【07】式典
士官学校の昼下がり、クラウスはまた通信棟へと足を運んでいた。
ミレイユから届いたのは、故ラングレー伯爵の戦功を讃える追悼式典を執り行うという知らせと、その参列を求める内容だった。
クラウスは一通り目を通し、口元をかすかに歪めた。無意識に漏れたその笑みは、冷めていて、どこか諦めにも似ていた。
「……追悼式、か」
彼は手紙を折り畳み、胸ポケットにしまう。間違いではないが、あの男が家族だったと言われると、思わず嘲笑が漏れた。
確かにあの男が残した功績は素晴らしい。北部の安寧は彼のお陰と言っても過言ではない。
だが、クラウスの記憶に刻まれているのは、冷めた金の瞳と圧倒的な強者のオーラ、そして全てを飲み込むほどの強大な氷魔法を操る姿だけだ。
子ども相手にも容赦のない、訓練という名の虐待に、何度も死の淵を彷徨った。
――お前はこれで三度死んだ。弱き者に民を守る資格はない。
今も耳に残るその冷酷な声音に、愛など微塵もない。それに、民を思う気持ちなど、あの男には無い。己の力を誇示し、魔獣を狩ることを楽しんでいただけだ。
本人には虐待だという自覚は一切なかっただろう。だが、剣や魔法を学んだばかりの子どもに何ができただろうか。ラングレー伯爵の訓練は常軌を逸していた。胸に残る一本の真横の傷を見るたび、その時の死の恐怖はいまだに蘇る。
まだ学業がある。式典には出ないつもりだ。だが、今頃シャーロットには知らせが届いているだろう。彼女の除籍手続きは、まだ準備段階に過ぎない。
冷たい風が頬を撫でる中、クラウスは項垂れていた。
***
式典の日はあっという間にやってきた。
朝から屋敷は慌ただしく、式典用の正装を整える仕立て人や、髪結いの者たちが出入りしている。
ミレイユは鏡の前で静かにため息をついた。黒を基調とした喪のドレスは決して派手ではないが、その分、質の高さが際立つ。
今日は、未亡人としての立場を最大限に活かす舞台。ここで一歩でも他家に先を越されれば、伯爵家の主導権は二度と戻らない。
「……まったく、こんな式典を開くなんて、何を考えているのかしら」
呟きながらも、口元はわずかにほころぶ。
伯爵家の未亡人、そして今や実質の家主として、貴族たちの注目を浴びるのは当然だ。
この日のために、屋敷の装飾も整えさせ、娘のアビーにも上等なドレスを用意させた。
「シャーロット様は?」
執事代わりのガストンが問うと、ミレイユは小さく笑みを浮かべた。
「ご自身で向かわれるそうよ。……それより、遅れは厳禁。行ってくるわ」
屋敷の馬車は、ゆっくりと出発した。
式典の会場は、王都の中心部にある大聖堂。貴族や軍関係者、各地の名士が集い、荘厳な空気が漂っている。到着と同時に、ミレイユはさりげなく周囲の視線を確認した。
視線の重さが肌に刺さる。だが、ミレイユはそれを恍惚にも似た快感として受け止めた。
これが“家”を背負うということ。注目される価値のある存在――自分こそが、ラングレーの顔だ。
「あの方も、もう先は長くないわね……」
「何度目の未亡人かしら?ふふ」
「さて、今度はどちらのお屋敷に寄り添うおつもりかしらね?」
だが、その視線はミレイユが思っていたものとは違っていた。
(煩い蠅どもが……。私は元・准侯爵家の娘よ。格が違うのよ。口を慎みなさい!)
