【04】義姉
※1−4話は改稿版です。過去の読了済みの方も楽しんでいただけたら幸いです。
「クラウス様。よろしければ、これからお茶をご一緒に――」
それはアビーの声だった。
クラウスは振り返らなかった。わずかな沈黙の後、声だけを返す。
「あいにく、旅の疲れが残っているようです。申し訳ありませんが、またの機会に――」
クラウスはそのまま部屋へと戻った。
晩餐は、笑顔だけが満ちた奇妙な時間だった。
ミレイユ夫人はクラウスの士官学校での様子を細かく尋ねてきたが、どれも「表面」だけを撫でるような質問ばかり。
アビーとエドガーは、ナイフを動かす以外に口を開かない。だが時折、皿越しにクラウスを観察するような視線を投げてきた。
クラウスもまた、最後まで視線を合わせることなく、静かに席を立つ。
入浴を済ませ、久方ぶりの自室で寛いでいると――部屋の扉が静かに叩かれた。
クラウスは静かに息を吐き、手元の本を閉じる。扉のほうへ目を向けながら、胸の奥に微かなざわつきを覚える。
――嫌な予感がした。
「……どなたです?」
「クラウス様。アビーです。お話、少しだけ……よろしいでしょうか?」
控えめだが、甘さを含んだ声が聞こえてきた。このタイミングで来るとは――見事というべきか。
だが断れば、あとで何倍にも面倒になる気がして、クラウスはしぶしぶ腰を上げた。
ドアの隙間に立つアビーは、月明かりでも透けそうなほどの、薄物のドレス。寝間着にも礼装にも似つかわしくない、透ける薄物のドレスだった。
手にした銀盆にはティーカップが一つ。作り笑いを浮かべて、わざとらしいほど優雅に盆を掲げてみせた。
「旅の疲れには、甘いものが効くそうですわ。ご就寝の前に、ぜひと思いまして……」
クラウスが拒む隙もなく、アビーはすでに一歩、部屋の中に足を踏み入れていた。彼女がそこにいるだけで、室内の空気がぴんと張り詰める。
アビーは迷いなく椅子に腰を下ろした。クラウスは戸口から動かず、その距離を保ったまま彼女を見下ろす。
肩が透けるほど薄いドレスは、室内の灯のもとで余計に下品に見えた。夜会でもないのに、なぜこんな格好を――いや、理由など最初から明白だった。
「クラウス様って、噂よりずっと素敵ですね。凛としていて、少し冷たそうなのに、切れ長の目には色気があって……。それに士官学校に通っていて強いなんて、本当に憧れちゃいます。クラウス様が新しい家族だなんて、私はすごく嬉しいんです」
クラウスはその言葉に、表情一つ変えず応じる。
「お褒めに預かり光栄ですが、明朝には発ちます。顔合わせ以上のことをするつもりはありません」
淡々と答えるクラウス。
彼女の視線はクラウスの顔から首元へと滑り、微笑んだまま続けた。
「正装姿も素敵でしたけれど……ラフなお姿もいいですね。それに、そのピアスもチョーカーも……まるで首輪みたいで、とてもお似合いだし。……黒髪に、琥珀色の瞳……本当に、綺麗なお顔をされてて。男の人なのに、ちょっとずるいわ」
思わずクラウスは喉元に手をやり、黒革の細いベルトタイプのチョーカーを指先でなぞる。
クラウスからすれば明確な侮辱だったが、彼女はそれに気付いていない。今口を開いたら、うっかり暴言をはいてしまいそうだ。やり場のない気持ちから目を背け、クラウスは沈黙を保った。
アビーは細い指でテーブルの縁を撫でながら、さらに声を潜める。
「私たち……血は繋がっていませんものね?」
クラウスの目がわずかに細くなる。
「……だから?」
「もう! なんで気づいてくれないんですかぁ!? 私、クラウス様のような人がタイプなんです」
その言葉に羞恥やためらいはなかった。ただひたすら、まっすぐに。まるで「今夜しかない」と言わんばかりの熱と焦りがにじんでいた。
「本当は……もう少し、うまくやっていけたらと思ってたんです。でも、明朝には発たれると聞いて、いてもたってもいられなくって……」
芝居がかっている。それは分かる。
けれど目の奥だけは、読み切れない何かを孕んでいた。クラウスは無表情のまま扉を開け、冷たく低い声で言い放った。
「……アビー嬢。私はあなたを義姉としてしか見られない。出ていってくれ」
アビーは笑みを保ったまま、ゆっくり立ち上がる。
「ふふ。怒られちゃった……でも、その顔も素敵です。私、こういうのって……運命だと思うんです。次の帰省、楽しみにしていますね」
彼女は一礼すると、まるで舞台を降りるようにすっと部屋を出て行った。クラウスは扉を閉め、その場に立ち尽くす。
