第16話:救済のロジック
シルスの眼前で、暴れていた盗賊たちの個が消滅した。
それは肉体的な死ではない。白き兵団――法執行官のバイザーが青く発光した瞬間、男たちの顔から憤怒や欲望、恐怖といった人間特有のノイズが抜け落ち、ただの従順な生体部品へと書き換えられたのだ。
「……シルス、あれは何? 死んでるの? 生きてるの?」
隣で様子を窺っていたアリシアが、吐き気をこらえるように口元を押さえる。
彼女の指先から伸びる銀糸が、行き場を失って空しく震えていた。敵意を向けてくる相手なら斬れる。だが、目の前の存在は、敵意そのものを削除されている。
「生体反応はある。心拍、呼吸、血流、すべて正常だ。だが……精神波形が異常だ」
シルスが黒曜石の石版をかざし、整列し始めた盗賊たちをスキャンする。
画面に表示されたのは、本来なら複雑に乱高下するはずの感情グラフが、不気味なほど平坦な一直線を描いている様だった。
通常、人間が他人から制圧された直後であれば、アドレナリンの分泌や恐怖によるスパイクが観測されるはずだ。だが、彼らの脳内には、凪いだ湖面のような静寂しかない。
「恐怖、怒り、そして空腹感への不満……すべてがシステム側で不要なエラーとしてカットされている。ドーパミンとセロトニンの分泌量が、常に最適値に固定されているんだ。彼らは今、人生で最も穏やかで、幸福な状態にあると言える」
「そんなの……人間じゃないわ。ただの人形じゃない」
アリシアが自身の腕を抱く。彼女にはわかるのだ。あの白い列に加われば、もう二度と「自分」に戻れないことが。あそこで配給されているのは平穏ではない。思考の死だ。
だが、その根源的な恐怖を共有しているのは、この場の理を知るシルスとアリシアだけだった。
バリケードの裏から、怯えていた難民たちが恐る恐る顔を出す。
彼らが目にしたのは、先ほどまで自分たちを脅し、食料を奪っていた凶悪な盗賊が、法執行官から配給された携帯食料を、機械的な動作で――しかし、どこか感謝しているような表情で――咀嚼している姿だった。
そこには暴力も、略奪もない。
雨に打たれることもなく、飢えに苦しむこともない。
ただ、効率的で絶対的な保護があるだけだ。
その光景は、泥水を啜って生き延びてきた難民たちにとって、あまりにも魅力的な救いに見えた。
「……おい、見たか。あの盗賊たちが、あんなに大人しくなったぞ」
「兵士様がパンを渡している……! 銀色の包みの、柔らかそうなパンだ」
ざわめきが広がる。
恐怖よりも先に、生存本能が彼らの足を突き動かした。
「ま、待ってくれ! 俺たちも保護してくれ!」
一人の老人が、バリケードを乗り越えて兵士たちの方へ走り出した。
泥だらけの服、こけた頬。限界まで追い詰められた命が、光へと群がる。
「おい、待て! 近づくな!」
シルスが鋭く制止の声を上げた。
だが、老人は止まらない。彼はシルスの警告など聞こえていないかのように、法執行官の足元に縋り付いた。
「お願いだ、なんでもする! 飯をくれ! 孫が飢えているんだ!」
純白の法執行官が、無機質な動作で見下ろす。
そのバイザーには、慈悲の色も、軽蔑の色もない。ただ、事務的なスキャン光が走るだけだ。
『――申請を受理。市民登録プロセスを開始しますか? 同意する場合、個人の全思考リソースを中央サーバーへ委譲してください』
合成音声が条件を提示する。
思考の委譲。それは、人間としての尊厳を放棄する契約だ。
だが、老人は迷わなかった。
「い、委譲します! 飯さえ食えるなら、なんでもいい! 早く!」
老人が叫んだ瞬間、法執行官の手が老人の頭部に触れた。
淡い青色の光が走る。
シルスの石版には、老人の脳内で「自我」を司る領域が、外部からの信号によって強制的に上書きされていくログが流れていた。
数秒後。
老人の顔から、飢えの苦しみと、死への恐怖が嘘のように消え失せた。
彼は恍惚とした表情で立ち上がり、兵士から渡された銀色のパッケージを受け取る。そして、まるで聖遺物を扱うかのように丁寧に封を開け、中身を口にした。
それを見た他の難民たちが、我先にと雪崩を打って駆け出す。
「私も! 私もお願い!」
「子供がいるんだ! 助けてくれ!」
「もう嫌だ、こんな生活はもう嫌なんだ!」
誰もが思考を差し出し、パンを受け取る。
それは、ヴァルダスが設計した完璧な取引だった。
