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因果の不渡り  作者: ヨシ
第ニ部:統治社会編
15/18

第15話:野良の監査官



 かつて栄華を極めた王都リュミエールの空が剥がれ落ちてから、三ヶ月が過ぎていた。


 降り止まない鉛色の雨が、黒く焼け焦げた石畳を叩いている。

 白亜の城壁は崩れ去り、貴族たちが優雅に暮らしていた上層区は、今や巨大な瓦礫の墓標と化していた。かつて王都の夜を照らしていた無限の魔力供給は停止し、都市機能は完全に麻痺している。

 清潔な水も、安全な寝床も、法も秩序もない。

 あるのは、泥にまみれた暴力と、明日の食糧を巡る終わりのない奪い合いだけだ。


 それが、シルス・ヴァレリウスがもたらしたデフォルトという結末だった。


 彼は王と勇者の嘘を暴き、この国を救った。だが同時に、この国を殺したのだ。


(……破壊は、監査の半分に過ぎない)

(腐った土台を壊したのなら、その瓦礫の上に新しい式を立てる義務がある。たとえその過程で、世界中から恨まれようとも)


---


 旧王都外縁部、難民たちが身を寄せるスラム街。

 腐った木材と鉄屑を積み上げて作られたバリケードの前で、怒号と悲鳴が交錯していた。


「おい! 聞こえねぇのか! 通行料だと言っているだろう!」


 薄汚れた革鎧を着た男が、歪な形をした杖を振り回している。

 男はかつて騎士団の下働きをしていた崩れなのだろう。彼が握っている杖は、先端に赤い魔石が無理やり針金で固定された、粗悪な改造品だった。


「こ、この『炎の杖』の威力を忘れたか! 俺の魔力があれば、お前らごとき消し炭にするのは簡単なんだぞ!」


 男が杖を振るうたび、切っ先から不安定な火花が散り、強烈な焦げ臭さが周囲に充満する。

 バリケードの裏には、痩せ細った女たちが子供を抱きかかえて震えていた。


「も、もう食い物は残ってねぇよ……! 昨日、あんたたちが全部持っていったじゃないか!」

「知るかよ! なら、その女を置いていきな。街の闇市で売れば、パン数個分にはなるだろうさ!」


 下卑た笑い声を上げ、男たちがバリケードを乗り越えようとする。

 リーダー格の男が、見せしめとばかりに杖を難民の少女に向けた。魔石が不気味に赤熱し、限界を超えた魔力が暴発寸前の唸りを上げる。


「死ねぇ!」


 男が叫び、魔力を込めた――その瞬間だった。


「――監査対象を確認。……未認可の魔導具使用。および、魔力運用規約違反だ」


 雨音を切り裂くように、乾いた男の声が響いた。

 闇の奥から、一人の影が歩み出る。

 泥と煤で汚れてはいるが、仕立ての良い漆黒のロングコート。右目は長く伸びた銀髪で隠れ、露わになった左目は、感情のない冷たい闇色をしている。

 

 シルス・ヴァレリウス。

 彼の手には、無数の傷が刻まれた黒曜石の石版が握られていた。


「あぁ? 誰だてめぇは!」


「通りすがりの監査官だ。……警告しておく。その杖、出力制御回路が焼き切れているぞ。君のような素人が無理やり魔力を流し込めば、あと数秒で臨界点を超える。火が出るのは杖の先じゃない。君の右腕だ」


「は、はったりを言うな!」


 男は顔を真っ赤にして、杖をシルスに向け直した。恐怖と怒りで手元が狂い、魔力の制御がさらに乱れる。

 シルスは動かない。石版を見るまでもない。彼の左目には、杖の中で渦巻く魔力の暴走予兆が、真っ赤な警告ログとして視えていた。


「忠告はした」


 シルスが短く呟くと同時、彼の背後から一陣の風が吹いた。


「――執行」


 鈴を転がしたような、しかし氷のように冷徹な少女の声。

 暗闇を銀色の閃光が走った。

 音はない。あまりにも鋭利な切断は、大気すらも傷つけずに通り過ぎる。


 カツン、と乾いた音がした。

 男が握っていた杖の先端――魔石の部分が、綺麗に切断されて地面に落ちたのだ。

 地面に落ちた魔石は、行き場を失った魔力を吐き出し、ポンと小さな音を立てて爆ぜた。


「な……あ……?」


 男は自分の手元に残った、ただの木の棒を呆然と見つめた。

 男たちの背後、瓦礫に築かれた塔の上に、人影が着地する。


 アリシア・レインフォードだった。

 三ヶ月前までは守られるだけの少女だった彼女は今、戦場の空気を纏っていた。

 ボロボロの作業服に、シルスのお下がりのジャケット。だが、捲り上げた袖から覗く両腕には、美しい銀色の幾何学模様が刺青のように走り、その指先からは、雨粒すらも切り裂く極細の銀糸がゆらりと伸びている。


