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第11話 美波が決めたこと

 今日も練習を終えて、更衣室の時計を見上げる。

 八時十五分。


 わたしは体を拭くのもそこそこに、服を着こんでいく。靴下は鞄の中に突っ込んで素足のまま、髪をまとめ直すルーティンに入った。


「用でもあるの?」


 部長が急ぐわたしに尋ねる。


「はい。ちょっと」


 お先に失礼します、ととってつけた挨拶をして更衣室を飛び出した。


 コーチ用の更衣室から出てきた美波みなみに名前を呼ばれたような気がするが、そのあと強く引き止められなかったので、そのまま急いでスイミングスクールを後にする。

 確か図書館の閉館時間は八時三十分だ。いつもは肩にかける鞄も無理やり背負う形にして闇に沈む坂道を駆けあがる。

 間に合って──。


 いや。


(間に合わせる!)


 脚の付け根から動かして走る。美波に躾けられた走り方、息の使い方は、もうすでにわたしの中に染みついていた。

 口から短く息を吐きながら角を曲がる。肩からずり落ちようとする鞄の肩ひもを背負いなおして、住宅の隙間から覗くお洒落な木造建築を目指した。


 暗い中、目を凝らして腕時計を確認する。時刻は八時三十分少し前。


(間に合った!)


 息絶え絶えになりながら、足を奮い立たせる。


 ちょうど、ため息をつきながら図書館から出てきた璃子りこを見つけて、わたしは叫んだ。


「《《美波》》は自分の気持ちで泳ぎたいって、思ってる!」


 璃子は疲れた顔をしていた。図書館でこの時間まで勉強をしていたのだろう。そしてぼんやりとした白い街灯のせいで、より疲労が浮かんで見える。


 わたしの声で彼女の顔はあからさまに歪んだ。

 けれどわたしは調子を緩めずに続ける。


「美波が言った! わたしたちとリレーを泳ぎたいんだって。選手として水泳に戻るって!」

「……それがそそのかしてんじゃないのって」


 璃子は歯の奥に怒りを込めて言った。

 街灯の光がちかちかと揺らめく。


「わたしが無理やりプールに連れ込んでたら、美波にはじめて話しかけた日に泳いでるよっ」

「違う、何言ってんの。あんたの泳ぐ姿を見て、美波の心が揺らいだんじゃないかってことを言ってんの!」

「そうかもしれないけど、美波は自分で泳ぐって決めたんだよ。わたしの姿を見て、自分で考えて、決めたの!」


 璃子が眉を八の字に下げてひるんだ。

「意味わかんない」とか「わけわかんない」とか、混乱を無造作に口に出して、おさまらない腹の虫と奮闘ふんとうしている。


 わたしは容赦ようしゃなくたたみかけた。


「そう、思うでしょ⁉ 美波は……美波は自分で決めたんだよ」

「そんなこと──」


 心を持ち直した璃子が顔を上げる。そのとき、何かを見たのか目をみはって動きを止めた。

 わたしは璃子の視線をたどって振り返る。


 そこには静かにたたずんで口論を聞いていたであろう、美波がいた。街灯一つで表情はわかりにくいが、明らかに動揺しているのはわかる。

 美波は突然向けられた視線にまごつきながらも口を開いた。


「……ゆいが突然走り出すから何事かと思って……追いかけてきちゃったわ」


 美波の顔が今まで見たことのないぎこちない笑顔になる。けれどすぐに神妙な面持ちへと落ち着いた。


「……璃子」

「……」

「心配かけてごめんなさい」


 美波の謝罪に璃子の表情がはっと悲しいものになる。


「そんな……!」

「私のことを思って言ってくれてるんでしょ? 足の怪我のこと……」


 少しだけ遠い目をする美波に、璃子は言葉を詰まらせた。美波の手が怪我をした膝を意識するように動いた。


「でもね」

「……」

「やっぱり水泳から離れられないのよ」


