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第13話 人生初のスランプ

 部長には──いや夏月にも──頭を下げなければいけない事態となってしまった。


 わたしは返却された数学のテストに刻まれたばつの数に戦慄せんりつする。

 言い訳をするなら、水泳のことで頭がいっぱいいっぱいで、テスト中に公式が頭から飛んで行ってしまったのだ。公式から答えの導き出し方は完ぺきだったはずなのに。


 それも今更だ。

 ひどい点数のテストを手にして部室の前に立つ。


「……」


 隣にもう一つの影がやってくる。真っ青な顔をした美波だ。


(美波のこんな顔、初めて見た)


 表情から察するに、美波もひどい点数を取ってしまったのだろう。しばらくどちらがドアノブをひねるか、心理戦が繰り広げられる。

 あきらめてわたしがドアノブを掴むと、ほとんど同時に美波も掴もうとしたのか二人の力で扉が押される。そのため必要以上の勢いでドアが開かれた。


 部室にいた部長は目を丸くしていたが、二人の手にあるテストを見るなり肩を落とす。


「ごめんなさい!」

「ごめん!」


 勢いを殺すこともできなくなり、ほとんど同時にその場に土下座する。


「部長と夏月が教えてくれたのに、テスト中に公式をド忘れしました!」

「英単語がさっぱりで、何が問われてるかわかりませんでした!」


 そうして土下座を続けるが、返事がない。そろり、と顔を上げると部長は真顔でそこに変わらずいた。普段温厚な人の真顔とはこんなに怖いものなのだと身をもって知る。


「で、赤点取ったらどうなるの?」

「補講が……」

「放課後に……」


 わたしの言葉を補うように、美波が付け足した。


「残念だね。補講はいつから?」

「えっと……今日からです」


 部長の表情に笑みが戻る。思わずぞっとして腕をさすった。


「いってらっしゃい。練習は私と夏月ちゃんで進めておくから、あとでね」


 そしてさっさと補講終わらせてこい、という心の声が透けて聞こえたので、わたしたちは部室を飛び出さざるを得なかった。


 補講は三日。毎日通常授業の後に一時間行われる予定だ。そして毎日補講の最後に行われる小テストで、基準点をクリアする必要がある。

 とはいえ赤点をとった者の集まりなので、小テストは比較的優しい内容だった。

 補講が一時間で本当に良かったと思う。トレーニングは家帰ってからこなせばいいのだし、いつもプールに入る時間には間に合──。


「ゆい?」


 英語の補講教室から出てきた美波に声を掛けられてわたしは顔を上げる。小テストを早く解き終えることができたので、廊下で美波を待っていたことを思い出す。


(そうだ)


 美波に手を引かれて靴箱に向かった。


(そうだった)


 美波が何やら話をしている。早く練習に向かわないと、だとか、小テストですら難しい、だとか。そんな愚痴が耳をすり抜けていった。


(わたし、プールに入れないんじゃん)


 新しく渡されたメニューには、プール断ちの内容が書かれていたことを思い出す。テスト期間で練習がなかったので、すっかり忘れていた。

 靴に足を押し込んで、校門を眺める。ここからどこに走れっていうのだろう。プールまで走ったのに入ることはできないなんて、あまりに惨めだ。


「ゆい、どうかした?」


 気づけば足が重くなって、立ち止まっていた。

 もう十日しかないのに、プールに入れないって……なに?

 ぽろり、と目からまろびでた涙が頬を伝うことなく地面に落ちた。

 不甲斐なさ過ぎる。スランプで苦しんでるのに、補講なんて馬鹿だ。


「……っ」

「えっ、なんで泣いてるのよ。大判焼きを今川焼きって呼んだのが許せなかった?」

「ち……ちがうっ……」


 鼻を啜りながらわたしは否定する。全然そんな話じゃない。でもそれは許さない。


「ねえ、泣かないで。私、こういうの得意じゃないのよ……話聞いたら泣き止んでくれる?」

「泣かないでなんて、言わないでよっ。わたしはわたしに怒ってるの、……泣いてるの! わたしは今足踏みどころか後ろに下がってるのに、練習すら満足にできないような点数とって……バカみたいじゃん!」


 しゃっくりを無理やり遮り、声を引っ張り出して叫ぶ。

 美波は目を丸くした。まさかそんなことでずっと悩んでいるとは思ってもみなかった風に。


(なんでそんな顔するの。心配してる自分がもっとバカに思えるじゃん)


 ぽろぽろと涙の粒があふれ出る。美波は周囲をしばらく見まわした後、わたしに向かって手を広げた。でもわたしはあまのじゃくになって背中を向ける。


「やめて、慰めないで! わたしのこと、弱いって思ってるんでしょ⁉」


 こんな不安、美波なら何度でも経験してるはずだ。わたしはたかが一回で泣き叫んでいる。


「思ってないわ。ねえ、大丈夫よ」


 美波の声色が優しい。気を遣わせてしまっていることが、一番自分を許せなくさせた。

 軽い衝撃が背中に伝わってくる、かと思うとそこにぬくもりがやってくる。跳ねのけたいのに、そうはさせてくれない包容力にじっと縮こまった。


「私が信じられない?」

「……それは」

「でしょ? ほら、頷いてよ」


 体に巻き付いていた美波の手がわたしの顎に伸びる。そのまま微動だにせず立っていると、くい、と顎が引かれた。そのまま何度か動かされて首振り人形みたいになる。

 わたしは真後ろにいる美波を横目で睨みつけた。


「……やめて」

「よかった、泣き止んだわね。今日はプールに入りましょう」


 離れていくぬくもりを目線で追いかける。美波の眉は寂しげに下がっていて、わたしは美波の言葉に自ら頷きかけた首の動きを止めた。


(本当は泳がない方がいいってことだよね……)


 でもこれ以上、そんな顔をさせたくない。「やっぱ、いい」なんて言えばもっと困惑させてしまう。

 わたしは項垂うなだれた首を持ち上げて、漫然と頷いた。

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