ざわめきと好奇の視線を浴びながら、ゆっくりと式場の奥へと進む。
やがて、司祭が厳かに宣言する。
「これより、ラングレー伯爵――亡き英雄の功績を讃える式典を執り行います」
荘厳な鐘の音が響き渡る中、ミレイユは誇らしげに胸を張った。今日この場は、伯爵家が“健在”であることを印象付ける絶好の機会だ。
彼女はそれを、誰よりも理解していた。
しかしその瞬間――式場の入り口に、ひときわ目立つ姿が現れる。
現れたのは、黒いシンプルなドレスに身を包み、
スノーウルフの毛皮を肩に掛けた少女――シャーロットだった。
長い黒髪はゆるやかに結われ、杖を頼りにゆっくりと歩み寄る姿は、どこか幼さを残しながらも、凛とした雰囲気を漂わせている。
その存在は、まるで冬の月光――絢爛なドレスの海に浮かぶ、一滴の静謐。装飾でも虚飾でもない、凛とした存在感が、すべての目を惹きつけていた。
会場が一瞬、息を呑む気配に包まれる。
「もしかして、あの方がシャーロット様?」
「あの金の瞳。間違いないわ……。なんて可憐な方かしら」
ミレイユはその姿をちらりと横目で捉えながら、無意識に唇を噛んだ。
(……まさか、本当に来るなんて)
そうして、厳かに取引られた式典の余韻を残すまま、正装の一団はそのまま隣接する広間へと移動した。
式典が終わると、貴族や軍関係者が集まる慰労の小宴が始まっていた。豪奢な会場には、北部の名士や将校たちが立ち並び、亡きラングレー伯爵の武勇談に花を咲かせつつ、水面下では後継や領地の話がささやかれている。
ミレイユは淡いワインを傾けながら、内心は高揚していた。
(シャーロットは体調が悪い。慰労会までは来ないでしょ。それに除籍する身。……これで私が“伯爵家の顔”として認められるわ)
周囲の視線も心なしかミレイユに集まっており、彼女は上機嫌で微笑みを浮かべていたが、彼女の予想はすぐに裏切られる。
「……シャーロット・ラングレー様、ご到着です」
低く落ち着いた声が会場に響く。
シャーロットは相変わらず杖をついていたが、その隣には神官長が付き添っていた。
一部の貴婦人たちの間で、かすかなささやきが広がる。
「あれが……神官長のエミール様」
「相変わらずお美しいわ……」
(……また神官長をはべらして。病弱を盾に、どこまで庇護を引き込む気なのかしら。なんて下品なの)
ミレイユは手にしたグラスを握りしめ、わずかに顔色を変えた。
「皆様、本日はお忙しい中、父のためにお集まりいただきまして誠にありがとうございます。このような素晴らしい慰労会を開いていただき、心から感謝申し上げます。
父は人生の殆どを討伐に費やしました。それが出来たのも、皆様の支えによるものが大きいと感じております。
改めて感謝の気持ちを伝えたいと思います。ありがとうございました。」
彼女の真っ直ぐな瞳が一堂に注がれ、会場は一瞬の静寂に包まれた。シャーロットは深く一礼し、数秒の沈黙の後、口を開いた。
その小さな身体から紡がれる声は、静かに、けれど確かに――会場を貫いた。ミレイユは動揺を隠せず、ぎこちなく笑みを浮かべる。
「まあ……無理なさらないで。でも、お元気そうなお姿を拝見できて、皆さまも喜ばれていることでしょう」
周囲もおそるおそる微笑み返すが、視線はシャーロットに注がれている。
場の空気が張り詰める中、シャーロットは震える声でさらに言葉を続けた。
「そして……この場を借りて、もうひとつ。伯爵家に残された私を、温かく支えてくださったミレイユ様にも……心より、御礼を申し上げます。
ミレイユ様がいてくださったからこそ、私はようやく決意できました。伯爵家の未来を託せるのだと……思えるようになりました」
所詮は引きこもりの伯爵令嬢。
その繊細な容姿と型通りの所作からは想像し難い、世間知らずな少女の発言に、会場の空気は一瞬だけ和らぎ、さざめきが起きた。
ミレイユの顔に、ほのかに勝ち誇った笑みが浮かぶのを、シャーロットは見逃さなかった。
*
シャーロットは緊張した面持ちのまま、一人一人に丁寧に会釈をした。
「……父がお世話になりました。これからもどうか、皆さまにラングレー伯爵家を見守っていただけますよう……お願い申し上げます」