 璃子は名残惜しそうな目をして美波に手を伸ばす。けれど美波の微笑みに、すぐさまぴたりと止めた。


「……そう」


 璃子の手が重力に従って落ちる。ぷらりと力の抜けた腕は、人を失ったブランコのようだ。


「美波の好きにして」


 璃子はわざとらしく鞄を背負いなおすと、美波に背中を向けた。こらえるようなしゃっくりが静かな空間には響いて聞こえる。

 しかし少しだけ帰路を進むと、璃子は後ろ髪をひかれたように振り返った。


「……無茶だけはしないで」


 そう言うと目のふちいっぱいに涙をためて、目から零れ落ちる前に走り去っていった。

 美波は眉を下げてふっと口角を緩める。璃子の姿は角を曲がって見えないが、そのかげにぽつりとつぶやいた。


「うん。ありがとう、璃子」







「ゆい」


 わたしは美波に名前を呼ばれてびくりと肩を揺らした。声色はいたって平坦なもので、感情が読めない。おそるおそる美波の顔を見上げる。

 美波はこれまた読めない表情でわたしを見下ろしていた。


「さっき、」

「あ、はい」

「『美波』って呼んでたわよね」


 わたしははっと口を押えた。

 まったくの無意識だった。感情的になってしまって、いつの間にか敬称を抜かしていたようだ。

 慌てて手を振って弁明を図るが、美波は想像と違う反応を見せる。


「うれしい」


 頬が緩み切っていて、いつものクールな美波の見る影もない。

 わたしは唖然あぜんとして見上げた。


「心開いてくれたって感じだわ」

「そ、そんな……わたしはずっと心開いてます」

「もう、敬語もやめて」


 親指が顔へ伸びる。むぎゅ、と唇を上下ともに押さえつけられて。


(あれ、こんなにスキンシップ多かったっけ)


 かっと首の後ろが熱くなった。


「敬語使われるの、慣れてないの。同級生なんだしため口でね」


 唇から指が離れていく。首を傾げながら「そう……だね?」とぎこちなく返答すると、美波は吹き出して、背中を丸め体を震わせた。


「ぎこちなさすぎよ。小鹿おがには親しそうにため口利いてるのに」

「だ、だって……恥ずかしいんだもん」


 美波ってこんなに笑う人だったっけ。

 ものが落ちたように開放的になった美波は、街灯の下で大きく伸びをした。濡れた髪が灯りでてらてらと照らされている。


 そうだ。美波は泳いだんだった。それも隠すことをやめて、ついに水泳に戻ってきた。


 思考に割り込んでくるかのように、するり、と手のひらを撫でる指先の感覚に思わず変な声が出る。


「……ひぁっ⁉」

「なによ、過剰ね」

「な、なに⁉」


 美波の指がわたしの指を探るようにして絡まっていく。そしてきれいに繋がれた状態に収まった。


(こ、これって……)


 恋人つなぎだ。


「女同士なんだから、手くらいつなぐでしょ?」

「そうかもだけど……」


 いや、絶対違う。少なくともわたしは友人と恋人つなぎをした経験はない。

 わたしとしては指を交差させない普通の手のつなぎ方が限界だ。

 なんだか距離感が近い。ぐいぐいと詰められるのでみぞなんかまるでなかったようだ。


「うれしかったわ。私のために璃子に言ってくれて」


 信号機に立ち止まった時、美波は独り言みたいに零した。赤色の人型に向いていた美波の目はゆっくりとわたしを映す。


「悪い子じゃないの。心配性が過ぎるだけ」


 繋がれた手がぶんぶんと振り回される。密着している部分から腕、肩とさかのぼって、美波の整った顔に行きついた。


 耳が赤い。髪が濡れて冷えているのか。

 まさか。さっきまで何ともなかったのに。


(美波って案外、子供っぽいところもあるんだなぁ)


 わたしは恋人つなぎの手を握り返した。

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