第15話:野良の監査官
かつて栄華を極めた王都リュミエールの空が剥がれ落ちてから、三ヶ月が過ぎていた。
降り止まない鉛色の雨が、黒く焼け焦げた石畳を叩いている。
白亜の城壁は崩れ去り、貴族たちが優雅に暮らしていた上層区は、今や巨大な瓦礫の墓標と化していた。かつて王都の夜を照らしていた無限の魔力供給は停止し、都市機能は完全に麻痺している。
清潔な水も、安全な寝床も、法も秩序もない。
あるのは、泥にまみれた暴力と、明日の食糧を巡る終わりのない奪い合いだけだ。
それが、シルス・ヴァレリウスがもたらしたデフォルトという結末だった。
彼は王と勇者の嘘を暴き、この国を救った。だが同時に、この国を殺したのだ。
(……破壊は、監査の半分に過ぎない)
(腐った土台を壊したのなら、その瓦礫の上に新しい式を立てる義務がある。たとえその過程で、世界中から恨まれようとも)
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旧王都外縁部、難民たちが身を寄せるスラム街。
腐った木材と鉄屑を積み上げて作られたバリケードの前で、怒号と悲鳴が交錯していた。
「おい! 聞こえねぇのか! 通行料だと言っているだろう!」
薄汚れた革鎧を着た男が、歪な形をした杖を振り回している。
男はかつて騎士団の下働きをしていた崩れなのだろう。彼が握っている杖は、先端に赤い魔石が無理やり針金で固定された、粗悪な改造品だった。
「こ、この『炎の杖』の威力を忘れたか! 俺の魔力があれば、お前らごとき消し炭にするのは簡単なんだぞ!」
男が杖を振るうたび、切っ先から不安定な火花が散り、強烈な焦げ臭さが周囲に充満する。
バリケードの裏には、痩せ細った女たちが子供を抱きかかえて震えていた。
「も、もう食い物は残ってねぇよ……! 昨日、あんたたちが全部持っていったじゃないか!」
「知るかよ! なら、その女を置いていきな。街の闇市で売れば、パン数個分にはなるだろうさ!」
下卑た笑い声を上げ、男たちがバリケードを乗り越えようとする。
リーダー格の男が、見せしめとばかりに杖を難民の少女に向けた。魔石が不気味に赤熱し、限界を超えた魔力が暴発寸前の唸りを上げる。
「死ねぇ!」
男が叫び、魔力を込めた――その瞬間だった。
「――監査対象を確認。……未認可の魔導具使用。および、魔力運用規約違反だ」
雨音を切り裂くように、乾いた男の声が響いた。
闇の奥から、一人の影が歩み出る。
泥と煤で汚れてはいるが、仕立ての良い漆黒のロングコート。右目は長く伸びた銀髪で隠れ、露わになった左目は、感情のない冷たい闇色をしている。
シルス・ヴァレリウス。
彼の手には、無数の傷が刻まれた黒曜石の石版が握られていた。
「あぁ? 誰だてめぇは!」
「通りすがりの監査官だ。……警告しておく。その杖、出力制御回路が焼き切れているぞ。君のような素人が無理やり魔力を流し込めば、あと数秒で臨界点を超える。火が出るのは杖の先じゃない。君の右腕だ」
「は、はったりを言うな!」
男は顔を真っ赤にして、杖をシルスに向け直した。恐怖と怒りで手元が狂い、魔力の制御がさらに乱れる。
シルスは動かない。石版を見るまでもない。彼の左目には、杖の中で渦巻く魔力の暴走予兆が、真っ赤な警告ログとして視えていた。
「忠告はした」
シルスが短く呟くと同時、彼の背後から一陣の風が吹いた。
「――執行」
鈴を転がしたような、しかし氷のように冷徹な少女の声。
暗闇を銀色の閃光が走った。
音はない。あまりにも鋭利な切断は、大気すらも傷つけずに通り過ぎる。
カツン、と乾いた音がした。
男が握っていた杖の先端――魔石の部分が、綺麗に切断されて地面に落ちたのだ。
地面に落ちた魔石は、行き場を失った魔力を吐き出し、ポンと小さな音を立てて爆ぜた。
「な……あ……?」
男は自分の手元に残った、ただの木の棒を呆然と見つめた。
男たちの背後、瓦礫に築かれた塔の上に、人影が着地する。
アリシア・レインフォードだった。
三ヶ月前までは守られるだけの少女だった彼女は今、戦場の空気を纏っていた。
ボロボロの作業服に、シルスのお下がりのジャケット。だが、捲り上げた袖から覗く両腕には、美しい銀色の幾何学模様が刺青のように走り、その指先からは、雨粒すらも切り裂く極細の銀糸がゆらりと伸びている。
「ひ、ひぃぃっ! 『銀糸の処刑人』だ! こいつら、あの噂の!」
アリシアの姿を見た瞬間、盗賊たちの顔色が土色に変わった。
この数ヶ月、旧王都周辺で悪辣な略奪者のみを狙って狩り続ける、正体不明の野良監査官の噂は、恐怖と共に広まっていたのだ。
「逃げろ! 殺されるぞ!!」
武器を失った男たちは、蜘蛛の子を散らすように闇の中へと消えていった。
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「……ふぅ。怪我はない、シルス?」