その言葉には、まだ幼い少女の純粋な祈りのような清らかさがあった。やがて、神官長に支えられながらシャーロットは静かに頭を下げる。
「……体調も限界のようで、これにて失礼いたします。皆さま、どうかご自愛くださいませ」
まるで自分の役目はこれで終わりだと告げるかのように、シャーロットはゆっくりと会場を後にした。
扉が閉まるまで、誰一人言葉を発せず、その後もしばらく会場は静まり返っていた――。
「素晴らしい立ち居振る舞いでしたよ。シャーロット嬢」
ホールを歩くシャーロットとエミール。シャーロットの顔色は相変わらず悪いが、足取りは先程よりどこかしっかりとしている。
エミールの賛辞にシャーロットは愛らしい笑みをこぼす。
「ふふ。この様な場に出るのは初めてなので、少し緊張してしまいました」
「シャーロット嬢にも、緊張することがあるのですね。除籍の件はこちらで進めますので、ご安心ください」
「緊張しっぱなしですよ。……エミール様、本当にありがとうございます。これも全て、あなたの協力があったからこそです」
「私はただ、ライラとその愛娘のあなたを、お守りしたかっただけですよ」
相変わらず、彼の笑顔は、神官とは掛け離れているなとシャーロットは苦笑した。
「あとは、魔弾銃の完成後に、クラウスをこの舞台から消せば、終わりを迎えられます。引き続き、手引きのほどよろしくお願いします」
「もちろんです。お嬢様」
エミールはまた悪戯っ子のように肩をすくめて笑う。二人は静かに馬車に乗り込むと、会場を後にした。
***
北部方面軍第七討伐師団の駐屯地内、師団本部の事務棟。石造りの無骨な建物の一室で、クラウスは無言で椅子に腰掛けた。
堅牢な壁に囲まれた空間は、冷たく乾いている。まるで彼自身の心情を映すかのようだった。
「討伐給の……振込先変更申請、ですか?」
「はい。こちらが申請書です」
クラウスは、事前に記入した用紙を差し出した。
用紙の『振込先指定』欄には、二つの口座名が記されている。
「二口に分けるなんて……珍しいですね。たいていは、本人か家族の代表者名義に一本化されますけど……。おひとつは、シャーロット様のお名義ですね」
「北部軍本部のギド司令官にも、事前に相談済みです。必要であれば、そちらに照会をお願いします」
事務官は眉をひそめつつも、ギド副司令官の名に押され、手続き書類を受け取った。
「……承知しました。では、本日付で申請を受理し、師団財務課に回します。来月からは、そちらの口座へ分割振込となる予定です」
「助かります」
椅子を立ち上がるクラウスに、事務官は小声で問いかけた。
「……ご家族への支援、ということで?」
クラウスは、ほんの僅かに口元を歪めた。
「……まさか。あの人達は、俺の家族じゃありませんよ」
皮肉でも憎悪でもない。ただ、冷たい断絶だけがそこにあった。それだけを残し、クラウスは背筋を伸ばしたまま部屋を後にした。
***
晴天の空の光を煌々と反射する雪原。
特別なゴーグルを装着し、口元を黒い布で覆い、軍帽を被ったクラウスは、スノーウルフとスノーベアと対峙していた。
部隊では魔法使いが前衛を務めるのが常だ。
初任の為ベテラン魔法使いが隣にはいるが、初めて対峙する魔獣に怯え、腰を抜かす者は少なくない。
クラウス達の背後には一般兵達がいた。彼らはクラウス達が取り逃した魔獣や小型の魔獣がな相手となる。それと、その背後に控える神官達を守る役目も負っている。
神官は回復役の要だ。彼らが死ぬということは、隊の全滅すらも意味すると言っても過言ではない。
呻き声をあげてるスノーウルフは見上げる程に大きい――その鋭い牙と爪、俊敏な動きで獲物を追い詰める雪原の狩人だ。
クラウスは啓示の記憶があるお陰か、初めての討伐とは思え無い程に慣れた雰囲気を自分でも感じていた。
「俺が補佐する。思いっきり試せ」
「ありがとうございます」
クラウスはあれから本格的に採掘が始まった魔石で、更に改良を重ねた魔弾銃を手にしていた。
その背後には、スノーウルフよりもさらに巨大なスノーベアが立ちはだかっている。筋骨隆々とした巨体が、広大な雪原の中でも威圧感を放っている。
