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第12話 魔の定期テスト!

(いつもと違う……)


 こう思うときは、大抵いい意味でのものだった。

 けれど。


「っは!」


 息苦しさに水中から顔を持ち上げる。体が重い。水が体にどんよりと圧し掛かってくる感覚は、いつも練習終盤に感じるものだ。でも今は違う。

 わたしは美波が見せてくれるタイムに、やっぱり、と肩を落とす。

 水の恩恵である浮遊感がまったくもって感じられなかったのだから、このタイムは当たり前だ。


「30秒45」


 正直、自分に落胆していた。

 停滞するどころか、伸びてしまっている。今日だけではない、昨日もそうだ。

 美波の表情はわたしへの配慮のために柔らかい。わたしは下唇を噛みしめて、水泳帽を外した。プールから上がるのも、人の手を借りる気にはなれなくて、美波の手を無視して地上に出る。


「ゆい」


 わたしの背中に美波は話しかけた。

 わたしは黙ってスタート台の前に立つ。


「ゆい、聞いて」


 髪をまとめ直して、水泳帽をかぶりなおしてゴーグルを装着した。そして台に上る。


「待って、ゆい」


 手を引かれてわたしは振り返らざるを得なかった。


(早く泳がないと、練習しないといけないのに、どうして美波は引き留めるの)


 美波に手を掴まれてしまっては、飛び込むことはできない。


「今日の個人練習は、終わり。ゆいはプールサイドで休んでて」

「でも……っ」

「明日、別のメニューを考えてくるわ。大丈夫、焦らなくっていいのよ」


 いたたまれない。

 美波がせっせと部長と夏月の記録をつけていく間、わたしの欄は白いまま。でもわたしは体を伸ばしているしかできない。

 美波はおもむろに立ち上がると、練習を続けていた二人にも声をかけた。私が立ち上がろうとすると、美波は振り返って静止の目を向けてきた。

 今からリレーの練習だ。出ないわけにはいかない。


「だめよ」


 鋭い目つきを向けられる。わたしは怯みつつも、睨み返した。


「なんで。リレーだよ、わたしが欠けたら練習にならない」

「焦らないでいいのよ」


(……焦るに決まってる)


 部長も夏月も、すでに大会を通過できるタイムには達しているんだから。

 足りていないのはわたしだけだ。


「今日は、リレーの引継ぎ練習を軽くやって終わるわ」


 美波はジャージのシッパーを下ろしながら、二人に呼び掛けた。

 わたしの不調が皆の練習にも影響を及ぼしている。

 再び小さくなってプールサイドに座り込んだ。

 美波が軽く伸びをすれば、脇の下の滑らかな曲線が飛び込んでくる。わたしは折りたたんでいた足を引き寄せた。


(泳ぎが見れるだけいい、なんて詭弁だ)


 美波は個人競技に出ないらしい。タイムが落ちているのをわかっていて、恥をさらしに行くようなことはしたくないのだそうだ。大会に出れば表彰台の一番上に立ってきた人間なりのプライドなのだろう。

 美波もフリーを泳いでくれたらいいのに。

 部長の手がプールの壁に触れる。それとほぼ同時に、美波は優美な軌道を描いて水の中に消えた。








「定期テストの四日前だぞ。ちゃんと勉強しとけよ」


 気づけば教室にいた。

 朝、美波から新しい練習メニューの書かれた紙を渡された。それから一人でそれをこなして。いつもは部長も夏月も、美波もいるから、ぼんやりとしてしまっていたことを思い出した。

 一時間目が始まる前のホームルームだったらしい。担任教師の男性は教室を出ていく。

 ポケットの中に手を突っ込むと、紙切れが手にあたる。

 今日から与えられた私だけの特別メニューは、本当に特別だ。美波の配慮によるものなのか、水泳部の誰ともすれ違わない。

 なびくカーテンの隙間から見える景色を眺める。


(水泳でいっぱいいっぱいなのに……テストかぁ)


 ともかく赤点だけは回避しなければ。そう思って今更だが、真面目に授業を受けようと教科書を出したはずなのだが。


「花筏さん。汐田さんが呼んでるよ」


 昼休み、わたしは弁当箱を机の上に置いたまま真っ白の黒板をじっと見つめていた。クラスメイトの声ではっと我に返る。言われた通り教室の扉に目を向けると、美波が眉を下げて立っている。某っとしているところを見られてしまった。

 慌てて立ち上がって、作り笑いを見せた。すると美波の表情がより硬くなる。


(なんで)


「ごめん、ぼんやりしてた」

「眠れてる?」

「え? うん。大丈夫だよ」

「そう」


 美波の指が伸びてくる。手のひらを指で撫でられて、指先がびくりと震えた。

 わたしは隣にいる人の顔を見上げた。なんで悲しそうな顔をするの。

 そして半ば強引に手をつながされる。ぎゅ、と力のこもったそれは、大丈夫だと体現してくれているのだろうけど。うまく握り返せない。


 階段に着くと、夏月と部長の話声らしきものが聞こえてきた。わたしはつながれていた手を振り払うように離し、階段から身を乗り出す。階段を駆け上がってくる二人の手にはノートが握られていて、ところどころに濃い緑の線が引かれている。


 定期テストのことを思い起こされて、わたしは思わず顔をしかめた。美波はあからさまに「うわ」と声に出して、苦虫をつぶしたような顔を作る。


「あ、やっほ。ゆいちゃんと美波ちゃんも勉強しながら練習しない?」

「しない」


 部長の提案を美波が切って捨てる。


「どっちつかずなことしてたら、やってる意味ないわ。練習も勉強も」

「そんなこと言って、汐田は定期テスト余裕ってわけ?」


 夏月に横から話しかけられて、美波はどきりと肩を揺らした。


「……」


 固まって口を利かなくなってしまった美波を置いて、夏月はわたしに目を向けてくる。


「わたしは数学が不安かなぁ。いつも赤点すれすれで……」

「お……小鹿はどうなのよ」


 復活した美波は夏月に指を突き付けて尋ねた。夏月は手に持っていたノートのページをぺらぺらとめくると、一枚の紙切れを取り出す。


「百点だ。夏月って勉強できるんだね……」


 たまに行われる英語の小テスト。点数の欄には百の文字と花丸が添えられている。もちろん氏名欄にはきれいな字で小鹿夏月と名前が書かれている。


「あたし、水泳だけやってきたわけじゃないから」


 美波が隣でわなわなと震えはじめた。

 やばいのはわたしたちだけかもしれない。

 遠くで苦笑いをしていた部長が人差し指を立てて、「そうだ」と名案を思い付いたようなそぶりを見せる。


「勉強会しようっか」


 美波の表情が凍り付く。


(勉強大嫌いなんだな……)


 わたしも好きではないが、美波ほどではない。


「赤点取ったら部活どころじゃないし」


 部長の顔が迫りくる。笑顔なのに圧がすごい。これは逃れられないやつだ、そう確信した時には全身が脱力していた。


(タイムも縮んでないのに)


 けれど、赤点でなおさら練習時間が削られるのは痛い。

 かくして水泳部、定期テスト直前勉強会が開かれることとなった。

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