調で、運が良ければ勝ち上がれるかもしれないらしい。

 練習もほどほどに、わたしはプールから上がった。


「明日はどうする?」

「どうってなんですか?」


 着替えながら質問を繰り出す部長に美波が反応する。

 美波も同じ更衣室で着替えるようになって、四人の距離はますます縮まった。そうするようになってからすべてが好調だ。


「みんなで会場まで向かうか、会場前で集合にするか」


 県大会は明日。わたしは電車に乗って向かう予定だ。


「あたしはパス」


 夏月は相も変わらず素早く着替えを済ませており、鞄の中をまさぐりながら答えた。


「なんで?」

「車で送ってもらう」


 わたしの問いに夏月は簡潔に答えた。そして顔を赤くしてそっぽを向く。


「昔、電車で行って迷ったの。も……もう高校生だし、あたしは自分で行くって言ったんだけど、パパが聞かなくて」


 娘離れできていないんだなぁと思うのと同時に、夏月のギャップがほほえましく見える。


「そ、そういうあんたらは迷わない自信あんの?」


 夏月は顔を赤くしたまま尋ねてきた。わたしはふむ、と天井を見上げる。


「わたしはそういうミスやったことないけど、美波はどうなの?」

「私もすごく朝早いからパス」

「大会前のルーティン?」

「そう」


 よく知ってるわね、と視線を寄越される。

 もちろんだ。ずっと美波のことを追いかけているのだから、インタビューで答えていた大会前のルーティンくらい知っている。

 たしか朝五時に起きてギリギリまで泳ぐのだ。そのあとも基本的には一人で過ごす。手続きは保護者に任せて、集中モードに入る。

 リレーとはいえ、大会の名を冠するものに違いはない。


「じゃあ、会場前集合にしましょ」


 そうしてわたしたちはいつも通りの時間に、みな少しずつ浮足立った様子で解散した。







 姉は相変わらずリビングで、つまらなさそうな顔でテレビを見て……いなかった。目線は手の中のスマホに落とされている。スマホからはがちゃがちゃと音が漏れていて、何か動画を見ているらしい。

 わたしはその横を静かに通り過ぎようとした。しかし姉は動画に目を向けたまま私の名前を呼ぶ。


「なに?」

「汐田美波、インハイに出るんだって?」

「なんで知ってるの?」


 ほら、と姉が見せてくれた動画のタイトルには『帰ってきた汐田美波。心境の変化の理由とは──?』と煽り文句が書かれている。しかしその動画は全編、美波の泳ぎをまとめただけのものであった。


「県大会、無観客でよかったね」


 どうして、とわたしが尋ねる前に、姉はこちらを振り返って口を開いた。


「みんな汐田美波を見に来るからね」

「……」


 朝早くに会場に向かい、一人になる。ファンの多い美波は、感化yに心を乱されるようなことが頻繁にあるのだろう。なんだか、悲しい事実から生まれたルーティンに心臓がきゅっと締め付けられる。


「お、お姉ちゃんは見に来てくれないの?」


 家族は一応、入場できたはず。しかし姉は一つ大きな伸びをすると「パス」と簡潔に答えた。


「なんで……?」

「県大会なんか、見に行っても面白くない」

「……」


 三年間全国大会まで上り詰めた姉なら、そう思っても仕方ないのだろう。


「だからちゃんと全国大会行って。そしたら見に行ってあげる」

「そんな県大会にも来ないお姉ちゃんの席なんか、あるわけないじゃん」


 姉は「はは」と作ったような笑い声を上げて、再び動画に意識を向け始める。美波ことは嫌いだと言っていたのに。







「美波ちゃんは?」


 大会の練習時間、プールサイドでわたしは肩を掴まれた。緊張していたので、必要以上に驚いて振り返ってしまう。

 肩を叩いたのはジャージ姿の部長だった。


「ご、ごめん。驚かせちゃった。美波ちゃんはどこにいるか知ってる?」

「……ええと、観客席にいるんじゃないですか? 今日はメドレーリレーないですし」


 今日はわたしの日だ。部長の泳ぐ200M背泳ぎも、夏月の100M自由形も、そして四人のメドレーリレーもスケジュールは明日だった。だから部長もジャージ姿なわけで。

 しかし部長は眉を下げると、鷗ヶ岬高校の座席を指さした。座っているのは仏頂面の夏月と、一か月ぶりの顧問の二人だけだ。


「え?」


 声に出さずにはいられなかった。

 迷った? それとも、ただの遅刻?


(もしかして見に来る必要はないと判断したとか……言わないよね?)


 練習時間終了のホイッスルが吹き鳴らされ、ひとまずプールを出る。


「ゆいちゃんは何も聞いてない?」

「……」


 わたしの沈黙に部長ははっとしたらしい。すぐに取り繕うように慌て始める。

 気遣わなくて大丈夫です、と言いたいところだが、本番を目の前にして強気なことは言えない。

 もう少し話をして安心したいところだが、50M自由形の集合アナウンスが館内に響きわたる。まさか直前にこんなことになるなんて。

 放送の告げる場所へ足を進めるが、周りの生徒たちがぐんぐんわたしを追い越していく。


(ここにいる人、みんな敵だった)


 この人たちをなぎ倒してやっと、次のステージに立てる。

 陸地でこんなに追い抜かされて、水の中で勝てるのか。みんな自信に満ちた表情をしている。不安な表情で背中を丸めているのは自分だけだ。


(もしかして、場違い?)


 とんでもないところにやってきてしまったのかもしれない。

 美波、助けて。

 周囲の音がどんどん遠くなっていく。美波、どこにいるの? わたしのコーチでしょ。生徒が困ってるんだから、助けてよ。

 足が鉛のように重い。

 わたしって、こんなにプレッシャーに弱かったっけ?

 なんとか集合場所に着いて、泳ぐ順番通りに整列する。皆、美波と同じくらい背が高い。決して低くはないはずなのに、取り囲まれている気がした。


──次は、女子50M自由形です


 アナウンスの声にすら敏感になる。選手たちがぞろぞろとプールサイドへ移動する中で、わたしは足がすくんでしまっていた。


(動いてよ)


 心中で叱咤するが、身体が言うことを聞かない。

 その時、明らかな衝撃が背中に伝わってきた。

 じん、と背中に痛みがにじむ。

 だれ。縮み切った心では唖然とするしかなく、恐る恐る振り返った。

 そこには、水着姿の美波がいた。


「ほら、行くよ!」

「……」


 なんで? 美波はメドレーだけに出るはずなのに、どうしてわたしと同じ種目を泳ごうとしているのだろう。

 そこにいるのが本当の美波だとは思えなくて、しばらく立ちすくむ。しかし美波にもう一度背中を叩かれて前に躓きそうになった。傾いた体を支える足が一歩になり、すんなりと歩き出すことができるようになる。


 差し込んでくる明かりのまぶしさに目を細めながら、タイルを踏みしめた。

 美波を呼びかけようとするが、外の声を耳に入れない彼女の凄みに言葉が喉をつっかえる。


 わたしは初めての県大会を美波とともに泳ぐらしい。

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