第18話:幽霊市民
新聖都エーテルガルドの街並みは、どこまで歩いても「清潔な死」の匂いがした。
道行く市民たちの足音は一定のリズムを刻み、誰一人として立ち止まることも、空を見上げることもない。彼らの頭上に浮かぶ最適化率の数値は、まるで家畜の格付け表のように淡く発光し続けている。
「……シルス、ここ?」
アリシアが足を止めたのは、街の北郭に聳え立つ、窓一つない巨大な円錐形の建造物だった。
市民登録センター。法執行官が「出頭」を命じた場所だ。
入り口には物理的な扉はなく、吸い込まれるように人々が中へと消えていく。シルスは無言で頷き、アリシアの手を引いて内部へと足を踏み入れた。
建物の中は、外の世界以上に静謐だった。
広大なホールには、乳白色の半透明な円筒状のポッドが、幾何学的な模様を描くように数千本も並んでいる。
そこには受付もいなければ、案内役の職員もいない。
市民たちは吸い寄せられるように空のポッドへと入り、数秒後、何らかの処理を終えて反対側から出てくる。出てくる人々の顔は、入る前よりもさらに滑らかで、一切の迷いを感じさせない「完成された顔」になっていた。
「……あの中に、入らなきゃいけないの?」
アリシアの声が震える。ポッドから漏れ出る、薬品と魔力が混ざり合ったような独特の臭気が、彼女の生存本能を激しく刺激していた。
「ああ。だが、ヴァルダスの言う通りに『登録』されるつもりはない。……アリシア、隣のポッドに入れ。僕が外部から同期して、システムを欺く」
シルスは、空いている二つのポッドのうち、一つをアリシアに割り当てた。
彼女が中に入ると、半透明の蓋が音もなく閉じる。シルスも隣のポッドに入り、蓋が閉まる直前、懐から黒曜石の石版を抜き放った。
ポッドの内部には、無数の繊細な端子がイソギンチャクの触手のように蠢いている。
通常なら、これが市民のうなじにあるポートへ接続され、精神の「書き換え」と「登録」を行う。だが、シルスはその触手が自分に触れる前に、石版の接続端子をポッドの制御スロットへと叩き込んだ。
カシャンッ、と硬質な接続音が響く。
「……第7層、プロトコル・バイパス。……管理者権限の偽装を開始する」
シルスの視界が、石版を通じてシステム内部のデータ空間へとダイブする。
第一部の旧王都のシステムが「錆びついた歯車の集合体」だとしたら、エーテルガルドのそれは「完璧に研磨された鏡の迷宮」だった。
一切の無駄がなく、流れるデータは美しく、そして冷酷だ。
『――新規個体検知。……精神スキャンを開始。……エラー。未定義のデバイス接続を確認。……セキュリティ・パッチ、適用準備』
システムの防衛プログラムが、シルスの石版を「異物」として即座に検知した。
ポッド内の触手が殺意を持ってシルスの首筋へと迫る。
「……遅い」
シルスは石版の表面を狂ったような速度で叩いた。
彼が第一部から今日までの旅の間、壊れかけた石版の内部に継ぎ足し続けてきた「非正規の監査コード」が、火花を散らして展開される。
システムの正規ルートを正面から突破するのではなく、構造上の「意味の隙間」を突く、極めて変則的なハッキング。
「僕たちの個人情報を『登録済み』のデータベースへ強制的にねじ込む。……属性は『幽霊市民』。システムからは見えるが、干渉できない不確定要素として定義する」
石版の画面に、アリシアの精神波形が表示される。
彼女の呪糸の力が、システムの防御壁を「物理的に」浸食し、シルスのコードを通すための穴を開けていた。呪いと論理の共同作業。
その時。
深いハッキングの過程で、シルスは意図せず、この街の「根源」とも言える領域にまで意識を触れさせてしまった。
「……なんだ、これは」
シルスの左目が、激しく明滅する。
石版を通じて流れ込んできたのは、数万人の市民たちの「思考の残滓」だった。
彼は見た。
ポッドで「最適化」された市民たちの脳が、その後どうなっているのかを。
彼らはただ、幸せに暮らしているわけではなかった。
彼らの脳細胞の大部分は、個人の意志とは無関係に、都市を運営するための「並列演算ユニット」として徴用されていたのだ。