魔獣は連携を取らない。
だからと言って討伐が楽になる訳でもないが……。
(……想像より、ずっと大きいんだな)
だが、クラウスの瞳に一片の迷いはない。自然と心は静まり、緊張の気配すら浮かばない。
ただ、引き金にかけた指に意識を集中する。
スノーウルフが低く唸るや、雪煙を撒き散らして突進してきた。クラウスは咄嗟に身をひねり、その牙を紙一重で躱す。
――パンッ、パンッ
乾いた銃声が、吹雪を裂いた。
魔弾銃から放たれた弾丸が、スノーウルフの脚肩と横腹を正確に貫く。
なおも迫る牙を冷静に交わしつつ、さらに二発。
臀部へと魔石弾を撃ち込むと、パチンと指を鳴らした。
その瞬間、魔弾銃に装填された魔石弾が淡く光り出す。彼の魔力が魔石弾に浸透し、即座にその術式が起動する。
低く囁かれた「凍てつけ」の一言。次の瞬間、スノーウルフの体内から氷の花弁が咲き乱れ、咆哮すら凍りつく音を立てながら、完全に動きを止めた。
同様にスノウベアにも魔石弾を数発打ち込み、魔石弾に付与した魔法を発動させる。
ゴォォォッ――。
凍てつく蒼い魔力がスノーベアを包み込み、一瞬で氷の彫像へと変える。まるで時すら止まったかのような静寂が、辺りを支配した。
他にいた小型の魔獣はベテラン魔法士のゲイルの手によってあっさり討伐されると、しばしの沈黙の後に歓声が湧き上がった。
「クラウス! お前凄えよ! なんだよそれ!?」
「こんなに早い討伐はなかなかないぜ! しかもあの巨大二体相手になんて……」
クラウスはひとつ息を吐き、魔弾銃を静かに下ろした。仲間に揉みくちゃにされながら、クラウスは笑っていた。
(……これで、やっと)
凍てつく空の下、クラウスの頬を涙が一筋伝った。初めての討伐、初めての勝利。そして、誰かの役に立てたという確かな実感――。
気づけば彼は、泣き笑いのような顔で仲間に担がれていたクラウスは、そのまま空を仰いでいた。
効果が実証された魔弾銃。それはすぐにファーガスト家によって生産された。魔法使いの手を借り、兵士達の魔力と、魔弾銃の付与魔法とを魔力を結びつけると、個人専用の魔石弾が次々と造られていった。
そうして、魔弾銃を使用した訓練が始まり、討伐での魔法使いの不足は徐々に解消されていき、死人の数も圧倒的に減っていった。
もう何度目かも分からない討伐後、寮へ戻ったクラウスは、ようやくの安堵と共にベッドに身を投げ出していた。頭に浮かぶのは、変える前の未来。
(継母は、俺にまともな食事も与えず、半地下の部屋を自室だと用意した……。討伐で疲れていても、必ず屋敷に戻らされ、雑用や掃除を押し付けられたっけか。それに、義姉のアビーは俺に近づいてくるのをやめず、夜、部屋に何度も呼び出されてた……)
思い出すだけで吐き気がしたが、誰にも言えない。これが、クラウスの“家族”の姿だった。
だからこそ、今未来が変わってよかった。
伯爵家没落の責を負って、これから彼女達は落ちていく。今世でもいい思いをしたのだから、これくらいは許して欲しいものだ。
あれからミレイユは、伯爵家の残された財産を食い潰す勢いで散財した。とは言え今季の税収は父が亡くなる前よりも上がっている。
そうなる様に手を回していたのだ。その違和感に彼女は気づいている様子は無いと、残って貰った何人かの使用人たちから聞いている。
クラウスの討伐給を目処に贅沢三昧の日々を送っているらしいが、クラウスの討伐給は本来の半分以下しか入れてない。
何度か屋敷に戻る様にという要請と共に、金額が少ないと言う苦情の手紙が来た。全て無視しているせいか、連絡が止むことはないが時間の問題だろう。
そろそろ首が回らなくなりそうだ。と使用人から連絡があったのを機に、クラウスは最後の計画の仕上げに取りかかった。
(長かった……)
ラングレー家に縛られて生きる人生はようやく幕を閉じる。その前に、久しぶりに連絡をくれたエマとご飯でも食べようかと、クラウスは一通の手紙を綴った。
「久しぶりに、君とご飯でも食べたい」
長い冬の終わりを告げるように、彼の心にも、ようやく春の気配が差し込み始めていた。