第14話 はじめての喧嘩
「あのねぇ、調子が振るわないのはわかるけど……いつまで経ってもうじうじしないでくれる?」
美波がついに口にした。自ら顔を上げたわたしのぼんやりとした表情を見て。
そんなことはわかっている。わたしだってこんな気持ちを引きずっていたくない。でも明日の補講のことを考えると、どうしても憂鬱な気分になってしまうのだ。
もちろん補講自体が嫌なのではない。補講のせいでブランクを埋められないことがもどかしい。
「……美波にはわからないよ」
わたしは水面に映る自分の歪んだ顔を見て呟いた。
「は?」
首を持ち上げると、苛立った表情の美波がこちらを睨んでいる。わたしは負けじと睨み返しながらプールから上がった。
「美波にはわからないよっ! わたしは一つのスポーツにこれほど打ち込んだことはないし、スランプだって初めて! 全部全部はじめてなの!」
美波は困惑の表情など片鱗も見せずに、こめかみに青筋を浮きだたせた。
「私にはわからないってなによ⁉ スランプの経験ぐらい私にだってあるわよっ」
「それと今の状況は別だよ! 全然違う!」
二人分の金切声がプール室に響く。他に練習している小学生もいるが、わき目も振らず叫んだ。
「ちょ、ちょっと二人とも落ち着いて」
部長が割って入ろうとするが、それが機能しないほどには激化し始める。
美波にわかるはずがない。わたしの気持ちがわかるのは、この時期に水泳部に入った他校の人間くらいだろう。いや、そんな人間でもわたしの気持ちがわかってくれるか不明だ。
「じゃああんたの気持ち、言ってみなさいよ。理解する努力だけはしてあげるわ」
「なにその言い方!」
「あんたが私にはわからないって言ったんでしょ⁉ だから寄り添ってあげようとしてるのよっ」
「『寄り添う』⁉ やっぱり上から目線なんじゃん!」
「今はコーチなんだから、上からで何が悪いってのよ」
視界の端で部長がおろおろとしている。
けれどわたしは水泳帽を脱ぎ捨てると、人目もくれずプール室のドアへ歩き出した。
「どこに行く気⁉」
答えてやらない。
重い扉を無理やり引っ張ると、プール室から出て行った。
「夏月ちゃん、タオル持って追いかけてあげて」
夏月は部長──春川梓紗の指示に額を抑えて一つため息をつくと、大人しく従うように更衣室へ入っていった。
梓紗はその背中を見届けてから、怒りの熱をふつふつと込めている美波の肩に手を置く。美波は「ああもう」と子供のように地団駄を踏んでジャージもポケットに手を突っ込んだ。
「美波ちゃん、だめよあんな風に言っちゃ」
美波の睨む目が今度は梓紗を映す。
「美波ちゃんの気持ちもわかるけど……。ゆいちゃんはまだ初めて一ヶ月しか経ってないの。すごいことよ? ゆいちゃんがあたかも普通にこなしてしまうから、私たちの感覚が麻痺しちゃってるの。……本当にすごいことよ」
褒めてあげて、と梓紗が付け足した言葉に美波はピクリと反応した。
──……褒めてくれたって、いいじゃない
中学三年の夏、あのブランコの上でつぶやいた言葉がフラッシュバックする。コーチや親に求めていた、唯一の言葉。
私はそれを忘れてたっていうの?
認めたくない。美波は奥歯を噛みしめて歯ぎしりをした。
「わかんないわよっ、人の褒め方なんて!」
「……」
「もうずっと、私は褒めてもらってないのっ。人の褒め方なんて忘れたわ!」
梓紗の悲しげな目に、美波は怯んだ。
そんなわけない。梓紗は美波の真実を見抜いている。
覚えているに決まっているのだ。褒められていた日々を。けれど認めたら負けな気がして、美波は梓紗をじっと睨みつけていた。
梓紗は自販機で飲み物を見繕っている夏月に話しかけた。
「どうにかして奮い立たせる方法はないのかしら。夏月ちゃんは何言われたら気分が上がる?」
「奮い立たせる?」
夏月はスポーツドリンクの下で点滅しているボタンを押し込む。がこん、と音を立てて落ちてきた飲み物を拾い上げると、続けてもう一つのボタンに手を伸ばした。コーラだ。
「ゆいちゃんはすごく不安なんだよ。それを乗り越えないとスランプ脱却にもつながらない」
「あんなの、スランプじゃないですよ」
夏月はコーラを拾い上げると、梓紗に押し付けた。
「私のこと太らせるつもり?」
「おいしいですよ、コーラ」
「ありがとう。でも、妹にあげるね」
梓紗は下手に言い返さず、受け取って鞄の中にしまい込んだ。
話を戻すけど、と梓紗の切り出しに、夏月は頷きながらスポーツドリンクのふたをひねる。
「スランプじゃないって?」
夏月は一杯呷ると、ふたを閉めて歩き出した。方角は梓紗の自宅の方面だ。
「スランプってのはもっと派手なもんです。ゆいのは……ただの成長期」
「……」
「だから……不安から脱却すればっていうのは、そうかも」
「じゃあ、夏月ちゃんはなんて言われたら気持ちが上がる? 奮い立たせる方法とか……」
夏月は嫌なことを思い出したと言わんばかりに、苦虫をつぶしたような顔をした。
「……煽られたとき」
梓紗の脳裏に美波の顔が浮かぶ。たしかに美波に煽られてしばらくは、火がついたように熱の入った練習を行っている。それはもう、周りが止めたくなるほどに。
つまり、怒りのようなものを動力に変えているのだ。
そのとき、遠くからやってきた人影に、二人は足を止めた。この時間帯にこのあたりを歩いている人なんてめったにいない。不審者かと身構えていると、街灯に照らされた顔は瀬戸内璃子のものだった。
彼女は二人を知っているか定かではないが、少なくとも梓紗と夏月は彼女を認識していた。
「あの子、たしか……」
梓紗が一歩踏み出すので、夏月はぎょっとして止めようとする。しかし梓紗はためらわずに手を振って声をかけた。
「こんばんは!」
璃子はぎょっとして一歩後ずさる。しかし梓紗が誰か認識した途端に、ぐっと顔を歪ませた。
「……何の用ですか?」
「私、春川梓紗。水泳部の部長でね」
「知ってますけど……」
「少し、協力してほしいの」
梓紗の突拍子もない頼みに、璃子は目を向いて首を振る。
「いや、いやいや。うちはもう、水泳部には関わらないって決めたんです!」
「でも最愛の幼馴染みちゃんが窮地に陥ってるんだよ?」
梓紗の煽り文句に、夏月はため息をついた。それは盛りすぎだ。
それに「最愛」って、喧嘩別れした人にかける言葉ではない。そう思ったが、璃子は案外にも顔を赤くして動揺し始めた。頼られていることに照れているのか、はたまた。
「で、でも、何するんですか」
「大丈夫。一度やったことをまたやるだけだから」
梓紗の不穏な最後の一言に、璃子の緩んでいた表情が真顔になった。




