【01】啓示
※1−4話は改稿版です。過去の読了済みの方も楽しんでいただけたら幸いです。
北部の貴族には、魔獣討伐という過酷な義務が課されている。クラウスは、その現実に、すでに押し潰されていた。
(さっさと南部に逃げて……自由に暮らせば良かった……)
薄れゆく意識の中で蘇るのは、辛い記憶ばかり。
北部を治める貴族の一つ、戦闘狂と名高いラングレー伯爵家での暮らしに、良い思い出など片手で足りるほどしかなかった。
裂かれた腹の痛みは、次第に遠のいていく。
どこかでスノーウルフの咆哮が響いた。冷たい風が肌を刺しているはずなのに、その感覚すら薄れていく。
(……せめて、髪を……)
震える指で、凍えた短剣を引き抜き、髪の根元に刃をあてる。
だが――切った先を投げる力が、もう残っていなかった。握り締めた髪束が、手の中でゆっくりとこぼれ落ちていく。
雪はすべてを覆い隠す。黒髪も、血の跡も、希望も、跡形なく呑み込んで。
(ここで死んでも、誰にも……)
真っ白だった視界は、やがて静かに、闇へと沈んでいった。
***
クラウスは、混濁する意識の中で目を覚ました。混乱する頭を押さえ、必死に状況を整理しようとした。
(ここは……?)
見知った天井。静かな空間。教会の独特な乳香の匂いが鼻についた。クラウスは震える手で身を起こし、周囲を見回す。
(討伐先で死んだはず……。でもここは屋敷近くの教会の礼拝堂……。そうだ。たしか、母上の見舞いのついでに立ち寄った……?)
確信は持てなかったが、体に痛みはない。それに着ているのは軍服ではなく、今朝侍女に勧められて選んだシャツとスラックス――日常の服だった。
着心地の差に戸惑いながら、クラウスは髪へと手を伸ばす。首元で結ばれていた髪が、冷えた指の間を静かに抜けていく。
(目印のために切った髪まで――)
北部では、雪崩や遭難に備えて髪を長く保つ習わしがある。万が一の際は切り落とし、雪原に投げて目印とするのだ。
「――生きてる……?」
視界の端に、クラウスを見つめる神官リリアの姿に気がつきた。
「目が覚めたんですね! よかった……!」
安堵する彼女を他所に、スノーウルフに腹を抉られた鮮明な体験がクラウスの脳裏をよぎる。
「クラウス様?」
「……ん、ぐっ」
両手で口元を押さえても、こみ上げる吐き気は止まらない。胃の奥から突き上げる衝動に、目尻には自然と涙が滲んだ。
(まずい……!)
次の瞬間、リリアが広げた修道技のベールが目の前に差し出される。とっさの判断だった。クラウスはそこに思い切り吐き戻した。
震える背を、リリアは何も言わずにさすり続けてくれていた。
*
「すみません……」
関係者用の休憩室に案内され、ソファに向かい合って腰を下ろすクラウスとリリア。洗濯場から戻ったリリアの頭にはベールがなく、肩で揃った桃色の髪が彼女の愛らしさを際立たせていた。
「落ち着かれましたか?」
「はい。お騒がせしてすみません……それにベールも、すみません」
「そろそろ洗濯しようと思っていたので、ちょうど良かったですよ」
人の吐瀉物を受け止め、介抱してくれた上にこの気遣いと笑顔。
顔を赤らめて俯いたクラウスは、心の中で“女神とは彼女のことだったのか”と、どこか本気で思っていた。
「それより痛むところは?」
「どこもありません。ただ……少し混乱していて。倒れる前に何をしていたか……」
「お母様のご体調が良くなるようにと、熱心にお祈りされていましたよ」
リリアの言葉に、クラウスはわずかに状況を掴んだ気がした。
そのとき、休憩室の扉がノックされ、彼女の応じる声とともに静かに訪問者が現れた。
「……え?! 神官長様?!」
リリアは驚きの声を上げ、俯いていたクラウスも「神官長」の言葉に顔を上げた。
「そんなに驚かれると傷つくんだけど……。二人はここで何をしてるんだい?」
傷ついた様子など微塵もなく、神官長のエミールはにこりと微笑みリリアの隣に腰を下ろした。
エミールは純白の祭服を纏い、銀の長髪を緩く結っていた。その姿はまるで彫刻のように整っている。すっと通った鼻筋、薄い唇。
切れ長の深緑の瞳は、人の心を見透かすようなその何かを孕んでおり、クラウスはどこか彼の瞳が苦手だった。
エミールは、ラングレー伯爵家の治めるスコルド領都心にある大聖堂の常駐者だ。北部全体の教会の頂点に立つ彼は、祭事以外で地方の小さな教会にいることなどまず考えられない。今の時期にエミールが参加する祭事の予定はないはずだった。
「クラウス様が、お祈り中に突然苦しみ出したかと思ったら、倒れられて……」
「なるほど……。礼拝中に……。クラウス殿、もしや、なにか視られませんでしたか?」
「……みた?」
クラウスは少し首を傾げてエミールの言葉の意味を考える。
確かに今の状況からしたらありえない記憶が自分の中にあった。
「確かにそう言われれば……。なぜか僕は既に従軍しており……討伐先でスノーウルフにやられていました。とても鮮明に、まるで現実のように……」
クラウスの要領を得ない話に、エミールは嬉しそうに口元を歪めた。
「もしかすると、女神様の啓示を受けたのかもしれないですね」
「女神様の啓示……ですか?」
「ええ。身分や性別に関係なく、礼拝に来られる方で極たまにいらっしゃるんです。ご自身や周りの方の未来を見られたり、礼拝に来ていたのに何故か女性と対話をしていた。という経験をされる方が」
怪しい笑みを浮かべ、深緑の瞳を細めたエミールは楽しそうに説明した。
(あれが……これから辿る未来……。だとしたら、絶対嫌だ……)
「啓示の内容はあまり良いモノではなかった様ですが……。差し支えなければ詳しく伺っても?」
クラウスは話して良いか迷った。父は領主として絶対的な権力者。対して目の前の神官長は、北部一帯の教会の権力者だ。父は圧倒的な敵だが、エミールは……?
