第14話:奇跡の単価
シルスが黒曜石の石版に掌を叩きつけた瞬間、王都リュミエールの「空」が剥がれ落ちた。
広場を埋め尽くす数万の民衆。彼らの一人ひとりの網膜に、教会の隠蔽術式を貫通する「監査用視界」が強制的に上書きされたのだ。
先ほどまで彼らが涙を流して崇めていた勇者の「浄化の光」は、その本性を現した。
「な……なんだ、この糸は……!?」
一人の男が悲鳴を上げた。
勇者アルリックが掲げる聖剣から、無数の、おぞましいほど鮮やかな「赤い糸」が触手のように伸びている。その糸の先は、広場で祈る民衆の胸元へ、そして足元の石畳を通り抜け、地下に眠る「部品」たちへと深く突き刺さっていた。
アルリックが聖剣を振るうたび、糸が脈打ち、民衆の体から「何か」を吸い上げていく。
彼らの視界の隅には、見たこともない赤い数字が狂ったようにカウントダウンを刻んでいた。それは、彼らが今日この「奇跡」を享受するために支払わされている、自らの「残り寿命」の秒数だった。
「勇者様が……俺たちの命を吸っている……?」
その囁きは、瞬く間に絶望の咆哮へと変わった。
聖なる光に焼かれて消えたはずの汚泥よりも、自分たちを救うと信じていた光の方が、遥かに冷酷に彼らを食い物にしていたのだ。
---
混乱の極致にある広場を、さらに絶望が襲う。
バルコニーに立つ国王レグルスの全身から、眩い黄金の霧が噴き出した。シルスが、王室にのみ許されていた「生命補填術式」の供給路を物理的に切断したのだ。
「あ、が……あ、ああああ……!」
威厳に満ちていた王の肉体が、音を立てて崩壊していく。
青々としていた肌は一瞬で土色に乾き、豊かな髪は埃のように舞い散った。数秒後、そこにいたのは豪奢な王衣を纏った、見るに耐えない「生ける骸骨」だった。
下層区のモニター越しにその様を見つめながら、シルスは静かに告げた。
『――覚えているか、陛下。そしてアルリック。かつて僕が君たちに処方し、君たちが毎日飲み続けてきた「回復の秘薬」を』
画面の中で、干からびた王が何かを言おうとして、灰のように崩れ落ちる。
『あれはただの薬じゃない。外部からの魔力供給を受け入れやすくするための「受容体」を育てるための餌だ』
シルスが手元の石版を操作すると、王とアルリックの体内にある魔力回路図が表示された。
彼らの心臓部には、あの薬によって刻まれた、醜い「裏口」がぽっかりと口を開けていた。
シルスは、かつて仲間に親切心で薬を調合していた頃の自分を嘲笑うように、石版の最奥に赤く輝く『執行紋章』を指で押し込んだ。
『君たちは強くなった気でいたろうが、実際は逆だ。あの薬を飲むたびに、君たちは「供給」なしでは一秒たりとも生きられない体になっていたんだよ』
シルスの宣告と共に、王は完全に塵となって消滅した。
僕が渡したのは薬じゃない。破滅への「定期購入契約書」だ。そして今、僕がその契約を一方的に破棄した。
王が若さを保つために、治癒院で死を待つ孤児たちの命を、数十年分も「横領」し続けていた事実が、石版を通じて王都中の投影水晶に曝露される。
「これが、お前たちが守ろうとした『秩序』の正体だ」
拡声術式を通じて響くシルスの声は、もはや怒りすら含まず、ただ事務的な冷徹さに満ちていた。
「救世主も、賢王も存在しない。ここにいるのは、他人の命を担保に贅沢を貪る、ただの債務超過者たちだ」
---
「い、いやぁあああっ!! 私の魔力が!? 肌が!?」
王宮のバルコニーから、悲鳴が響き渡った。 魔導師マイラが、自身の顔を掻きむしりながら転げ回っている。 シルスによる供給停止は、彼女が誇っていた「天才的な魔力」が、実は外部からの過剰供給に過ぎなかったことを露呈させたのだ。
「嘘よ! 私は特別なの! 選ばれたのよ!! なんで力が抜けていくのぉおお!?」
彼女がしがみついた愛用の杖『蒼穹の翼』が、魔力の逆流に耐えきれず、パキンと音を立てて砕け散る。 システムとの強制切断によるショックが、彼女の脳を焼き切ろうとしていた。
均衡は、完全に崩れた。
信仰という名のエネルギー源を絶たれた教会の魔導インフラは、音を立てて停止していく。
「動け! なぜ身体強化が発動しない!」
「監査官共、早く魔力を寄越せ! 民衆が門を破ろうとしているんだぞ!」
広場を警護していた聖印騎士団が、背後の枢機卿たちに怒鳴り声を上げる。だが、彼らに「奇跡」を配分していた枢機卿たちは、すでに自分たちだけが助かるための転送陣を起動させようと、互いの喉笛を突き合っていた。
組織が組織を裏切り、頭脳が手足を切り捨てる。
リュミエールを滅ぼしたのは、シルスの魔力ではない。
「自分だけは支払いたくない」という、この街を形作っていた醜い保身の連鎖が、ついに限界を迎えたのだ。
暴徒化した民衆が王宮へなだれ込み、給料を絶たれた騎士たちが教会を略奪し始める。
美しい白亜の都市は、今や内側から湧き出した憎悪という名の汚泥に、自ら沈んでいった。
---
下層区、第7施設。
モニター越しに、かつての故郷が崩れ去る様を、シルスは無言で見つめていた。
「……これで満足、シルス?」
アリシアが、解かれた銀糸を掌に巻き取りながら問う。
彼女の目にも、もはや悲しみはなかった。ただ、大きな仕事を終えた後のような、乾いた虚無があるだけだ。
「満足などしていない。……僕はただ、預けられていた物を受け取り主に返しただけだ」
シルスは、黒く染まった左目をゆっくりと閉じた。
「行こう、アリシア。……ここも、じきに瓦礫になる」
二人は、崩壊し始めた施設の奥へと歩き出す。
背後では、王都リュミエールの終焉を告げる、巨大な鐘の音が一度だけ響き、そして途切れた。
だが、誰も知らなかった。
すべてが潰え、闇に包まれた王都の地下深くで。
監査官ヴァルダスのノイズまみれの残滓が、狂った聖女エレーナの肉体を「新しい苗床」として選び、不気味に脈打ち始めたことを。
「……旧システム、廃棄完了。……次期管理プログラム『Ver.2.0』……インストールを開始します」
暗闇の中で、再び完璧な「計算」の音が鳴り響いた。