「ひ、ひぃぃっ! 『銀糸の処刑人』だ! こいつら、あの噂の!」


 アリシアの姿を見た瞬間、盗賊たちの顔色が土色に変わった。

 この数ヶ月、旧王都周辺で悪辣な略奪者のみを狙って狩り続ける、正体不明の野良監査官の噂は、恐怖と共に広まっていたのだ。


「逃げろ! 殺されるぞ!!」


 武器を失った男たちは、蜘蛛の子を散らすように闇の中へと消えていった。


---


「……ふぅ。怪我はない、シルス?」


 アリシアが慣れた手つきで銀糸を巻き取り、足元の瓦礫から飛び降りる。

 その表情には、まだあどけなさが残っていたが、瞳の奥には人を殺める覚悟を決めた者特有の静けさがあった。


「問題ない。……無駄な戦闘リソースを割かずに済んだ」


 シルスは石版の画面を指で弾き、「案件解決:報酬ゼロ」のログを閉じる。

 すると、バリケードの裏から、難民たちが恐る恐る出てきた。


「あ、ありがとうございました! あなた方は、我々の救世主だ!」

「お願いだ、何かお礼を……このパンくらいしかありませんが、どうか……」


 痩せこけた老婆が、カビの生えた固いパンを震える手で差し出す。それは彼女にとって、命そのものだったはずだ。

 だが、シルスは冷たく首を横に振った。


「受け取れない。勘違いするな、僕は君たちを助けたわけじゃない」


 シルスの声には、明確な拒絶があった。


「あの男たちの魔力運用が、周囲の空間因果を歪めていた。放置すれば爆発事故に繋がり、二次災害のリスクがあったから処理した。……ただの、現場の保全作業だ」


 老婆の手が空を切る。

 アリシアが悲しげな目でパンを見つめたが、シルスの意図を汲んで黙って俯いた。


 彼らは英雄になってはいけないのだ。

 この地獄を作り出した張本人が、被害者から感謝されるなどという欺瞞は、シルスの監査基準が許さない。


「行こう、アリシア。このエリアの魔力濃度も低下している。長居は無意味だ」


 シルスが踵を返した、その時だった。


 ブゥゥゥゥン……。


 シルスの腰にある黒曜石の石版が、かつてないほど不快な低周波の振動を始めた。

 画面が激しく明滅し、赤いノイズが走る。


『――警告。広域干渉波を探知。……極めて強固な論理結界が接近中。……これは、魔力ではない。純粋な演算コードの圧力です』


「……なんだ、この波形は?」


 シルスが眉を顰め、石版を空にかざす。

 通常の魔法攻撃なら、波形は荒々しいスパイクを描く。だが、今検知しているのは、定規で引いたように真っ直ぐで、冷徹な水平線だった。

 それは、一切のゆらぎを許さない、絶対的な秩序の接近を告げていた。


「シルス! 空を見て!」


 アリシアの叫び声。

 厚く垂れ込めていた鉛色の雨雲が、まるで巨大な刃物で切り裂かれたように左右へ割れた。

 雲の切れ間から差し込んだのは、太陽の光ではない。

 人工的な、青白い光の柱だった。


 光の中を降下してくる物体があった。

 純白の装甲に覆われた、滑らかな流線型の飛行物体。翼はなく、重力を無視して静止しているそれは、巨大な空飛ぶ石版のようにも見えた。

 その側面ハッチが開き、白い影が次々と地上へと舞い降りる。


 着地音すらしない。

 現れたのは、全身を継ぎ目のない白い鎧で覆った兵士たちだった。

 彼らの顔には目も鼻もなく、あるのはただ、青く発光する一本のラインが走る黒いバイザーだけ。


「……教会の騎士団? いえ、違うわ。気配が……人間じゃないみたい」


 アリシアが本能的な恐怖に後ずさる。

 兵士たちの胸には、旧王都の獅子の紋章ではなく、無機質な幾何学模様――複雑な回路図のようなシンボルが刻まれていた。


 逃げ遅れた盗賊の一人が、不幸にも彼らの着地地点に鉢合わせた。

 盗賊は半狂乱になり、隠し持っていたナイフを白い兵士に向かって突き出した。


「く、来るな! 化け物め!」


 刃が兵士の首筋に迫る。

 だが、兵士は身じろぎもしない。剣を抜くこともしない。

 ただ、そのバイザーの光が「カッ」と強く瞬いただけだった。


『――対象:社会的非適合者。……推奨処理:更生プログラムの適用』


 抑揚のない合成音声が響く。

 次の瞬間、盗賊の動きがピタリと止まった。

 血を吐いて倒れたのではない。まるで糸が切れた人形のように、攻撃の意志だけが蒸発したのだ。

 ナイフがカランと地面に落ちる。

 盗賊は焦点の合わない目で虚空を見つめ、やがて糸が繋がったかのように背筋を伸ばし、兵士たちの列に加わった。


 その顔からは、先ほどまでの恐怖も、殺意も、飢えの苦しみさえも消え失せていた。

 あるのは、不気味なほどの安らぎだけ。


「……おい。今、何をした?」


 シルスの背筋に、生理的な悪寒が走る。

 石版の解析ログが、信じられない結果を弾き出していた。

 

 ――対象の思考回路、物理的切断。

 ――感情中枢、初期化完了。

 ――管理者権限、サーバーへ委譲。


 彼らは殺していない。

 人間を初期化して、使いやすい部品に書き換えたのだ。


 白い兵団の向かう先――旧王都の中心部に、巨大な光の柱が立ち昇る。

 瓦礫を飲み込み、急速に再構築されていく白銀の摩天楼。

 その頂には、かつての聖女エレーナの姿を模した、巨大なホログラムが慈愛に満ちた(しかし無機質な)微笑みを浮かべていた。


 混沌とした廃墟に、死よりも静かな秩序が降り立つ。


「……始まったか、ヴァルダス」


 シルスは石版を握りしめ、ギリと歯を食いしばった。

 自由という名の地獄が終わる。

 そして、管理という名の、完璧な絶望が始まろうとしていた。


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