胸に重く沈む奇妙な感覚が残った。冷たい何かが背筋を這い、ぞっとするようだった。
――あの目に浮かんでいたのは、恋などではない。
それは、執着。欲望。そして、狂気に似たなにか。不快な残滓が、部屋の空気にまだ残っていた。
***
身支度を整え、クラウスは最寄りの教会へと足を向けた。平日の午前中。ひんやりとした空気が張りつめた礼拝堂には人影ひとつなかった。
ステンドグラスから差し込む光が、床に淡い彩りを落としている。足音を殺して扉を開くと、見慣れた神官が顔を上げた。
「お久しぶりですね、クラウス様。……あれ? 少し、背が伸びたような?」
「ご無沙汰しております、リリア様。……いえ、変わらないのですが……」
リリアは、どこか気まずそうに微笑んで、首を傾げた。
「あ、はは……なんだか、凛々しくなった気がして」
そう言いながら、彼女はクラウスを休憩室へと案内する。小さな部屋には、すでに神官長ミエールが腰かけていた。優しく微笑み、クラウスを手招きした。
「お久しぶりです、クラウス殿。おや、しばらく見ない間に少し背が伸びました?」
「そう……かも、しれません」
二度目の言及に、さすがに否定する気も起きず、曖昧に答えると、リリアはミエールの背後で微かに笑みを浮かべた。
「魔石の研究は順調ですか?」
本題に入ったクラウスに、ミエールは頷き、落ち着いた口調で答える。
「信頼のおける魔法使いに依頼しましてね。こちらでも解析を進めています。それと、近いうちに、設計いただいた魔弾銃と魔石弾の試作品をお届けできるかと」
クラウスが独力で設計した魔弾銃。
専門家ではない彼にとって、専門書と向き合いながらの作業は苦労した。
思い通りに仕上がるか、不安は尽きなかった。
「ありがとうございます。本当に、心強いです」
「いえいえ。ただ、こちらの魔石の備蓄はその試作で尽きてしまいますので、今後は入手の目処が課題になりますね」
「……僕のほうも、いただいた分は、もう残りわずかです」
と、そこでクラウスの表情が、ふと曇る。
「……それと、少し報告が」
「どうされました?」
ミエールの声は柔らかいが、目が鋭さを帯びる。
クラウスは父の再婚と、継母やその子どもが“啓示”と同じ名であることを静かに伝えた。
「そうでしたか。北部でも話題になっていますよ。あのラングレー伯爵が再婚とは……まさに奇跡のような出来事でしょう、とね」
「……はは。確かに」
クラウスは苦笑いを漏らした。
あの男――ラングレー家当主にとって、“家庭”など存在しない。家督と名誉、それだけがすべてだった。
「今のところ、啓示通りに物事は進んでますが……。魔石やライラの件は変わっています。引き続き、情報共有を行い進めていきましょう」
「よろしくお願いします」
神官長に頭を下げたあと、クラウスは礼拝堂へ戻った。静寂の中、祭壇の前に立ち、手を組む。
女神像を見上げると、心の内がすっと静まっていくような気がした。
(……疑って、すみませんでした。どうか、僕たちを……お守りください)
心の中で祈りを捧げるうちに、揺らいでいた心が次第に静まり返り、胸の奥にひと筋の強い決意が灯った。
その後士官学校へ戻ったクラウスは、魔石を使った実験を繰り返しながら、エミールと成果を共有し合っていた。
魔石への条件付与が成功し、小さな魔石でも多くの魔力を保持できるようになったのは、大きな進展だ。これだけでも研究は確実に前に進んでいると実感できた。
*
そして季節は流れ、士官学校の一年が終わり、進級後の基礎体力テストが実施された。
掲示された順位表を見て、クラウスは小さく肩を小さく落とし、悔しさと自分の限界を突きつけられたような重い気持ちが胸に広がった。
(……やっぱり落ちたか)
基礎体力の底上げに加え、魔法による身体強化も重ねて臨んだ今回のテスト。実験を通して魔力制御の技術もかなり上達したはずだった。
だが、クラウスの身体は筋肉質とは程遠い。細身で華奢。身体強化で稼げる項目はあったが、それ以外の種目では点が取れず、全体順位は落ち込んだ。
周囲を見渡せば、筋肉のついた逞しい体格の生徒が増えている。
体格の差が、得点差に直結する段階へと来ていたのだ。魔力による強化だけでは、やがて限界がくるだろう。
父がこの結果を見て何か言ってくるとは思えないが――せめて、二十位以内に残れたことを自分でよしとしたかった。
ふと、自分の名前の下に記された名前に目が留まった。
(エマ・ファーガスト……?)