アリシアが慣れた手つきで銀糸を巻き取り、足元の瓦礫から飛び降りる。
その表情には、まだあどけなさが残っていたが、瞳の奥には人を殺める覚悟を決めた者特有の静けさがあった。
「問題ない。……無駄な戦闘リソースを割かずに済んだ」
シルスは石版の画面を指で弾き、「案件解決:報酬ゼロ」のログを閉じる。
すると、バリケードの裏から、難民たちが恐る恐る出てきた。
「あ、ありがとうございました! あなた方は、我々の救世主だ!」
「お願いだ、何かお礼を……このパンくらいしかありませんが、どうか……」
痩せこけた老婆が、カビの生えた固いパンを震える手で差し出す。それは彼女にとって、命そのものだったはずだ。
だが、シルスは冷たく首を横に振った。
「受け取れない。勘違いするな、僕は君たちを助けたわけじゃない」
シルスの声には、明確な拒絶があった。
「あの男たちの魔力運用が、周囲の空間因果を歪めていた。放置すれば爆発事故に繋がり、二次災害のリスクがあったから処理した。……ただの、現場の保全作業だ」
老婆の手が空を切る。
アリシアが悲しげな目でパンを見つめたが、シルスの意図を汲んで黙って俯いた。
彼らは英雄になってはいけないのだ。
この地獄を作り出した張本人が、被害者から感謝されるなどという欺瞞は、シルスの監査基準が許さない。
「行こう、アリシア。このエリアの魔力濃度も低下している。長居は無意味だ」
シルスが踵を返した、その時だった。
ブゥゥゥゥン……。
シルスの腰にある黒曜石の石版が、かつてないほど不快な低周波の振動を始めた。
画面が激しく明滅し、赤いノイズが走る。
『――警告。広域干渉波を探知。……極めて強固な論理結界が接近中。……これは、魔力ではない。純粋な演算コードの圧力です』
「……なんだ、この波形は?」
シルスが眉を顰め、石版を空にかざす。
通常の魔法攻撃なら、波形は荒々しいスパイクを描く。だが、今検知しているのは、定規で引いたように真っ直ぐで、冷徹な水平線だった。
それは、一切のゆらぎを許さない、絶対的な秩序の接近を告げていた。
「シルス! 空を見て!」
アリシアの叫び声。
厚く垂れ込めていた鉛色の雨雲が、まるで巨大な刃物で切り裂かれたように左右へ割れた。
雲の切れ間から差し込んだのは、太陽の光ではない。
人工的な、青白い光の柱だった。
光の中を降下してくる物体があった。
純白の装甲に覆われた、滑らかな流線型の飛行物体。翼はなく、重力を無視して静止しているそれは、巨大な空飛ぶ石版のようにも見えた。
その側面ハッチが開き、白い影が次々と地上へと舞い降りる。
着地音すらしない。
現れたのは、全身を継ぎ目のない白い鎧で覆った兵士たちだった。
彼らの顔には目も鼻もなく、あるのはただ、青く発光する一本のラインが走る黒いバイザーだけ。
「……教会の騎士団? いえ、違うわ。気配が……人間じゃないみたい」
アリシアが本能的な恐怖に後ずさる。
兵士たちの胸には、旧王都の獅子の紋章ではなく、無機質な幾何学模様――複雑な回路図のようなシンボルが刻まれていた。
逃げ遅れた盗賊の一人が、不幸にも彼らの着地地点に鉢合わせた。
盗賊は半狂乱になり、隠し持っていたナイフを白い兵士に向かって突き出した。
「く、来るな! 化け物め!」
刃が兵士の首筋に迫る。
だが、兵士は身じろぎもしない。剣を抜くこともしない。
ただ、そのバイザーの光が「カッ」と強く瞬いただけだった。
『――対象:社会的非適合者。……推奨処理:更生プログラムの適用』
抑揚のない合成音声が響く。
次の瞬間、盗賊の動きがピタリと止まった。
血を吐いて倒れたのではない。まるで糸が切れた人形のように、攻撃の意志だけが蒸発したのだ。
ナイフがカランと地面に落ちる。
盗賊は焦点の合わない目で虚空を見つめ、やがて糸が繋がったかのように背筋を伸ばし、兵士たちの列に加わった。
その顔からは、先ほどまでの恐怖も、殺意も、飢えの苦しみさえも消え失せていた。
あるのは、不気味なほどの安らぎだけ。
「……おい。今、何をした?」
シルスの背筋に、生理的な悪寒が走る。
石版の解析ログが、信じられない結果を弾き出していた。
――対象の思考回路、物理的切断。
――感情中枢、初期化完了。
――管理者権限、サーバーへ委譲。
彼らは殺していない。
人間を初期化して、使いやすい部品に書き換えたのだ。
白い兵団の向かう先――旧王都の中心部に、巨大な光の柱が立ち昇る。
瓦礫を飲み込み、急速に再構築されていく白銀の摩天楼。
その頂には、かつての聖女エレーナの姿を模した、巨大なホログラムが慈愛に満ちた(しかし無機質な)微笑みを浮かべていた。
混沌とした廃墟に、死よりも静かな秩序が降り立つ。
「……始まったか、ヴァルダス」
シルスは石版を握りしめ、ギリと歯を食いしばった。
自由という名の地獄が終わる。
そして、管理という名の、完璧な絶望が始まろうとしていた。




