第11話:沈黙する歯車
下層区、第7廃棄処理施設――。
かつてガロウが支配し「肉の銀行」と呼ばれたその場所は今、王都リュミエールを絞め殺すための「心臓」へと変貌していた。
緑色の培養液が満たされた巨大な水槽群。そこには数千人の「処理待ち」の人々が浮かんでいる。
だが、彼らは解放されていない。シルスは彼らを助けるどころか、施設全体の出力を最大まで上げ、彼らを「生きたフィルター」として再配線していたのだ。
「……シルス、これで全部よ。上層区へ繋がる『聖水導管』、および『魔導通信線』への物理的な接合、完了したわ」
アリシアが額の油汚れを拭い、施設の中央制御室に張り巡らせた無数の銀糸を指し示す。
彼女の指先は、今や精密機械のパーツのように滑らかに動き、シルスの構築した理論を現実の回路へと縫い付けていた。
彼女の瞳に、かつての怯えはない。あるのは、共犯者としての冷徹な職務遂行の意志だけだ。
「ご苦労。……では、第1段階を開始しよう。まずは『快適さ』という名の麻薬を断つ」
シルスがレバーをゆっくりと操作する。
施設に蓄積されていた「因果の負債(汚泥)」が、本来の廃棄ルートではなく、上層区のライフラインを支えるバイパスへと逆流を始めた。
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上層区、リュミエール中央大通り。
そこは、この世の贅を尽くした「奇跡の街」だった。夜でも魔導灯が太陽のように輝き、蛇口を捻れば聖女の加護を受けた清潔な聖水が溢れる。
貴族たちはその恩恵が「誰の犠牲」で成り立っているかなど露ほども知らず、今夜も晩餐会に興じていた。
「……あら? 嫌だわ、この水。なんだか、少し生臭くない?」
高級レストランで、着飾った貴婦人が眉をひそめた。
クリスタルグラスに注がれた水は、透明に見える。だが、そこには下層区で煮詰められた「誰かの絶望」が、概念の毒となって溶け込んでいた。
一口飲めば、舌の奥に鉄錆と血の味が広がる。
パッ、と街灯が一つ消える。
続いて、広場の豪華な噴水が、ゴボゴボと不快な異音を立てて停止した。
「な、なんだ!? 灯りをつけろ!」
「空調が止まったぞ! 暑い、なぜこんなに蒸し暑いのだ!」
王都を支える巨大な魔導回路が、排出口を失ったことで発生した「熱」に耐えきれず、次々と安全装置を落とし始めたのだ。
エレベーターが止まり、通信機がノイズにまみれ、調理用の魔導コンロが火を吹かなくなる。
当たり前だった「インフラ」の死。それは、爆発や破壊よりも深く、貴族たちの心を恐怖させた。
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王都中枢、教会作戦会議室。
そこでは、国を動かす枢機卿たちが、悲鳴のような報告書に埋もれていた。
「報告します! 第3区画、および第5区画の魔力圧が急落! 原因不明のノイズにより、聖印騎士団の『身体強化』にラグが発生しています!」
「治癒院の聖水タンクが汚染されました! 治療中の患者に『逆流』が発生、被害拡大中!」
肥え太った枢機卿が、バンと机を叩いた。
「ええい、ガロウは何をしている! さっさとゴミを流せ! これでは上層区の地価が暴落してしまうぞ!」
「不通です! 下層区との通信回線に正体不明の『暗号化』が施されており、管理コードが通りません!」
「なんだと!? ただのゴミ処理場だぞ、なぜ制御できない!」
彼らが誇った巨大な組織「教会」は、その巨大さゆえに、末端の「排泄機能」が止まっただけで、全身に毒が回る仕組みになっていた。
彼らはパニックに陥り、互いに責任をなすりつけ合う。組織としての自浄作用は、既に機能していなかった。
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下層区、第7施設。
王都の混乱をモニター越しに見つめ、シルスは冷たく笑う。
彼の左目には、王都の魔力供給網が真っ赤なエラーメッセージで埋め尽くされているのが見えていた。
「シルス、これでいいの? まだ、彼らの武力は残っているわ。騎士団も、監査官たちも……」
「いいんだ、アリシア。飢えさせた猛獣は、いずれ飼い主の手を噛む。……上層区の騎士たちが、自分の『加護』が不安定になった時、真っ先に疑うのは誰だと思う?」
シルスは、チェス駒を倒すように、画面上の「教会本部」のアイコンを指で叩いた。
「自分たちに『奇跡』を配分している上層部だ。……信用の崩壊は、常に下から始まる」
その時、施設の外部センサーに反応があった。
モニターがノイズに染まり、漆黒の正装に身を包んだ集団の影が映し出される。
先頭に立つのはヴァルダス。そしてその背後には、彼と同じく感情を削ぎ落とした「正規監査官」たちが、整然と隊列を組んで控えていた。
個人の襲撃ではない。「組織」による鎮圧部隊の到着だ。
『――不法占拠者、リアン。貴公の行いは、もはや個人の犯罪ではない。……教会に対する宣戦布告と見なす』
スピーカーから響くヴァルダスの声は、依然として冷徹だった。
だが、シルスはその声の奥に、わずかな「計算誤差」への焦りを聞き取っていた。
「宣戦布告? 違うな、ヴァルダス。……これは、君たちがこれまで無視してきた『隠れ債務』の取り立てだ」
シルスは、アリシアに目配せをした。
「アリシア、第2段階だ。……まずは彼らの『指揮系統』を、内側からバグらせる」
暗い地下室で、シルスの左目が怪しく燃え上がる。
王都という巨大な歯車が、一歩ずつ、確実に狂い始めていた。