一人の市民がパンを食べている間、その脳の裏側では、天候制御のための複雑な流体計算が行われている。
一人の市民が眠っている間、その脳は、都市の因果律が破綻しないための「確率予測」を数億回も繰り返させられている。
最適化率(OR)が高いということは、個人の感情という「演算ノイズ」が排除され、より優れたCPUとして機能していることを意味していた。
彼らが「悲しみ」や「怒り」を奪われるのは、慈悲からではない。
感情の揺れが、演算の精度を下げ、電力(魔力)を無駄遣いする「バグ」だからだ。
「……救済などではない。これは、ただの資源採掘だ」
シルスは戦慄した。
ヴァルダスは、人間を救ったのではない。
人間という名の生体パーツを使い、世界という名の巨大な計算機を「正しく」動かそうとしているだけなのだ。
その計算の結果、何が導き出されようとしているのかは、シルスの今の権限ではまだ読み取れない。
『――登録完了。……市民ID:G-0012、G-0013。……ようこそ、エーテルガルドへ』
ポッドの蓋がプシュリと開き、シルスは現実へと引き戻された。
隣のポッドから出てきたアリシアは、顔色が悪いものの、意識ははっきりとしていた。彼女の頭上には、シルスが偽造した【OR:88.0%】という安定した数値が浮かんでいる。
「シルス……大丈夫? なんだか、すごい顔をしてる」
「……ああ。この街の『帳簿』の裏側を、少し覗いただけだ」
シルスは石版を引き抜き、懐に隠した。
画面の端には、先ほど盗み出した管理領域の地図データが、青白く光っている。
彼らが今、幽霊市民として手に入れた特権。それは、システムから「正常な部品」として認識されつつ、その実態は自由な意志を持って動けるという、この街における唯一の矛盾だった。
だが、安堵する時間はなかった。
登録センターの出口に向かおうとした二人の前で、一人の市民が足を止めた。
どこにでもいる、平凡な中年女性だ。
しかし、彼女の頭上に浮かぶ最適化率が、一瞬で【100.0%】へと固定され、その瞳から人間らしい光が完全に消えた。
「――見つけましたよ、旧時代のバグ(シルス・ヴァレリウス)」
女性の口から発せられたのは、先ほどの難民キャンプで聞いた、あの冷徹な管理者の声だった。
「ヴァルダス……」
シルスはアリシアを背後に庇い、石版を構える。
女性の体は、ヴァルダスの意識を一時的に宿す「端末」へと成り果てていた。
エーテルガルドにおいて、数万の市民はすべてヴァルダスの目であり、耳であり、口なのだ。
「私のシステムに土足で踏み込み、幽霊のように隠れ住もうとは。……監査官らしい、卑怯で合理的な手口です」
ヴァルダスがジャックした女性は、ピクリとも表情を変えずにシルスを見つめる。
周囲の市民たちは、この異常な光景を認識することすらなく、機械的に二人の脇を通り過ぎていく。
「卑怯だと? 君こそ、救済という名目で市民の脳を勝手に演算リソースに使うのは、重大な契約違反(背信行為)ではないのか?」
「いいえ。彼らは同意しました。飢えと恐怖からの解放という報酬に対し、思考リソースの提供という対価を支払うことに。……これは、極めて公正な取引です」
女性のバイザーが、不気味な白光を放つ。
「シルス・ヴァレリウス。君というエラーを削除するのは容易ですが、それでは計算の美しさが損なわれる。……提案があります。君も私のシステムの一部となり、この世界の『最終解』を共に見届けませんか?」
ヴァルダスの言葉と共に、周囲を歩いていた数人の市民たちが一斉に足を止め、シルスたちを包囲するように向きを変えた。
彼らの頭上の数値が、次々と【100.0%】に塗り替えられていく。
「……お断りだ。僕は、他人の計算機になるつもりはない」
シルスは石版を強く握りしめ、アリシアに目配せをした。
潜入は終わった。
ここからは、完璧な秩序を誇る「楽園」の中での、終わりのない逃走と監査が始まる。
新聖都の白き壁に、初めて「不協和音」という名の亀裂が走り始めた。