――とはいえ、リリアも含め、神官長はクラウスが頼れる数少ない一人であることは間違いなかった。
(そういえば……)
母ライラがエミールは幼馴染だと話していたことを思い出す。それに思い返せば彼も母の共犯者だ。
クラウスが迷っていると、リリアは「失礼しますね」と、教会の管理のため部屋を出ていってしまった。
「話の前に、よろしいでしょうか?」
「ええ。どうぞ」
「神官長様は、なぜこちらに?」
正直に話してくれるかは分からないが、単純に気になった疑問にエミールは即答した。
「なんとなく、ですね。まあ強いていうなら、なにかに呼ばれた気がしまして」
胡散臭い笑みを崩さず答えた彼に、クラウスは内心で側近たちを哀れんだ。とはいえ、彼の言葉が本当なら、これも女神様の采配の一つなのだろうか。
「母が風邪をこじらせて亡くなって、しばらくして父が再婚して……。でも、その父も討伐先で命を落として……。それからは、継母が姉から実権を奪っていました。僕は討伐任務に出される一方で、屋敷では奴隷のような扱いを受けていて……。
挙げ句の果てには、姉を勝手に自分の息子と婚約させて……家は滅茶苦茶でした」
膝の上で組んだ手に力が入ったが、すぐに力が抜けた。クラウスは肩を落とし、項垂れる。
「それは……混乱するのも無理ありませんね。――して、今のライラ様の様子は?」
「それが……。最初はベイト風邪を患ったようで。すぐに満足な治療と薬が用意できず、今は悪化して咳が酷い状態です。――恐らく、肺炎を患っているかと……」
ベイト熱はスコルド領でよく見られる風邪だ。初期に適切な薬を飲めば数日で治るが、体力のない者が悪化すると肺炎や腎炎に進行することも多かった。父からは「そんな下らないことで神官を家に呼ぶな」と言いつけられており、執事長は父の言う事を聞いて、
「なるほど。……このままでは、本当にライラは長くはないでしょうね」
日に日にやつれていく母の容態は悪化の一途を辿っている。しかし、父は屋敷に神官を招き入れることを固く禁じていた。
「話を戻しますが、このまま何もせずに時が経てば、クラウス殿にとっても、この領地にとっても最悪な未来が招かれてしまうようですね。……クラウス殿、せっかくの女神様のお導きです。私とあなたで未来を変えませんか?」
エミールはふふふ、と不敵な笑みを浮かべる。新しいおもちゃを見つけた子供のように、その新緑の瞳を輝かせていた。一方のクラウスの瞳には、自らの命が終わる未来を鮮明に垣間見た不安が、色濃く滲んでいる。
「……出来るでしょうか?」
「私は北部の神官長ですよ」
そう言い放ったエミールは、おおよそ神官長とは思えない悪い顔で笑っていた。
***
「……本当にその姿で行かれるのですか?」
長い銀髪をきちんと結い上げ、控えめに身を飾り化粧を施したエミールは、誰が見てもまごうことなき貴婦人の姿だった。ただ、顔を覆い隠すほど大きなつばの帽子は、この北国では見かけないデザインだ。
その見慣れない姿に、クラウスは疑わしい目つきで協力者を見つめていた。
「何の為に変装したと思っているのですか。それにしても、リリアの腕は凄いでしょう?」
神官長であるエミールは顔が広く、ライラが療養する離れの屋敷の使用人たちも彼を知っている。さらにリリアも最寄りの教会の神官であり、当然顔が知られている。他の神官には任せられないとなると、変装が最も効果的だったのは間違いなかった。
エミールはリリアの腕前を誇らしげに語ったが、クラウスにはそれがリリアの技術によるものか、それとも彼の元々の素材の良さの賜物からなのか判断がつかなかった。
「……そうですね」
うわの空のまま頷き、懐から変声用の魔法薬を取り出す。
自作の品だったが、今の彼にとって、それが効くかどうかはどうでもよかった。
この薬がなくとも、この神官長様なら自力でどうにかしてしまいそうだ――そんな気すらした。