第9話:聖公会の抹消者
下層区の第7廃棄処理施設「肉の銀行」を占拠してから数時間後。
培養槽の駆動音だけが響く地下室で、シルス・ヴァレリウスは中枢制御盤に向かい、複雑な魔導回路の書き換えを行っていた。
その背後で、アリシア・レインフォードが突如、作業の手を止め、闇の先を凝視した。
「……来るわ」
彼女の声が震えている。
指先の銀糸が、下層区の入り口で起きた「致命的な断絶」を感知したのだ。
それは、暴力の気配ですらなく、ただそこにあるべき音が消え、温度が失われ、その場所に存在していたはずの人々の気配が、一枚の紙を消しゴムで消すように消失していく不気味な静寂だった。
「アリシア、結界を最大展開しろ。……相手はガロウのような利用者じゃない。システムそのものを管理する設計者の末端だ」
シルスが警告を発した瞬間、施設の分厚い鉄門が、音もなく崩壊した。
物理的に破壊されたのではない。その門を構成していた物質の結合という定義が解除され、ただの塵へと還ったのだ。
舞い上がる砂塵の向こうから、漆黒の法衣を纏った男――聖公会正規監査官、ヴァルダス・アイアンウッドが歩み寄る。
彼は武器を構えてすらいない。ただ眼鏡の奥にある虚無のような瞳で、シルスを見据えていた。
「監査対象を確認。……個体名、シルス・ヴァレリウス(旧名:リアン)。かつて勇者パーティの参謀を務め、現在は因果律の不法占拠、および上層区への負債の逆流を主導する、最優先抹消対象」
ヴァルダスが指を一本、静かに立てる。
「……宣告。貴公の存在権限を、教会の脚本より剥奪する」
次の瞬間、シルスの足元の床が消失した。
落とし穴が空いたのではない。床という概念そのものが削除されたのだ。
シルスは即座に因果の糸を空間に固定し、落下を免れるが、ヴァルダスの進行は止まらない。彼が歩く一歩ごとに、施設の床、壁、柱が、まるでバグった画像のように乱れ、消えていく。
「アリシア、撃て!」
「はぁぁぁぁっ!!」
アリシアが叫び、第4層の猛毒を宿した黒い銀糸を放つ。
ガロウの絶対赦免すら貫いたその一撃。触れれば有機物・無機物を問わず、概念レベルで腐食させる必殺の針だ。
その軌道を見た瞬間、ヴァルダスの眉がわずかに跳ねた。
彼は歩みを止め、掲げた右手に膨大な演算光を集中させる。
「――警告。危険係数、測定不能。……隔離処理を最優先」
パチン、と指を鳴らすような軽さではない。
ヴァルダスは空間そのものを分厚く切り取り、迫りくる銀糸を何重もの「論理防壁」で包み込んだ。
ジジジジッ……!
防壁の中で銀糸が暴れ、ヴァルダスの展開した術式を次々と食い破っていく。
「ほう。……私の論理防壁を3枚も溶かしましたか。直撃していれば、私の機体もただでは済まなかったでしょう」
数秒の拮抗の末、銀糸はエネルギーを使い果たして炭化し、床に落ちた。
ヴァルダスは無傷だ。だが、その足は止まり、彼はアリシアという存在を「ただの少女」から「削除すべき脅威」へと再定義していた。
「……外部プラグインの読み込みを拒絶。これより、全リソースを攻撃に転用します」
「アリシア、下がるな! 彼は空間そのものの仕様を書き換えているだけだ! 定義し直せ! 君の恨みは、そんな安っぽい修正パッチで消える程度のものか!」
シルスが叫び、自らの右目から溢れる黒い液体を、制御盤へと叩きつける。
ヴァルダスが正常化しようとする世界に対し、シルスは第4層の不条理なバグデータを絶え間なく流し込み、戦場をカオスへと引き戻そうと試みる。
論理と論理の激突。
施設の照明が激しく明滅し、空間が歪む。
ヴァルダスが右手を差し出すと、そこから眩い純白の光――教会の聖域コードが奔流となって溢れ出し、シルスの防壁をじわじわと削り始めた。
「無意味な抵抗だ、リアン。貴公がどれほど下層のゴミを集めようと、教会の正典は揺るがない。貴公の演算は、この世界の安定を維持する計算式に、一滴のノイズすら残せない」
「……そうかな。君は自信満々だが、その肉体は随分と悲鳴を上げているようだが?」
シルスの指摘通り、ヴァルダスの指先は過負荷による熱で焦げ始めていた。だが、ヴァルダスは眉一つ動かさない。
「問題ありません。この肉体はただの消耗品(端末)。目的を達成できるなら、焼却処分も想定内です」
「……なるほど。最初から人間を辞めているわけだ」
シルスは、折れた肋骨の痛みを精神力で遮断し、後退する。
だが、壁際まで追い詰められた。
アリシアの糸も尽きかけ、シルスの演算も限界を迎えている。
「終わりです」
ヴァルダスが一瞬で距離を詰めた。
その冷たい指が、シルスの喉仏に食い込む。
「が……っ!」
呼吸が止まり、首の骨が軋む音だけが脳内に響く。
圧倒的な力の差。管理者と、バグの差。
「処理完了。……さようなら、元勇者の参謀殿」
ヴァルダスの瞳が、処刑の光を帯びて輝いた。
だが、その至近距離で、シルスの口元が歪に吊り上がるのを、彼はまだ見ていなかった。
「……第9層までの全回路、接続開放。……アリシア、僕の命を導線にしろ」
シルスの瞳が限界を超えた負荷で赤く染まり、全身から第4層のどす黒い汚泥が噴き出そうとしていた。




