第10話 私が勝ったら、
美波とわたしの間には明確な溝ができていた。
本当のことを言えば、わたしが美波を避けているのだ。美波ははじめこそ怪訝そうに、不満そうにしていたが、すでにあきらめたのか普通に接してくる。それがわたしに罪悪感を与えた。
夏月は『ぶち破る』と言った。おそらく美波に何かを施すつもりなのだろうが、まったく見当がつかない。
そうやって一日過ごしているうちに放課後がやってきた。
基礎トレーニングをきちんとこなして、プールまでランニング。プールに入る前のストレッチまで終わらせた夏月は、いつもと違う行動をとった。
滑りやすいプールサイドで、美波のジャージを強く引っ張ったのだ。
美波は少しよろけながらその場で踏ん張る。そのとき一瞬、美波の顔が歪んだ。転ばないために慌ててついた足は、膝に怪我を負った方だ。
しかし夏月はお構いなく美波の胸ぐらを引き寄せて、宣言した。
「100M自由形」
「……まだ一度も私のタイムを超えられたことがないのに挑もうなんて、あんたマゾなの?」
「ずっと泳いでないせいで鈍ってるの、バレたくない? そんなの今更なんですけど」
夏月の挑発に美波は眉根を寄せる。
今日はスイミングの授業がない日のようで、広いプールはわたしたちのために貸し切られているかのようだ。水面の揺らぐ音だけがプール室を満たしている。
一触即発の雰囲気。
「何か欲しいものでもあるのかしら」
美波が自身の顎を撫でながら尋ねる。指先は苛立ちを逃すために動いているようだった。
「あたしが勝ったら……インターハイであたしたちとリレーに出て」
(……夏月)
美波がピクリと眉を動かす。
予想だにしなかったお願いに動揺したように見えた。
「……私が勝ったら?」
しかし美波はすぐに調子を取り戻して、首を傾げる。けれども夏月はそれを切って捨てるようにスタート台に立って言った。
「好きにしたら」
美波の指先がジャージのズボンのゴム紐にかけられる。するとおもむろに脱ぎ始めた。白く張りのある筋肉が程よくついた足が露出する。
そして続くように丈の長い上のジャージも、勢いよくファスナーが下げられた。ばさりと脱ぎ捨てると、衣服の下からは鷗ヶ《が》岬高校の指定水着をまとう引き締まった肢体が現れる。
わたしは思わず身を乗り出した。
そうだ。璃子は言っていた。夜中に一人泳いでいたと。今日もそのためなのか、すでに水着へ着替えていたのだ。
美波はストップウォッチを二台部長に、ホイッスルをわたしに手渡すと、ジャージから水泳帽とゴーグルを引っ張り出して手早く装着した。暗い青のゴーグルは、美波が去年のJOCでも使用していたものだ。よく覚えている。
するとスタート台に足をかけ、クラウチングスタートの姿勢をとった。
間近で見るアスリートの体型と気迫は、身震いさえ引き起こした。身体の作りが全くと言っていいほど違う。夏月のスタート姿を見たときも感動したが、美波のものは比にならない。
「いつでもいいわよ」
美波の声に部長は二つのストップウォッチにしっかりと指を掛けた。
部長の目がわたしに向けられる。わたしは少しだけ震える手でホイッスルを構える。そして計測初日の美波と同じように合図を口にした。
「……|take your marks《位置について》」
──ピッ!
ホイッスルを精一杯、かつ短く吹き鳴らす。
スタート台にあった二人の影はすぐさま水の中へ消え、ゆらゆらと波を立たせた。力強さが伝播するのか、プールの水は荒波と化している。
「すごい……!」
ゆいは感嘆の息を通り越して、言葉を漏らした。
地球ごと引き寄せるような力強いキャッチからの、プルとプッシュの可動域の広さと滑らかさ。スピードと勢いは群を抜いているはずなのに、水しぶきが最小限に抑えられている。
まさに理想の姿だ。
膝を故障していたとは思わせない安定感。
ターンは夏月の方が小柄なために速度がある。しかしキック力の差で一気に差が開いてしまう。
どちらの味方をするのかと問われれば協力してくれている夏月を選ぶべきなのだろうが、今の美波は思わず応援したくなるほどの魅力を放っていた。
(わたしもあんな風に……)
美波の指先が壁に掠めたとき、隣に立つ部長が勢い余った動きでタイマーを止めた。
きっと部長もわたしと同じように、見惚れてしまっていたのだろう。コンマの差でもう一つのストップウォッチのボタンが押される。
夏月は乱暴に顔を拭って、先に呼吸を整えている美波を睨みつけた。美波も久々の泳ぎに本気を出した影響か、満身創痍そうだ。
部長がプール二人の前にストップウォッチの画面を見せる。
「美波ちゃんは55秒33、夏月ちゃんは56秒81よ」
夏月はレーンを乗り出して美波のタイムをのぞき込む。そして少しだけ複雑な顔を見せると水泳帽を脱ぎ捨てた。
「鈍ったわね。前は54秒普通に切ってたのに」
夏月は、55秒すら切れていないのに、と言いたげな目線を美波にぶつけた。その感情のまま「早くあんたの望み、言えば?」とつっけんどんに言い放つ。
「そうね……」
美波も同じように水泳帽をとると、まとめていた髪が吸っている水を絞った。そして緩慢な動きでプールから上がる。滴る水がきらきらときらめいていた。
真剣な目が夏月、部長の順に捉える。そして最後にわたしと目が合った。
依然として美波は固い表情のまま、口を開いた。
「四人でリレーに出ない? 私にバッタをやらせて」
美波は髪から手を離すと、軸のぶれないきれいなお辞儀を見せた。わたしよりも身長の高い美波のつむじは、今まで見たことがない。
「お願いします」
わたしたちはあっけにとられた。
(それって夏月のお願いじゃあ……)
口には出さないが、皆同じ事を考えているようだ。
誰一人、返事が出来ずに言葉を詰まらせている。
真っ先に我に返った夏月が半笑いで「は?」と反応するが、美波はいたって真面目な顔つきのまま背筋を伸ばした。
「どんなお願いでもいいんでしょ? 絶対、聞いてくれるのよね」
「……まあ。それはそうだけど……」
夏月は唖然としつつも何とか言葉を絞り出す。
「つまりそれって」
「選手として水泳に戻ります」
わたしが言いかけた言葉を美波が繋いだ。
「本当に?」
「なに、うれしくないの? もっと跳んで喜ぶかと思ったのに」
美波の耳が赤い。照れ隠しなのか、強気な語彙で腕を組む。
「……うれしい」
(それってさ)
わたしはそれ以上に、璃子が顔を真っ赤にして怒る姿を思い出していた。髪を振り乱してなされた主張。
美波のことは美波が決める。わたしが言ったことは間違いじゃなかったのだ。
「うれしいです、とても」
わたしは噛み締めるように口から零す。
美波の身体が近づいてくる。わたしはゆっくりと手を広げて、軽い衝撃とともに美波の身体が重なった。
先ほどまで泳いでいた美波の身体は湿っていて、少し冷たい。それから女子高校生にしてはちょっと厚みがある。水泳をやってきた体だ。
(自分から泳ぎたいって、思ってるってことじゃん)
わたしは美波の力強い背中に腕を回した。