飢餓という「バグ」を取り除く代わりに、自由意志という「コスト」を徴収する。誰一人として損をしていない。シルスが守ろうとした自由などより、彼らは目の前の確実な飼育を選んだのだ。
「……馬鹿な。自ら家畜になりに行くのか」
シルスが呆然と呟く。
握りしめた石版が、怒りに呼応して熱を帯びる。
彼が第一部で命を懸けて勝ち取った自由とは、こんなにも脆く、安っぽいものだったのか。
止めようと思えば止められる。アリシアの糸で法執行官を斬り、強制同期を中断させることは可能だ。
だが、それをすれば、シルスは難民たちから「パンを奪う悪魔」として石を投げられるだろう。
正義は、もはやシルスの側にはない。
その時、旧王都の上空に顕現していた聖女エレーナの巨大ホログラムが、ゆっくりと口を開いた。
彼女の唇が動くのと同時に、大気が震えるほどの重低音が響き渡る。
『――聞け、迷える旧時代の遺物たちよ』
響き渡ったのは、可憐な聖女の声ではない。
ヴァルダス・アイアンウッドの声だ。
一切の感情を排し、純粋な論理のみで構成されたその声は、広域通信魔法を通じて地域一帯の空気を支配した。
『貴君らが今味わっている苦しみ。飢餓、略奪、不安、孤独。それらはすべて、不完全な個体が、不完全なまま自由に振る舞った結果生じた計算エラーである』
ホログラムの映像が切り替わる。
空に投影されたのは、再建された新聖都エーテルガルドの輝かしい街並みだった。
そこには、清潔な衣服を着た人々が、争うことなく行き交っている。誰もが満ち足りた顔をし、路地裏で凍える者など一人もいない。
『私の管理する都市には、エラーは存在しない。
ここでは、聖女エレーナの愛に基づいたアルゴリズムが、全市民の幸福をリアルタイムで最適化している。
誰かが富を独占することはない。誰かが悲しみに暮れることもない。
なぜなら、悲しみを感じる前に、システムがその感情を脳内分泌レベルで調整するからだ』
ヴァルダスの言葉は、あまりにも残酷な真実を突きつけていた。
シルスが暴いた王の不正などよりも、今の無秩序な自由の方が、民衆にとっては遥かに過酷な地獄だったのだ。
ヴァルダスは、その地獄からの唯一の出口を提供している。
『自由とは、強者のみに許された贅沢品だ。
シルス・ヴァレリウスのような、力ある者だけが享受できる嗜好品に過ぎない。
持たざる者よ。弱き者よ。貴君らに問う。
明日をも知れぬ自由な地獄と、永遠に満たされた管理された楽園。
……どちらが、生命として正しい在り方か』
その問いかけは、決定打だった。
難民たちは涙を流してひれ伏し、空に向かって祈りを捧げ始めた。
もはや誰も、シルスたちの方を見ようともしない。彼らにとってシルスは、かつて王都を壊し、この飢餓をもたらした「破壊者」でしかないのだ。
「……シルス、行こう」
アリシアがシルスの袖を引いた。彼女の顔は蒼白だ。
法執行官たちが、同期を終えた市民たちを誘導し、新聖都の方角へと歩き始めている。その整然とした行進は、葬列のように静かで、軍隊のように正確だった。
「ここにいたら、私たちまでノイズとして処理される。……あの人たちはもう、助けられない」
シルスは、列を成して歩いていく人々――かつて自分が救ったはずの人々を見つめたまま、石版を強く握りしめた。
画面には「監査不能」のエラー文字が点滅している。
「……ああ。彼らの論理では、僕こそが世界を乱すウイルスだ」
ヴァルダスは間違っていない。少なくとも、数字の上では。
だが、シルスの監査官としての直感が、激しい警告音を鳴らしていた。
この完璧なシステムは、人間を救っているのではない。人間という生体資源を使って、何か別の巨大な演算を行っているだけだ。
その証拠に、法執行官に連れられていく人々の頭上に、微かなデータの送受信コードが見えた。彼らの脳は、巨大なネットワークの一部として並列接続されている。
「……ヴァルダス。君は一体、彼らの脳を使って何を計算させている?」
シルスは踵を返した。
逃げるためではない。
この狂った楽園の中枢――エーテルガルドへ、自らウイルスとして侵入するために。
外側からの破壊が正義とされないのなら、内側からその欺瞞を証明するしかない。
雨が止み、雲の切れ間から差し込む人工的な光が、二人の背中を冷たく照らしていた。