ほぼ僅差で並んだ彼女のファミリーネームに、何処か聞き覚えがある気がしたが……どうにも思い出せなかった。
「クラウス、どうだった?」
声をかけてきたのはグレアムだった。クラウスは短く答える。
「……落ちてた」
「あちゃー。だよな。それ、俺も」
グレアムもクラウスと似たような背格好をしており、どちらかと言えば小柄な体つきをしている。似たような順位に沈んだ者同士、互いの健闘を労う。
クラウスは、気になっていた名前について尋ねた。
「ファーガスト? んー……知らねぇな。そんなやつ、いたか?」
グレアムも首を傾げる。そのとき、二人の背後に人影が現れた。
「そいつ、留年してたって噂だぜ。兄貴が討伐任務中に怪我して、その間、代わりに出てたって。さっき誰かが話してた」
クラスメイトの一人が、噂話を携えて割って入る。この閉鎖的な士官学校では、ちょっとした話題もすぐに知れ渡る。
(兄の代わりに、討伐任務……?)
クラウスの眉がわずかに動く。
討伐中の怪我なら、その間は義務が保留されるはずだ。
しかも神官は、なるべく完治させず、自然治癒とリハビリによる回復を推奨するのが通例――。
(何か……事情があるってことか)
理由は定かでないが、確かに異例だ。
そんな中、グレアムがぽつりと漏らす。
「てか、もう実戦出てんなら、士官学校に来る意味なくね?」
「……たしかに」
その言葉には妙な説得力があった。
話はそのまま途切れかけたが、思い出したようにグレアムが言う。
「あ、そうだ。クラウスに郵便届いてるって。教官が伝言くれてた」
「ありがとう。行ってくる」
――多分、エミールに頼んでいたあれだろう。
足早に郵便受け取り窓口へ向かうと、A4サイズの膨らんだ封筒が二つ、彼の名義で預けられていた。その場で封を切れば、中から現れたのは――待ち望んでいた、魔弾銃。
それに、思わず顔がほころんだ。
頬が熱を帯びる。まるで誕生日のプレゼントをもらった子供のように、嬉しさがこみ上げてきた。
同時に、エミールの凄さを改めて思い知らされた。士官学校では郵便のやりとりは無条件に検閲される。それをパスして届けられたのだ。彼の名だからなせる物なのかもしれない。
「……そんなに素敵な贈り物だったんですか?」
不意に声をかけられ、クラウスはハッと我に返る。受付の女性が不思議そうにこちらを見ていた。クラウスは照れ隠しに頬を掻きながら、小さく答える。
「……ええ。ずっと、心待ちにしてたので」
にこり、と笑うと、受付嬢はわずかに目を逸らし、ぎこちなく微笑んだ。
「それは良かったです。……ご返信が必要でしたら、またいつでも」
「ありがとうございます。また来ます」
軽く手を振って別れると、クラウスは自室に寄り、荷物を手に取るや否や訓練所へと駆けていった。